Memory
こんな夢を見た。
夕暮れの公園で小さな私は、友達とブランコで遊んでいた。
「−−ちゃーん、もう日が暮れてきたから帰るよ。」
友達のお母さんが、公園の入口に立って、笑顔で手招きをしている。
「はーい。あこちゃん、私帰るねっ、バイバーイ。」
友達はブランコから降りて、私に手を振りながら、迎えに来たお母さんに向かい駆け出した。
「…バイバイ…。」
小さな私はブランコをこぎながらつぶやいた。
夕焼けで真っ赤に染まる公園は、私ひとりだけになって…。
それでも私は、ブランコをこぎ続けた。
迎えに来てくれる人はいない。
いくら待っても、私を迎えに来てくれる人はいない………。
小さな私は歌う。
「七つの子」を……。
「…かぁ〜、らぁ〜すぅ…なぜ、なくのぉ…、
から…すは…やぁ〜まぁ〜……にぃ………」
小さな私は泣きながら歌い、ブランコをこぐ。
「かぁ…、わ…い…い……なぁ、なぁあつぅ…の…こが…いる………………………………」
夕焼け空が紺を帯び、薄暗くなった空を見上げて、私はブランコをこぎ続けた。
「お母さぁん……」
小さな私はつぶやく…………。
「………。」
目が覚めたのは、まだ日が昇る前の午前4時だった。
何故あんな夢…見たんだろう…。
私は小さくため息をついて、ベッドから体を起こした。
季節は10月。
大分肌寒くなった朝。
私は黒い薄でのコットンのカーディガンを羽織り、ワンルームの小さな台所へ歩みを進め、シンクの上のステンレス製の棚の上に洗って伏せてある、青×白のチェックのマグカップを手に取り、インスタントコーヒーを入れ、電気ポットのお湯を注ぐ。
部屋に広がる、心落ち着くコーヒーの香り。
マグカップを持って、台所の横のアルミサッシのドアを押し開ける。
そして、まだ闇に包まれて、景色のはっきりとしないベランダに出た。
見上げた空には、明けの明星(金星)がひとつだけ輝きを放っている。
月は、目の前に鬱蒼と広がる竹林の中に隠れているのだろう。その姿を見る事はできなかった。
「…嫌な夢…。」
私はつぶやき、コーヒーを一口飲んだ。
唇から喉に、喉から体へと広がるほのかな温かさが私を包む。
「…どうして小さい頃の夢なんて見たんだろう…」
私のつぶやきは、静かな闇に溶けて、消える。
私を苦しめる、いつもの感覚が体中に駆け巡る。
まるで世界中で一人ぼっちになってしまったような孤独感…。
暖かいものに恵まれなかった幼少期の私が、いつまでも心の奥で、膝を抱えて泣いているんだと、何となくだけど思った……。
一人でも強く生きたいといつも願い、26年間生きてきた。
別に自分の生い立ちを悲観して、心を閉ざして生きてきた訳じゃない。
人付き合いが苦手な訳じゃないし、友達だって普通にいる。
恋だって人並みにしてきたつもり。
でも、いつもどこかで人と深く繋がりを持つのを拒む自分がいる。。
人が好きなはずなのに、急に拒絶してしまう自分がいるんだ。
どうせいつかは繋がりに終わりが来る。
人との繋がりに永遠なんてない。
だから、適度なところでラインを引いて、それ以上は深く繋がりを持たない。
思い出すのは、私の『トラウマ』の根源である両親の顔。
両親の愛。優しさや示す強さ、そして抱きしめられる温もり……。
誰にでも、どんな人間にも平等にそれは与えられるとは限らない。
きっと、生まれて間もない乳飲み子の頃はそれがあったのかも知れない。でも、そんな頃は当たり前だけど記憶にはない。
私には、記憶と言うものができてから、両親に愛された記憶が無い。
ある記憶と言えば、思い出したくない事ばかり……。
「…仕事行かなきゃ…」
空はすっかり明るくなり、一日が動き出す感覚に急かされるように、私はベランダから部屋に入る。
携帯を見ると、メールが1件。
付き合って3年になる彼氏の修一からだった。
受信箱を開けると、
『大事な話があるから、今日行くよ。』
とメッセージが。
急に憂鬱になった……。
「…私、馬鹿だね…。」
携帯に小さくつぶやき、苦笑した。
メールの返信はしなかった。
断る言い訳が見つからないから。
::::
仕事を終えた午後5時。会社から帰宅して駐車場に車を入れようとする私の視界に、見慣れた黒いスポーティーなワゴン車が。
「…もう来てるし…。」
私は、駐車場に車を入れてため息を零した。
大事な話。その言葉の意味は何となく解ってる。
付き合って3年の中で、何度もそれとなくほのめかされた言葉。
『結婚』………
