12 テスココ陥落
クアウテモクは帰ってきた。何度も帰って来ては、出発した。
テクイチポは何度もタマリを作り続けた。
「ショチミルコに行く」
部屋でテクイチポがキルトの戦闘着を手入れしていると、突然彼がやってきた。
「はい」
テクイチポは手にしていた戦闘着をクアウテモクに手渡す。こびりついた汚れを取り除き、大きな破れは直したものの、まだ不完全だ。
「戦地ではないからな。一緒に行くか?」
このところ、王宮から出ていない。チャプルテペクに出掛けた時期以降、情勢も治安も悪化した。交戦する度に疫病も増えた。
テクイチポは、一も二もなく頷いた。
戦地ではないと言ってはいたが、テクイチポらを守るのは護衛と言うよりも、小隊だった。戦闘用のカヌーの小隊は、テノチティトランからショチミルコへと水路を下っていく。
王宮から離れるにつれ、街の荒廃は酷くなる。
市民たちは、クアウテモクの一団を見つけると、皆、膝をつき、クアウテモクの手を額に当てがうかのような姿勢を取る。
いつかの市場の出来事が、市民に伝播していた。
人々が膝を折る度に、クアウテモクは手を挙げる。すると、彼らから歓声が湧き起こる。
テノチティトランは物資不足が始まり、疫病が広がっている。人々は疲れ切っているはずなのに、クアウテモクが現れると歓喜した。
「この辺りは、昔来たことがあります」
子どもの頃、父や母と共にショチミルコを訪れたときの記憶が蘇る。
「アウェウェテの木の茂った美しい場所だったと思うのですが… 」
テクイチポが呟く。
「この一、二年で戦地になったからな、焼かれたか、倒されたかしたのだろう」
クアウテモクが返す。
「おい、落ち着いたら、またアウェウェテを植えておけ」
クアウテモクが告げると、近くの家臣が頷いた。
ショチミルコの領主との船上での会談は満足な回答を得られなかった。東部の戦いで征服された街の話は、どの領主も知っている。
激しく抵抗すればするほど、被害は甚大だ。抵抗しなければ、兵は召し上げられるが、大軍は速やかにテノチティトランに向けて進軍する。それは、掠奪や陵辱を最小限にする手立てでもある。
抵抗した領主は殺されるが、抵抗しなければ、そのまま自治を任される。
ショチミルコはクアウテモクに僅かな軍を預けることを約束したが、残りは街の自衛に残すと言い、去って行った。
「自衛と言っても、結局、あの大軍に組み込まれてしまうのでは… 」
カヌーでの帰途、隣に座るクアウテモクに小さく呟いた。
「仕方あるまい。敵軍は、目的が同じではない。白人とトラスカラ人は一枚岩だが、その他は、恐怖、打算、妥協で成り立っている。それが、こちらのつけ入る隙でもある」
クアウテモクはテクイチポにだけ聞こえるよう、耳元で答える。
「戦は、武力だけではない… 」
クアウテモクはそう言うと、口を閉じた。
§
戦いに出る度に増える夫の身体の傷を手当てし、寝台に横になると、クアウテモクが後ろからテクイチポを抱きしめた。
「テクイチポ、逃げるか?」
「え?」
夫の口から出た言葉とは思えず、振り返ろうとしたが、彼はそれを許さなかった。パンケツァリストリの祭祀の晩、狸寝入りして聞いた言葉だった。
「オセロメーとクァクァウティンに部隊をつける。西側の山岳地帯に逃げないか?」
耳元で彼は言葉を続ける。
「逃げません。ここであなたの帰りを待ちます」
「勝つことと、お前を無事に守ることの両方ができるかわからん。勝った後に迎えに行くさ」
こんな弱気なクアウテモクは初めてだ。
「勝つことは、テノチティトランを守ることでしょう? それであれば、ここにいるのが一番安全です」
白人たちは、メシカの最大の敵だったトラスカラの兵を引き連れ、大軍となり、西進している。前回の比ではない。テノチティトランも無傷ではいられないと、クアウテモクも考えているに違いない。
だとしても、クアウテモクの妻として、メシカの王妃として、テノチティトランから離れるわけにはいかない。たとえ、最後の一人になろうとも。
「あなたと離れたくないのです」
クアウテモクを支えるのは自分だ。それは、誰にも譲れない。
「強情だな」
背後から笑いを含んだ声が返ってきた。
廊下を走る音がする。
「クアウテモク様! テスココに一万の兵が攻め入りました! テスココのコアナコッホの使者がこちらに向かっています」
扉の外から声が掛かる。
「いつ着く?」
クアウテモクはそのままの姿勢で慌てもせず答える。
「四半刻ほどかと」
「わかった」
クアウテモクは身体を起こす。
「私は?」
テクイチポも身を起こす。
「ここで待て」
そう言うと、クアウテモクは服を羽織って出て行った。
結局、その晩、クアウテモクは戻らなかった。
翌朝には、状況がはっきりした。
元々白人を支持していたテスココの何人かの首長が白人に寝返ったと言う。
テスココの王、コアナコッホは賢い男で、白人を利用して王位についたものの、白人を信用してはいなかった。
白人とトラスカラ人、その他、行軍中に征服した町の兵を合流させながらテスココに向かってきた大軍はコアナコッホに退却を決意させた。テスココ単独では歯が立たない。
コアナコッホは精鋭軍を引き連れ、テスココからテノチティトランへ向かった。また、使者に続いて、コアナコッホ自身がクアウテモクに面会し、テノチティトランに加勢すると申し出た。
テクイチポが起きるまでの進捗をオセロメーから聞き終わったところで、クアウテモクが部屋にやって来た。
「おい、コアナコッホに挨拶できるか?」
