3 ウィツィロポチトリの女
その晩から、テクイチポは腹痛で寝込んだ。
初めて月のものが訪れた。
同年代の中では遅い方だった。これで、子を成せる身体になる。もう、形式的な結婚で済ませられなくなった。
十歳を超えた頃には男たちが自分を見る目に欲望が宿っていると気づいた。両親から譲り受けた体躯と美貌は、男の目も女の目も惹きつけた。
少しでもそれから逃げるため、この数年は膨らんだ胸を隠そうと布できつく巻き上げていたほどだ。
テクイチポは腹痛に苛まれながら、これから為すべき王妃の役割を考え憂鬱になった。
「ねえ、薬草園でクアウテモクが抱いていた女は誰?」
寝台からアロに声を掛けるが返事がない。
「アロ? 知っているのでしょう?」
頭を上げ、アロのいる方に目を向けた。
「テクイチポ様が気にかける必要はありません」
アロは腹痛を和らげる薬草茶を煎れながら答える。
「知りたいの。恋人の一人二人いて当たり前なのはわかっているわ。それに、もう妻も何人かいるのでしょう?」
父の妻の数を考えるとぞっとする。
「あれは、トラテロルコに住む貴族の娘です」
「… 他にも、そういう仲の女はいるの?」
「私は、他には存じ上げません。奥方はいらっしゃいますが、一緒には暮らしていないかと… お若いですが、戦神と呼ばれ、戦地を駆け回るお方です。妻をたくさん持って、贅を尽くすということはないようですよ。奥方は、今はお一人だと思います。いずれにせよ、ここには、テクイチポ様より高位の者はおりませんから、お忘れください」
女の肩に彫られた軍神ウィツィロポチトリの刺青が脳裏に蘇る。
二人の艶めかしい姿まで思い出しかけて、テクイチポは掛布を頭まで被った。
翌日、腹痛に苛まれながらも、外せない王妃の役目として、祭壇に供される生贄の確認に赴いた。
地下牢は悪臭に満ちていた。数ヶ月前の戦いの捕虜が押し込められている。この期間に命を落とす者もいたが、健康な者には食事を与え、祭礼の日まで生きながらえさせ、生贄にする。
候補の者を集めた牢の前で足を止める。捕虜の中でも特に健康な男たちで、白人と白人に加担した部族の者だった。テクイチポは検分すると神官に首肯いて見せる。
隣の牢は、女と子どもの牢だった。女の中には、赤子を抱いた者もいる。彼女らは一様に怯えた目でテクイチポを見つめる。
「女や子どもは明日必要?」
神官に問う。
「いえ、当面は」
「ここにいる経緯を確認して後で報告して」
指示すると神官は頷いた。
「手前の母と子は… 離宮の奴隷に」
目に入ったその親子は健康だった。父が白人なのか、子の肌色は薄かった。
戦争捕虜だとしても、赤子を抱く女を捕虜として不衛生な牢に置くことは躊躇われた。
「明日の球技場の参加者も、ご確認頂き、お声がけ下さい」
検分が終わると、神官と共に上階に上がる。
パンケツァリストリの祭祀では、貴族と市民の代表が球技場で長時間戦う。その参加者になることは名誉なことではあるが、命を落とすものも多数出る。
これは捕虜ではなく、貴族と市民から代表が選ばれる。そのため地下牢ではなく、普通の部屋があてがわれ、祭祀が始まるのを待っている。
上階の大部屋に市民の代表たちと貴族の代表たちが別れて待機していた。市民代表の部屋を訪問し、彼らを労い、神聖な祭祀を成功させるよう声を掛けた。
そして、貴族代表の部屋に赴く。
同じように話をし、部屋全体を見渡す。
「ッ… 」
忘れがたいウィツィロポチトリの刺青がテクイチポの目に飛び込んできた。
「何故、女が?」
テクイチポは小声で神官に訊ねる。
「彼女の一族は、他に男がいなかったのです。先の白人討伐で、クアウテモク様の元、先陣を切った一族で」
女は長い髪を切り、男たちと同じ装いをしていた。
「あれも、離宮に… 」
反射的にそう呟いた。ウィツィロポチトリの女は、テクイチポを強い眼差しで見つめ返す。
母子とウィツィロポチトリの女を後ろに従え、離宮に向かう。
「テクイチポ様… 」
背後からウィツィロポチトリの女が小さく呟いた。
男に混じって球技場に出ても、すぐに標的にされ死んでしまうに違いない。
「… 三日は離宮で匿う。その後は、トラテロルコには戻らぬよう。テノチティトランにも戻って来てはならぬ」
振り返らなかったが、女は承知したようだった。
連れ帰ってきた母子は身体を清めさせ、離宮の一角の宿舎をあてがった。使用人の中には、小さな子がいる者もいる。彼女らは、互いに子の世話と仕事のやりくりを助け合うことができる。
「テクイチポ様、今日の二人を連れて参りました」
アロが告げると、乳飲み子を抱いた女が静かに入って来る。
「何故、あそこにいたの?」
「… 一年半前、先代の王の時代にテスココにおりました。その時の戦乱で白人に捕まり、奴隷になりました。その後の戦でテノチティトランの戦士に捕まりました」
「テスココでは、何をしていたの?」
「カカマツィン様の屋敷で通いの使用人をしていました。夫は、カカマツィン様の軍におりました」
白人に徹底抗戦したカカマツィンの兵の家族であれば酷い扱いを受けたに違いない。
「テスココに帰りたい?」
カカマツィンの使用人ならば、テクイチポならこっそりと帰してやることもできる。
「いいえ。息子は、白人に孕まされて生みました。子どもに罪はありませんが、夫が… 今生きているかどうかもわかりませんが… 息子を夫に会わせることはできません… だから、帰りたくありません」
女は涙を流す。
赤ん坊は、混血の子で色白で、赤ん坊らしからず目鼻がはっきりしていた。
「では、ここにいなさい。ここにいる限り、あなたは奴隷の身分にしかしてあげられないけれど、息子は自由よ。それでいい?」
「ありがとうございます」
女は涙を拭い、答える。
「名は?」
「タキと申します」
「息子は?」
「まだ、名をつけていません」
「つけなさい… あなたの家族だもの」
乳飲み子ではあるが、随分と大きい。名を付けられなかったのは、彼女の中で赤子を家族と認めるかどうかの結論が出なかったのだろう。
「では… 恐れ多くはありますが、テクイチポ様のお名前に因んで、シューマと名付けてもよろしいですか? テクイチポ様に助けて頂けなければ、命を失っていた運命です」
テクイチポの名には、綿花の意味が含まれる。女の言った名前は、綿を意味していた。
「構わないわ。愛してあげて… 」
タキは深々と頭を垂れると、アロに連れられて部屋を出て行った。