今まではやんわりと冗談混じりで回避してきたけど、もういい加減それも通用しないのも解ってる。
私は再度深くため息をついて、車を降りた。
アパートの階段をのぼり、2階の突き当たりの自宅へ歩く。
鍵を開けてドアを開けると、コーヒーと煙草の香りが私を出迎える。
普段は落ち着く香りなのに、今日は逆に憂鬱になった……。
「お帰り、亜矢子。」
修一は煙草を片手に携え、玄関へと歩み寄る。
「……歩き煙草はダメって言ってるじゃん…。」
私はため息笑いで玄関のドアを閉め、鍵をかけた。
「まあ、気にするな♪」
修一は笑うけど、どこか緊張しているのが、空気でわかった。プラス、この先の大事な話が何かと言う事が、私の中で推測じゃなく、確信に変わった。
修一は緊張したり、照れたりすると、煙草の量が増える。
テーブルの上の灰皿には 、結構な量の吸い殻があった。
私はスチールシェルフにバッグを置き、台所へ行き、マグカップにコーヒーを入れ、テーブルの前に座った。
修一は、煙草を消して、ちょっと改まった感じで私を見つめる。
「あのさ、亜矢子…、」
「…何?」
「…あのさ……」
「……うん。」
「…あの、…これ。」
修一はダークブラウンのニットパーカーのポケットから、小さな包みを取り出して、テーブルの上に置いた。
「…………。」
私はやんわりと笑いながらも黙り込む。
「…なんかさ…、ごめん…。うまく言えないんだけどさ…。」
修一は苦笑いしながら、正座をして姿勢を正す。
「…俺と、結婚…、してくれないか?」
よほど照れ臭いんだろう…。俯き、苦笑いする顔が少し赤い。
そんな修一を見つめていると、何だか…体の中の血液が抜けるようにスーッと冷たくなる感覚に陥った……。
「………。」
返す言葉が喉から出ない……。
修一は私の複雑な顔を見ると、
「…あのさ、亜矢子、…俺、お前の事、絶対大切にするから。
俺はお前を置いて、いなくなったりしないから……。」
修一の言葉を聞いて私はため息をつく。
「…ごめん…、……………これは、受け取れない。」
私は、俯き首を横に振った。
顔を上げて、修一を見つめ、
「結婚はできない。
きっとこの先も、私は誰とも結婚はしない。」
修一は俯き、黙り込んだ……。
当たり前だ…。
指輪まで準備して、真面目にプロポーズしたんだから…。
そんな修一の精一杯の気持ちを、私は自分の気持ちの都合だけで踏みにじったんだから…。
3年付き合って、私の事を理解しようとしてくれた努力も、男性としてのプライドも、全て傷つける言葉を修一に言ってしまったんだから……。
「…まだ、俺の事、信じてくれないんだ…。」
修一は苦笑いして、ぽつりとつぶやいた。
「修一の事が信じられないんじゃない。
私は、私が信じられないの……。」
こんな事、言いたくない。
言ったところで、単なる言い訳にしかならない。それどころか、ますます、修一を傷つける事になる……。
「…私は、私が嫌いなの…。だからね、私を好きだと思う人が怖い。」
馬鹿みたいでしょ?
勝手でしょ?
「…いつまでも過去に囚われて…進めない…
馬鹿な人間なのよ…。」
泣くのはよそう…。
きっと、私より修一のほうが、何倍も辛い。
私は両の手をギュッと握り、唇を噛み締めた。
「…俺と一緒にいた3年、亜矢子は、そうやって…ずっと、俺を怖いって思ってたんだ…。」
修一はまるで気が抜けたような苦笑いを浮かべてつぶやいた。
「………。」
返す言葉はない。
どうやって自分の心を修一に伝えたらいいのか、わからない。
「…そっか…、そうだったんだ…。」
修一の淋しげなつぶやきが、部屋に漂う。
「…俺、…馬鹿みたいだな……。」
「違うよ…、馬鹿なのは私。」
小さく首を振り、声帯から声を搾り出すた。
「…考えて見れば、そうだよな…。たった3年で今まで生きてきた辛かった事の傷が癒えるなんて…ないわ。うん…。」
修一は、ははっ…と笑い、
「…ごめんな…亜矢子……………。」
修一は私の頭をぽんと撫でて、小さく笑った。
「……なんで修一が謝るの…?悪いのは私なんだよ…。私が…、私が…………………………。」
喉の奥が震えて、言葉が続かない…。
「…お前は悪くない。」
修一は私を包み込み、諭すように、力を込めた。
「…私が悪い……
生まれてきた……
私が………悪い…。」
苦しかった…。
自分が生まれた意味が無いと感じてしまう自分自身が。
「俺は、お前が生まれてきて、こうして出会えた事に感謝してるよ。」
「……どうして…?
