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メシカ最後の王妃の恋  作者: 細波ゆらり
第三章 テノチティトランを離れて
27/41

26 オセロメーの帰還



 メヒコ市から馬車で二日離れた荘園に、イザベルはペドロと共に移り住んだ。市街地からのその距離は、妊娠しているイザベルを社会から一時的に切り離すのに充分だった。


 ペドロは、ヴェチーノの仕事や、イザベルのタクバの荘園を管理するために、メヒコ市と行き来した。

 ペドロは忙しくしていたが、街に出るたびにイザベルに土産を買ってくる。




「いくら、お腹の赤ん坊の分だと言っても、これは多いのでは?」

 イザベルは大きなお腹をさすりながら、目の前に並べられた焼き菓子を見つめてペドロに言った。


「これは、ポルボロン。前に話したでしょう? 七百年間、異教徒と領土争いをしたって。これは、その時の産物」

 ペドロは、皿から一つつまむと口に入れた。


「もともとは、南の大陸の菓子だったんだけれど、彼らが持ち込んだおかげで、今や僕の街でも大人気の菓子なんだ。メヒコには、南部の出身者が多いからね。最近はここでも売っているんだよ」


 イザベルは、一つ手に取る。


「待って! 口に入れたら、形を崩さないように"ポルボロン"って三回唱えてよ。崩れなかったら、幸せになれるって言われてる」


 イザベルはペドロの言うがままに、唱える。


「… 崩れちゃうわ」

 口の中は甘いクッキーの欠片でいっぱいになる。

「だから、たくさん買って来たんだ。練習して」


「え? 練習?」

「幸せになれるようにね」


 ペドロはいつでも、イザベルを笑わせよう、喜ばせようとする。結婚して数ヶ月、当然ながら寝室は別であるし、一緒に暮らす友人同士のような関係だった。


「僕は、三回言えるから、お姫様と結婚できたんだと思ってるよ。子どもの頃から練習した甲斐があったよ」

 イザベルをお姫様(プリンセサ)と呼び、ペドロは好意を表現する。それは、まるで子どもがするような愛情表現で、イザベルが拒みたくなるような性質のものではなかった。



「あと… これ… 」

 革の鞄から、麻袋を取り出す。


「なに?」

「… 市場で探したんだ。アマランサス!」


「売買も、生産も禁止されたのに?!」

 アマランサスは、メシカの祭祀の際によく使われた穀物だ。信仰と結びついた食べ物だからという理由で、白人たちは栽培も流通も禁じてしまった。


「栄養があるんだろう? 奥様に食べさせたいわ〜、なんてタキが喋ってるのを聞いたのさ。まあ、僕は裏市場にも顔が利くってことをタキに自慢できるしね」

 ペドロはいつものように大口を開けて笑う。


「ありがとう… 」

 イザベルのお腹の子は自分の子でもないのに、ペドロは優しい。アロやタキなど、イザベルの周りの使用人のことさえ、家族のように扱う。

 クアウテモクと同じぐらいの歳のはずだが、全く違う時代、違う世界を生きているような人だった。


「お姫様のためなら、お安いご用だよ」

 ポルボロンを口に入れながらペドロが答える。

 アマランサスだけの礼のつもりで言ったわけではないが、彼の軽妙なお喋りをあえて真面目な話に変えようとは思わなかった。


 それ程に居心地がよく、イザベルの人生で、幼い時以来の穏やかな日々だった。





   §





 イザベルのお産までおよそ一月余りとなった頃。


「… シューマ?」

「起こして、すみません」

 長椅子で休んでいたイザベルに掛布が掛けられ、微睡から覚めた。

 タキの息子シューマは八歳になり、大人たちの周りでただ遊ぶだけの時期は過ぎ、次第に屋敷の中で戦力になっていた。


「ありがとう」

「背中をさすりますか?」

 腹が大きくなり、腰や背中に痛みが出るようになった。辛い時はタキにさすってもらっていたが、それを見たシューマも手伝ってくれるようになった。


 イザベルは長椅子の上で横を向き、背中をシューマに向ける。


「ドニャは、赤ん坊に会うのは楽しみですか?」

「ええ」


 出産が近づくにつれ、内心ではシューマと顔を合わせるのは気まずかった。シューマも望まれて生まれた子ではない。イザベルはタキと同じような決断をすることはできないだろう。

