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泪橋  作者: 篠川 翠
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伊藤左近の提言(1)

【主要登場人物】


<和田旗本衆~下向組>

一色図書亮……主人公。永享の乱で父を失い、二階堂家の須賀川下向に加わる。

忍藤兵衛……鎌倉出身。白川結城家にルーツを持ち、古くからの図書亮の知り合い。

倭文半内……鎌倉出身。鎌倉以来の知己。

宍草与一郎……播州出身。在京の将軍である足利義教を嫌い、鎌倉を経由して二階堂一団に加わる。

相生玄蕃……播州出身。後に、須田秀泰の家臣になる。


<四天王関係者>

須田美濃守秀一……四天王の一人。須田家の惣領であり、実質的な和田衆家臣団の代表者。和田地域を差配。

須田佐渡守秀泰……須田家次男。小作田・市之関を差配。

須田三郎兵衛尉秀房……須田家・三男。袋田を差配。

須田紀伊守秀幹……須田家四男。竜崎を差配。

須田源蔵秀顕……須田家五男。浜尾の一部及び江持・堤を差配。

安藤左馬助……須田家家老

箭部安房守義清……四天王の一人。箭部家の惣領であり、今泉を差配。

箭部下野守定清……安房守の弟であり、図書亮の妻りくの父親。狸森むじなもりを差配。

箭部紀伊守……りくの従兄弟。鹿嶋館に居住。

遠藤雅楽守……四天王の一人。山寺を差配。

守屋筑後守……四天王の一人。里守屋を差配。


<二階堂家>

二階堂為氏……二階堂家の惣領。十三歳で父の跡を継ぐために、鎌倉から須賀川に下向。

治部大輔……為氏の父の死後、代官として須賀川に派遣されていた。

民部大輔(北沢民部)……為氏の伯父。

二階堂山城守(保土原殿)……行村系の二階堂一族。


<女性陣>

三千代姫……治部大輔の娘。為氏の妻。

千歳御前……治部大輔の妹。民部大輔の妻。

りく……図書亮の妻。箭部定清の娘。


<その他>

明沢……謎の羽黒修験者。


 そうこうするうちに、図書亮も少しずつ城中に顔見知りが増えていった。

 現在、図書亮が伺候しているのは大河のほとりにある「峯ヶ城(みねがじょう)」だ。別名、伏見館(ふしみやかた)。文字通り、伏見岩の上にあり逢隈川が臨め、その岸壁は切り立った断崖となっている。

 その峯ヶ城の隣に、美濃守は新しく為氏の館を作らせていた。こちらは「岩間」と呼ばれる土地であり、現在、母屋を始めとする建物を造らせている最中である。何かことがあれば、美濃守が為氏の元へすぐに駆けつけられる体制だ。

 そこから数丁離れたところには和田館があり、こちらの方は目の前に平地が開けている。峯ヶ城と比較すると平らな土地であり、どこかのんびりした空気が漂っている。美濃守は「こちらに軒を用意してやる」と決め、新参者も含めて多くの旗本がこちらに屋敷や仮寓を構えた。


 和田館に仮居(かりずまい)を構えた図書亮は、鎌倉にいた頃からの馴染みである忍藤兵衛(おしとうべえ)倭文半内(しとりはんない)と共に行動することが多い。だが、流れとして時折峯ヶ城にも伺候しなければならず、直属の上司となった須田美濃守の一門とも、度々顔を合わせた。何せ、二階堂家に次ぐ版図を持つ一族だから、その縁者もまた多いのである。

 須田一族の長である美濃守は、四十路に手が届くところだ。りくの伯父である安房守と特に仲がいいようで、二人でよく談笑しているのを見かける。

 須田家の惣領として、図書亮を二階堂氏に引き合わせてくれた安藤綱義の他に、その息子である安藤帯刀(たてわき)(左馬助)、服部監物(けんもつ)小板橋(こいたばし)丹波がよく側に付き従っている。惣領というだけあって、家臣の数は他の兄弟よりも多いようである。

 次男である佐渡守秀泰(さどのかみひでやす)は、三十五歳。彼は市之関(いちのせき)小作田(こさくだ)を差配し、温厚篤実な性格だ。地元衆の旗本として江藤、小林、柳沼といった者たちを使いながら、二階堂一族に遠く縁があるという樫村(かしむら)も、彼の配下だった。最近では、鎌倉からの下向の際に二階堂家の「旗本」に加わった相生兄弟も、彼と一緒にいることが多い。