どうして修一はいつもそうやって…
なんで私の事、責めないのよ…。」
「…責める要素がないから。だって、俺…プロポーズ断られても、お前の事、憎いとか、嫌いだとか思えないし。」
「…なんで……?
なんで…、こんな私みたいな……」
「こんなとか言うな。
俺は、まんまの亜矢子が好きなんだから。」
「…でも……、」
「…プロポーズは無しな…。こうなったら俺、とことんお前と付き合うから。」
「…そんな事したら、一生結婚できないよ。」
「可能性はゼロじゃないだろ?これからいっぱい時間を重ねていけば、また、少しずつでも、気持ちが変わるかもしれないし。」
「…他の人と幸せになってもいいんだよ…。」
「俺はお前じゃなきゃ、嫌だから。幸せになるのはお前と一緒じゃなきゃ、無理だね。」
修一は笑って私からゆっくりと体を離した。
「…まだまだ、時間はあるから、焦るのはやめて、ゆっくりいこう。」
修一は、そう言って笑った…………。
私の中に広がる、修一の優しい照れ笑い。
私は、修一となら、
いつか………。
心の中の私がそうつぶやいた。
口に出すのが怖い。
『幸せ』って言葉。
私はいつか笑って言える日が来るかも知れない。
この時、ほんとにそう思ったんだ………。
::::
修一が帰ったのは、午後10時過ぎだった。
お互い、翌日も仕事だったから、二人で部屋で夕飯を食べながら、たわいもない昔話をしながら、笑ってたっけ……。
修一は私の作った厚揚げと竹輪の煮物がすごく好きだって、笑ってた。
何の飾りっけもない、ただの煮物なのにね…。
私はそんな修一の飾らない素直な優しさが好きだと、つくづく思った。
別れ際に、修一は玄関で私にこう告げて照れ臭そうに笑った。
「じゃあな、家に着いたら、メールするから。」
「…気をつけて帰ってね…。」
私はいつものように、修一にそう告げた。
修一は笑って頷き、そっと体を屈めて私と唇を重ねた。
「…お前、ほんとちっちゃいなぁ…。牛乳飲め」
身長157センチの私。修一は176センチ。
「…うるさいなぁ…。牛乳飲んでも、もう無理だよ…。」
私は笑って修一の腕を軽く叩いた。
「…じゃあな。」
修一はくすくす笑って、玄関のドアを開けた。
「…うん、じゃあまたね…。」
玄関のドアが閉まり、階段を降りる靴音が聞こえなくなると、私は鍵を閉め、チェーンをかけた。
修一が使ってた黒いマグカップを台所へ運ぼうと、テーブルの上を見ると、
「…タバコ、忘れてるし…。」
青いタバコと、年期の入ったスターリングシルバーのジッポライター。
私は、ベッドの頭の小さな引き出しにしまい、次に来た時に渡そうと、小さく笑った。
ベッドの頭の横は、ベランダへ続く、アルミサッシの2枚のガラスの引き戸。
虫の鳴く声が響き、ベランダの右奥の竹林の葉が秋の風にサァア…っ…と揺れる音と、カタカタ…と竹同士が揺れてぶつかり合い、醸し出す不思議で美しい音。
風にふわっと揺れる、白いレースのカーテン。
部屋に流れ込む、少し冷たい夜風。
私は網戸を開けて、ベランダへ出ると、夜空を見上げて、月を見つめた。
暗い夜空に輝く、明るい新月。
がらにもなく、私は月に祈った。
「修一と、できれば、ずっと一緒に笑っていられますように………。」
と。
でも、そんなささやかな願いすら−−−−
叶わなかった。
真夜中に鳴る携帯。
震える声の主は、修一の妹のまどかちゃんだった。
「亜矢ちゃん…、お兄ちゃんが……お兄…ちゃんがぁ………………………………………………。」
頭が真っ白になった。
私は狂ってしまったんだろうか…?