 それは、シューマの心を傷つけるに違いない。楽しみかと問われて、本心は言えなかった。背中を向けているときに問われたことにほっとした。



「ドニャ、母と僕をお傍に置いてくれなかったら、僕たちは生き延びなかったと母から聞きました。僕には、ドニャやアロ、それにドン・ペドロは家族です。血は繋がってなくても、家族と思っていいですか?」

「もちろんよ」

 イザベルもそのつもりで、タキ親子を連れて来た。二人が望む限り、側に仕えてもらうつもりで。


「母は、お腹の赤ちゃんを愛せることも愛せないこともある、と言ってます。ドニャは大変なんだって。だから、赤ちゃんが僕たちの家族になるかはわからないって」

 シューマは、この赤ん坊を家族にしようと言うのだろうか。だとしたら、何と答えたらよいかわからない。大人たちの中で育ってきたシューマは、大人が取り繕った返事をすれば、すぐに見抜いてしまうだろう。


「赤ちゃんにも、僕みたいに家族ができたらいいな、と思います。この家じゃなくても。僕たちには、ドニャの方が大事です」


 イザベルはシューマに背を向けたまま、泣いた。




   §




 そして、突然にオセロメーがやって来た。


「テクイチポ様、長らくの不在、大変申し訳ございません」

 タキの案内で、こっそりとイザベルの部屋にやってきたオセロメーは、イザベルの前で床に膝をつく。



「無事で何よりよ! 会えて嬉しい」

 オセロメーもまた、イザベルの家族だった。クァクァウティンが今際の際に、オセロメーが戻ると言ったと聞いていたが半信半疑だった。

 抱擁して受け入れたかったが、腹が邪魔してできなかった。


「私も、クァクァウティンと共に市内にいた時期もあったのですが、クアウテモク様たちがイブラエスに出発してからは、隠れて同行していました。クアウテモク様をお助けできず、申し訳ございません… 」


「… いいのよ。あなたのせいじゃない。クァクァウティンだって、何度も説得しようとしたの… 彼は… 受け入れていた… 」

 イザベルの涙が溢れそうになると、アロが手にハンカチを握らせる。


「テクイチポ様… クアウテモク様から賜った任務は全て完了しました。どうぞ、次の任務を… 」

 テクイチポと呼ばれることはほとんどなくなった。傅かれることも、もうなくなった。クアウテモクの与えた仕事によって、オセロメーの時間を止めてしまったのだと気づいた。



「… もう、お終いよ? 私たちの国はなくなったの。私も王妃じゃない。イザベルだもの。長く… 仕えてくれてありがとう。もう… あなたの新しい人生を生きて… 」

 彼らの任務を始める時、絶対に裏切らないという約束とともに、彼らは彼らの自分の人生を王妃に捧げた。それは、もう終わったのだ。


「… 終いになどできやしません… アロやタキだって、今もあなたに仕えているではありませんか」

 オセロメーは、イザベルの近くに控える二人に目を遣る。


「二人にも、同じ話をしたわ。私のところに残っているのは、二人の意思よ。タキももう奴隷ではないの。形式的には私の荘園に属しているけれど… 私の荘園にいる間は改宗は急がなくていい。私が二人を守れるからここに残ってる。でも、あなたは自分で身を守れるわ」


「… 私の家族はここにいると、今も思っています。私もここに置いてくださいませんか?」

 オセロメーと最初にした約束は、オセロメーの家族になることだった。


「… ありがとう。私にとってもあなたは今も兄のような存在よ」

 オセロメーは、イザベルの手を取り、額につけようとする。


「その仕草も、もうお終い。するなら… 握手かしらね?」

 オセロメーはイザベルの手を両手で握りしめる。


「夫に会って、彼と相談して。ここに残ってもいいし、あなたが貴族として土地の委託を受ける方法を彼なら見つけられるかもしれない。何しろ、私のためにアマランサスを買って来るような人だから」

 イザベルが笑うとオセロメーも笑った。


 知り合って以来、イザベルに身元を明かさなかったが、オセロメーは、貴族の息子であるはずなのだ。生き残った数少ない貴族の息子たちは荘園を持ち、カシケという身分で、住民貴族の評議会に参加することもある。オセロメーが望めば、そんな生き方だってできるはずだ。


 オセロメーは久しぶりの家族たちと再会を喜びあった。



 そして、ペドロは突然現れたオセロメーを無条件で受け入れ、ペドロを補佐する役目として、オセロメーは荘園に残ることになった。





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