「はい」
テクイチポはすぐさま立ち上がる。
「待て、コアナコッホは客人ではない。元々テスココは、テノチティトラン、トラコパンと共に三国同盟の一翼だった。しかし一度白人側について、また三国同盟に戻って来たわけだ。お前はこれから、どういう態度を取るべきかわかっているか?」
クアウテモクがニヤりとし、テクイチポを試している。
「本当に信頼できるか、言葉と態度で示せ、という態度です」
テクイチポは答える。
「その通り。呼ばれたからと言って、馳せ参じる必要がないことはわかるな?」
クアウテモクはまだニヤニヤしている。
「はい。では、ショコラトルでも飲んでから行きますか?」
クアウテモクの様子から冗談を言えると思い、口にする。カカオは国の通貨だ。今、そんな贅沢をする時でもない。
「それでもいい」
クアウテモクは回答に満足したようで、茶を持ってくるよう指示すると、テクイチポの隣に座り込む。
「でも、信頼できると評価したから、私を呼びに来たのでは?」
「まあ、そうとも言える。しかし、お前が不安になる兆候を感じたら、切り捨ててもいい」
さらりと怖いことを言う。
「コアナコッホはどれだけの軍を連れて来たのです?」
「市内に三十。郊外の森に二万だ」
「簡単に切り捨てられる数ではないではないですかっ」
テクイチポが詰め寄る。
「だからだ。皆が信用できなければ、内側に置けない数だ。テトレパンケツァルとうちの将軍たちは納得した。最後がお前だ」
「もう決まっているようなものではありませんか?」
二人の元に茶が用意され、口をつける。
「お前が命を預けられると思わなければ、白紙でいい。例えば、お前を軽視するなら、それは破談の理由として充分だ」
クアウテモクは茶を一気に飲み干すと立ち上がる。
慌ててテクイチポも立ち上がろうとしたが、クアウテモクの顔を見上げ、ゆっくりとした所作で立ち上がった。
「上出来だ」
二人で小突き合いながら、コアナコッホの待つ部屋へ向かう。
コアナコッホはテクイチポが部屋に入るのを見ると、顔を下げ、慇懃に挨拶し、続けて再び同盟に加わりたい旨を述べる。
この間、コアナコッホの背後に座っているトラコパンのテトレパンケツァルがテクイチポの方を見て、終始笑顔を浮かべている。言いたいことを言ってやれ、とその目が言っている。
「あなたが成し遂げたいことは何ですか?」
テクイチポはコアナコッホに訊ねる。
「テスココを守ることです」
「それとこの再同盟はどう繋がるのです?」
「白人らは、信仰を奪う。そして、私の民の尊厳と富を奪う。この地の信仰と文化を守らねば、民の心に安寧はありません。信仰と文化を守るための仲間として戦いたい」
コアナコッホの言葉に淀みはなく、心底そう思っているようだ。
「民の心は移ろいやすい。一度、白人と手を組んだあなたのことを民は信頼するのでしょうか?」
テクイチポは続ける。今度はコアナコッホの家臣の顔が強張る。代わりにテトレパンケツァルの背後の将軍らが面白がり始めた。
「テスココの後継者争いのあの時点で、私の兄弟たちが後継になっていたら、第二のトラスカラになっていたでしょう。背に腹はかえられなかった。彼らがトラスカラに敗走してからは一切の援助はしていないし、対白人・対トラスカラの姿勢は貫いている」
コアナコッホは一度、言葉を区切る。
「離反した七部族については不徳のいたすところ。この同盟の勝利を持ち帰ることで、民には私の姿勢を示したい。これが今の私に出来ることです」
「民があなたを裏切ったら?」
「王として、描く国の将来は民の幸せ。裏切られたとしても、私は彼らを裏切りません」
「私たちを裏切れば、国を返すと白人に言われたら?」
「その時、手に入れる国は、すでに私の国ではなくなっているでしょう。隷属は断固拒否する」
テクイチポは会話の間中、コアナコッホの表情に少しの違和感も抱かなかった。彼の言葉に嘘はないと納得し、頷いた。
「私は受け入れます」
クアウテモクも頷く。
「これで、最終決定だ。このまま、作戦会議にしよう。ショコラトルを」
クアウテモクが口を開くと、コアナコッホは安堵の表情を浮かべた。
ショコラトルが用意される間に、車座に座り直す。テクイチポの隣にテトレパンケツァルがやって来て、小声で呟く。
「一番手厳しいのは王妃だと話していたところですよ」
「もう… そうやって揶揄わないでください」
テクイチポがテトレパンケツァルを睨む。
「いいえ。未だかつて、意思決定の場に女性が加わったことはない。あなたがヒューイ・トラトアニにとっていかに重用されているかがわかる」
テトレパンケツァルは、軽口を叩く男だが、テクイチポを子ども扱いしないことは、付き合い始めてすぐにわかった。それはクアウテモクへの絶対的な信頼から始まったものかもしれないが、毎日のように顔を合わせるようになると、テクイチポ自身への敬意に変わっていった。
「さて、また、あなたのタマリを食べて頑張らないと… 」
テトレパンケツァルは呟いた。
テスココは白人らに明け渡され、進軍が早まった。テスココ以西、湖畔の都市に警告を出し、クアウテモクの指揮下に加わるよう伝令を出した。
それから間もなく、メシカを支援する集落や部族たちが白人たちの手に落ち、捕虜たちが白人からクアウテモクの元に送られた。もはやテノチティトランの同盟者はいない、という扇動的な言葉と共に。
そして、それから二週間足らず。テスココから進軍した白人らの連合軍と、二万人以上のクアウテモクの軍がショチミルコで激突した。




