2 夫の死と三人目の夫
婚礼の晩の心配は杞憂で終わった。クィトラワクは、毎日、毎晩、対白人戦に備えるために奔走した。彼を王に推した貴族や神官たちの期待に応えるため軍を再編成し、同盟都市をまとめ上げた。
周辺都市、部族の協力は五十万人を超える勢いだった。
彼が精力的に軍備を整えた時、突然の知らせがやって来た。
「テクイチポ様!」
テクイチポがいる宮殿の一室に、若い使用人のアロが駆け込んできた。アロは、テクイチポが生まれる前に生まれた異母姉だった。
父王は百人ほどの妻がおり、妻たちは出自によって序列があり、異母兄妹であっても、待遇は全く違う。アロは彼女の母の身分のために、幼い頃からテクイチポに仕えている。
「クィトラワク様が、高熱を出されています」
「え? まさか… あの流行り病?」
流行り病というのは、白人からもたらされた新しい病だ。戦士や市民から流行し始め、それは次第に宮殿内にも広がっている。
「今は発熱だけですが、近臣で発症者がいるため、発疹が現れるのも時間の問題です… 」
テクイチポは驚いて手にした盃を落としそうになる。
「回復する?」
「今のところ、生き延びるのは半数以下と言われています」
アロが小さく答える。
軍備の再構築はクィトラワクが担っている。彼が一線を退くことになれば、再び混乱を招くことになるのは間違いない。
「他の王族や将軍には?」
「広がってはいないと聞いていますが… いずれにせよ、宮殿内にもかなりの罹患者が出ています。テクイチポ様も安心はできません」
夫婦と言えど、寝室を分けており、昼間も接触する時間はほとんどなかった。しかし、宮殿は多くの人が出入りし、使用人たちも体調不良を理由に、最近は頻繁に入れ替わっている。
「テクイチポ様の寝室は離宮にご用意します。準備ができ次第、本宮を離れましょう… 」
アロはテクイチポの荷物をまとめ始めた。
アロの手配により、離宮は数人の使用人と母に仕えていた戦士たちで固められた。また、使用人と戦士たちは本宮との接触を控え、家族の住む自宅にも帰らず、テクイチポを流行り病から守り通した。
クィトラワクは戴冠から二ヶ月で病死した。テクイチポは本宮を離れてから一度もクィトラワクの顔を見ぬまま、彼は埋葬された。あっけない最期だった。
王宮内の病の流行も一旦収束し、離宮の一室に隔離された生活は終わったが、テクイチポが自由に出歩ける唯一の場所は離宮の庭だ。
テクイチポが庭で探しているのはキノコだ。
今後何があるかわからない。男は戦いの教育を受けるが、女たちは無力だ。死に掛けた六月三十日の晩を思い出すと、何でもいいから、身を守れるものが欲しかった。幻覚作用よりも、もっと強く即効性の神経毒のあるものはないかと探す。
庭の日の当たらない茂みを丁寧に手で掻き分ける。
宮殿内は、後継者選びで慌しい。しかし、女のテクイチポに出る幕はない。大した情報も掴めず、また掴めたとしても出来ることはない。
クィトラワクの後継は、父方か母方の叔父になるに違いない。そして、最高位の女性の王族であるテクイチポはまた、新王に嫁ぐことになるのだろう。
テクイチポは王女とは名ばかりの、玉座に繋がれた飾りだ。権力を裏付けるための王妃だった。
目頭に溜まる涙を手の甲で拭うと、一心不乱にキノコを摘んでゆく。
「そんなにテオナナカトルばかり摘んでどうするんだ?」
突然、背後から男の声がする。
無言のまま振り返ると、背の高い美しい若者が立っている。
思わず、籠の中のキノコを布で隠した。
「… 」
庭の隅に立っている戦士に目をやるが、胸に手を当てたまま動かない。
「テクイチポ… 久しぶりだな」
敬称なしにテクイチポと呼ぶその男に見覚えはない。
「わからないか… トラテロルコ太守、クアウテモク。きみとは、何年ぶりだったか… 」
テクイチポは息を飲んだ。母方の叔父であり従兄弟だ。彼が新王なのだろう。縁戚であっても、テクイチポら未婚の王女は男性の親族と顔を合わせる機会は多くない。
それも、軍事に携わる王侯貴族らは、ここ数年は、王宮に長居することなく、戦地を行き来している。白人らを遠く東方に退却させたのも彼らの功績だ。
クアウテモクは、軍事の長に就任したと聞いていた。クィトラワクの早すぎる死がなければ、その役職で経験を積み、いずれ王を目指せる立場だ。しかし、今、クィトラワクの後を継ぐには、前例がないほど若い。
「記憶になくて、申し訳ありません」
テクイチポは後退る。
「いや、子どもだったのだから、覚えているわけもない」
クアウテモクはテクイチポから数メートルのところに腰を下ろした。
「それで、そんなにキノコが好きなのか?」
「いえ… 」
クアウテモクはトラテラルコで最も優れた戦士で、最も美しく気品ある王族だと言われているらしい。目の前の男を見ると、テノチティトランにも彼を上回る男などいないだろうと思った。
褐色の肌、通った鼻筋、強い意志と優しさを合わせ持つ瞳、引き締まった筋肉に覆われた身体。まるで彫像のようなそれに、テクイチポは動揺した。
頬に火照りを感じて、慌てて彼から目を逸らす。
「きみの母君に紫のキノコを渡したのは、この私だ。きみは、新郎に食べさせるキノコを探しているのではないか?」
テクイチポの額には脂汗が滲み、クアウテモクを見ることさえできない。
紫のキノコの話は、母とテクイチポだけの秘密だと思っていた。母がどこからか手に入れたにせよ、誰かの手引きはあったはずだ。まさか、テクイチポの夫になるかもしれない王族の一人の手を借りたのだとは思わなかった。
「… 王に選ばれても、子どものきみと夫婦の営みをするつもりはない。安心しろ。だから、私には、あのキノコを食べさせないでくれ」
テクイチポが顔を伏せていると、クアウテモクは立ち上がり、歩き去って行った。
子どもと言われたことは癪に触る。歳は離れているが、子どもと言われるほどでもない。歴戦の戦士にはそう見えて当たり前かと、自分の身体を見下ろした。
一年の内、最大の祭であるパンケツァリストリの祭祀を二日後に控え、宮殿内は蜂の巣を突く騒ぎとなったが、あれきりクアウテモクは姿を見せなかった。
クアウテモクに手を出すつもりはないと言われたものの、キノコ採集は気晴らしに続けていた。離宮の庭だけでなく、宮殿内の薬草園も散策路に加わった。
クアウテモクは反対派の家臣を一掃したため、宮殿内の秩序が戻り、テクイチポが自由に歩き周れる範囲も広がった。
「テクイチポ様… 今日は、離宮の中庭にしませんか?」
薬草園に入ると、アロが足を止めた。
「何故?」
アロの制止を振り切ってテクイチポは奥に進む。
進んだ先の石段に人影が見える。
「テクイチポ様!」
アロが声を落として鋭く囁いた。
石段に腰掛けていたのは、クアウテモクだった。白い刺繍の入った上衣は肩の筋肉が見えるほどはだけ、その膝の上には女が跨っている。そして、同じように褐色の背中をはだけさせ、艶やかな長い黒髪を振り乱していた。
「… 」
一瞬、何を目にしているのかわからず、立ちすくむ。
クアウテモクは女の肩越しにテクイチポの姿を認めると、女の腰に回した手で、立ち去れと合図した。
テクイチポは震える足でその場から離れた。