何故だか、笑いが込み上げ、
「まどかちゃん?…こんな夜中に…冗談キツイよぉ……?」
「 病 に…お兄 ゃんがい か ら…。 迎えに くから!亜 ちゃ … 気を に 」
泣き叫ぶ、まどかちゃんの声……。
何だろう…?よく 聞こえない…………
意識が遠退きそうになりながら、私は何でだろう………。
笑ってた…………。
修一は…、私と別れた後、帰り道の産業道路の追い越し車線を走っている最中、飲酒運転で孟スピードを出していた車に後ろから煽られ、前に車体をかぶせられ…、接触を避けようとした際に、ハンドルを取られて、中央分離帯に追突した。
エアバックが作動して頭は無事だったけど−−−−潰れた車体に身体を挟まれ−−レスキューに救出されるまでに30分以上かかり………
車から出た時には、心肺が停止していたとまどかちゃんに聞いた。
心肺蘇生を施したけど−−−−
彼の…修一の心臓は再度動く事はなかった。
::::
神様って、絶対いない。
私はこの時確信した。
神様がいるなら、きっと−−−−修一はこんな目に合わなかった。
修一は、恵まれた家庭で、優しい両親のもとで、おおらかに育った、心の優しい人だった。
人を疑う事をしない人。困ってる人をほっとけない、少しお節介な人だった。
私より、ひとつ歳が上で、元は中学で仲が良かった先輩だった。
「…どうして…?
ねぇ…、どうして…………私じゃなくて……………………………。」
司法解剖をされ、亡きがらが修一の家族のもとへ戻った時、私は修一に会う事ができなかった。
まどかちゃんを除く修一の家族は、私が修一に会うのを拒んだ。
無理もないね。
だって…、あの日、私のアパートに来なければ、修一はこんな姿にはならなかったから……。
たった27歳と言う若さで、修一はこの世からいなくなってしまったんだから……………。
お通夜も葬儀にも参列できないまま…、私は部屋に篭り、ただ、過ぎ行く時間に身を任せた。
::::
どれだけ日にちが経ったかわからない。
気がつくと、私は病院のベッドの上だった。
傍らには、まどかちゃんが椅子に座り、うつらうつらと頭を揺らしていた。
「……。」
目を開けた私の気配に気付いたのか、まどかちゃんは、はっと目を覚まし、
「……亜矢ちゃぁん……………………………。」
ベッドに横たわる私にしがみつき、ぼろぼろと泣き出して
「…ごめんね……、ごめ…んね………………」
と、何度も繰り返してつぶやいた。
「…なぁんで…、まど…ちゃん…が…謝るのぉ……?…………悪いのは………私…なのにぃ……」
私はまどかちゃんから、最愛の兄を奪った人間なのに………………。
「…お兄ちゃんに……………亜矢ちゃんに…早く…プロポーズしろって………私が…急かしたんだよぉ………。」
まどかちゃんは、咽び泣きながら、私に告げた。
「私が…、私が…お兄ちゃんを……殺したんだよぉ………………。」
しゃくり上げながら、まどかちゃんは私にそう告げた。
「…その上……亜矢ちゃんまで……。私、…………私……………。」
まどかちゃんは、私の左手首を見つめて、ひたすら泣きじゃくる。
私は、左手首に視線をやった。
包帯が巻かれている。
ゆっくりと記憶の糸を手繰りよせる………。
ああ…、そっか……………私……。
「…おとつい…、お兄ちゃんの遺品を…亜矢ちゃんに届けようと思って…………………。」
まどかちゃんは、私のアパートの鍵と、小さな包みを差し出した。
「…心臓が止まるかと思ったよぉ………。部屋に入ったら…、亜矢ちゃんが座ったままで……。」
まどかちゃんは、溢れる涙を一生懸命拭いながら、
「ほんとに…良かった……亜矢ちゃんが…生きててくれて…………。」
そうつぶやいた。
私は、溢れる涙をとめる事ができなかった。
「ごめ……、ごめんね………まど…ちゃん……」
私はまどかちゃんと、涙が枯れるまで泣き続けた……………。
::::
あれから6年が経ち、私とまどかちゃんは、親友と言うカタチで今でも一緒にいる。
この間、めでたく2年付き合った彼氏と結婚した。
今は、彼氏から旦那様になった健一君と一緒に、のんびり穏やかに暮らしている。
私はと言うと−−−−−−。
相変わらず一人だけど、それなりにのんびり生活している。
沢山の人と出会い、別れ…、まだ、なんだか、あれこれ色々あるけど−−−−−−−−−−−−
元気でいるから。
大丈夫、ちゃんとね、笑ってるからさ。
私はプラチナのネックレスに通した、胸元で月明かりに光る指輪をそっと握り、今日も晴れたベランダから夜空を見上げ、小さく笑った。




