30 フアン
友人たちの来訪の後、時折、フアン・カノが訪ねてくるようになった。ペドロの執務室で二人で話をするとその日の内に馬で帰って行く。
ペドロはタクバの仕事を手伝ってもらうが、それだけだと言う。フアン・カノの方もイザベルを避けているのか、特に話をすることもなかった。
ペドロの体調は、次第に悪い日の方が多くなり、伏せりがちになって行った。友人らに貰った痛み止め薬のほかに、メシカの薬草も試したが、腹や背中の痛みはペドロを苦しめた。
タクバの管理の話はイザベルからは切り出せなくなっていた。ペドロの心に波風を立てたくなかった。
「イザベル… 」
寝込んでいるペドロが、イザベルを呼ぶ。
「なあに?」
「あのさ… 最近、少しふっくらしたんじゃない?」
「そう?」
ペドロはイザベルに手を伸ばす。細くなった腕がイザベルの腹や脇を撫でる。
「… 月のものは、来てる?」
「… 」
ペドロ中心の生活で、自分のことは後回しだった。
「しばらく… 記憶にないわ… 」
「本当に? 赤ん坊、出来てるかもしれない?」
ペドロは目を輝かせる。
イザベルは頭の中で、この数ヶ月を思い起こす。
「そうかもしれない… 」
ペドロはイザベルの手を引き寄せると、その腕に閉じ込めた。
「もし、そうだったら… 嬉しいよ… 」
ペドロがイザベルの背中をさする。
「あなたに言ってなかった一番最後の、本当に最後のお願いだったんだ… 無責任過ぎて、願ってはいけないと思ってた… 」
ペドロが涙ぐむ。
「まだ、わからないわ。ぬか喜びかも…」
「あなたも… 喜んでくれる?」
ペドロが不安そうに訊ねる。
「勿論よ!」
「本当に?」
ペドロはふざけるようにイザベルの顔を覗き込む。
「もう! 私を疑い過ぎよ! 私を気まぐれで気の強いお姫様扱いするのはお終いにして」
「ハハ! そんな風に思ったことは一度もない。傷ついて、心の強張ったお姫様だと思ってた。もう、そうやって自分を虐めないで。もう、ポルボロンって言えるようになったし、幸せを掴めるよ… 」
やっと、ペドロがくれる愛情に近づいた。
自分が単なる褒章なのだというひねくれた思い、愛情を返せないことへの罪悪感、絡まり合っていたものが少しずつ解れたのは、ペドロの献身のおかげだった。
クアウテモクの死の悲しみや、コルテスへの憎しみを少しずつ色褪せさせたのは、見返りを求めないペドロの愛情だった。
クアウテモクに感じていたような、恋焦がれ、全力でぶつかるように愛した、そんな感情ではなくとも、愛と呼んでいいと感じていた。
「もう、幸せを掴んでる… 赤ちゃん… 出来てたら嬉しい… 」
イザベルがそう言うと、ペドロは満足そうに微笑む。
「びっくりしたら、疲れて眠くなった… 口付け… してくれる?」
「ねえ、ペドロ… あなた、聖人のような人よ… ありがとう。愛してる」
イザベルが額に口付けると、夫は安心したように目を閉じた。
§
イザベルのお腹はゆっくりと膨らんでいった。
その一方で、ペドロは寝ている時間が増えていく。
日々の荘園の管理はシウトリが難なくこなしていたが、文書での報告には苦労していた。読み書きはアロやシューマもだいぶできるようになっていたが、報告書類で使う言葉は別だった。荘園の教会の神父は言葉はわかるが、報告すべき内容かどうかの判断は出来ない。隣の荘園主とは利害関係が絡み合っていて、相談など到底出来ない。
そして、ペドロにはもう相談すべきではなかった。イザベルが避けていたフアン・カノを頼るしかない。
月に一度、彼がペドロを訪ねた帰りに呼び止めた。
「いつも… ありがとうございます。ご迷惑でなければ、相談に乗って頂きたいのです」
フアン・カノは驚いた様子だったが快諾し、シウトリとイザベルと共に書類作りをしてくれた。
「ドニャ・イザベル、来月からはこれも引き受けましょうか?」
一区切り付くとフアン・カノが言う。
「ええ… お手伝い頂けるなら、ありがたいです。タクバの件は、どんな決め事でお願いしていますか? 報酬は?」
それについてペドロに聞いても、いつもはぐらかされていた。
「… いいえ。報酬は… 断りました」
フアン・カノは答え辛そうに答えた。
「なぜ?」
シウトリが席を立とうとしたが、イザベルは止めた。
「… うまく説明できません」
「… 私に… 取り入って結婚すれば、財産が手に入るとでも?」
やっと消えた白人への不信感が再燃する。
「まさか!」
フアン・カノはすぐさま否定する。
「今晩はこれで失礼します。ドン・シウトリ… 厩へ案内して下さい」
フアン・カノは立ち上がる。
シウトリは視線で "いいのか?" とイザベルに訊ねる。
イザベルは肯定も否定も出来なかった。
シウトリが先導し、二人は部屋を出て行った。
部屋から動けずにいると、暫くしてシウトリが戻って来た。
「ドニャ… 今日は遅いので、客間に泊まって頂くことにしました。明日、夜明けに出発するそうです。来月からは、私とドン・フアンとでやります。毎月、泊まって頂きます。報酬は来月私が交渉します」
机の上の書類を片付け、シウトリが部屋を出ていこうとする。
「ねえ、どういうことだと思う?」
イザベルはシウトリの背中に訊ねる。
「… ご本人にお尋ねください。ペドロ様とも… 」
シウトリが立ち止まる。
「… うん」
「… 」
シウトリはまだ何か言いたげに振り返ったが、そのまま部屋を出て行った。