 三男の三郎兵衛尉秀房さぶろうべえのじょうひでふさは、三十歳。袋田を支配し、四天王の一人である遠藤雅楽守とともに、会津への牽制役も兼ねている。遠藤雅楽守の差配する「山寺」からは北の方向に会津街道が伸びており、安積郡の伊東、そしてそこから北西に山を越えれば会津の蘆名氏が領地を構える。そのためか、どこか神経質な印象を受けた。彼には、永瀬角之介がつけられている。

 その他に、二十七歳になる四男の紀伊守秀幹(きいのかみひでみき)は、石川氏への備えとして竜崎(りゅうさき)を任され、末息子の源蔵秀顕(げんぞうひであき)は、浜尾の一部や江持、堤を任されている――。

「――というのが、うちの大まかな支配図だ」

 須賀川の地図を丁寧に指しながら、図書亮と同い年だという源蔵は説明してくれた。側には、三島木右膳(みしまぎうぜん)治郎太(じろうた)という家臣がついている。三島木も、古くから須田に仕えている家柄らしい。

「二階堂の本家より、支配領域が大きいのでは?」

 苦笑しながら、図書亮は答えた。よく、それで主君が妬かないものだと感じたのだ。

「そんなことはないさ。二階堂家は西衆との分も合わせれば、会津の蘆名と国境を接しているからな」

 どうやら、「行村公」の系統は岩瀬郡でも西部に領地を持つ一族が多く、それらは「西衆」と呼ばれているとのことだった。確かに、初日にあの「治部大輔」の非をあげつらっていた「矢田野左馬允(さまのじょう)」などは、会津の蘆名(あしな)と国境が近い辺りを差配しているらしい。

 美濃守に対してはまだ苦手意識が拭えないが、その弟たちは年が近いこともあり、中でも五男の源蔵とはうまが合った。

「それにしても、あそこまで治部大輔殿が天狗になっているとは思わなかった」

 源蔵がぼやく。

「お知り合いで?」

 源蔵があまり治部に敵愾心を見せていないのは、意外だった。

「お知り合いも何も。子供の頃には治部殿に抱かれたこともある」

 つまり、二階堂家と須田家は体裁としては臣下の礼を取っているものの、実質的には対等にも近い密接な関係なのだろう。源蔵の説明によると、両家とも岩瀬に土着したのは鎌倉時代に源頼朝が奥州を征伐したのがきっかけだったという。

「やっぱり、あの永享の乱から色々と狂ったように思う」

 それは、図書亮も同感だった。自分もあの戦いで父が自害しなければ、名門一色家の嫡子として、今でも鎌倉に住んでいただろうから。

「ところで一色殿は、鎌倉にいた時はうちの安藤と縁があったというが?」

「そうです。やはり永享の乱の折に、式部少輔殿に近所の誼で命を救われました」

 安藤も幾人か同姓がいるから、都度呼び方を工夫しないとならず、ややこしい。

「安藤の爺も、困っている者は見捨てておけない性質だから」

 そう言うと、源蔵はからからと笑った。

 それにしても。

 和田館はまずまず居心地がいいが、どことなく鎌倉が恋しくなる。そもそも、「和田」の地名からして、あの有名な「和田合戦」で当地に流されてきた「和田平太胤長(へいたたねなが)」が、自分の名字をこの土地に残したという。そればかりか、和田館のある場所には、なぜか六体の仏まで掘られているのだった。この大仏は、一説によると弘法大師が彫ったという。図書亮も人並みには信心を持っているが、伏見館に伺候する途中で仏像を見上げると、目が合ってぎょっとすることがある。なかなかよく出来ており、源蔵によると、「いつ掘られたのか正確な年代はわからないが、子供の頃からあった」のだそうだ。

 また、乳不足の夫人が大仏の胸を削り、それを粉にして煎じて飲むと、乳が出るようになるのだといい、仏像の胸の辺りはわずかに抉れていた。

 二階堂家の旗本に加わった以上、それなりに働かなくてはならない。そんな図書亮に割り当てられたのは、源蔵と共に須田の差配している領地を見回る仕事だった。まだ当地には馴れていないだろうし、地理を把握していない以上戦力にならないからだろうが、同い年の源蔵が「物頭格」の仕事を任されているのを見ると、少し悔しい。



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