キンモクセイの香る頃
少し開けた部屋の窓から、風に乗りふわりと広がるキンモクセイの香に誘われて、美里は外へ散歩に出ようと思い立った。
アイボリーの七分袖の、裾が膝上程のコットンワンピに黒いレギンス、上からグレーのジップパーカーを羽織り、スニーカーを履いてアパートの玄関を出た。
パーカーのポケットには財布と携帯電話。散歩に行く時は手荷物が煩わしいからだ。
アパートの階段を降りて細い路上に立つ。
秋晴れに相応しい澄んだコバルトが広がる中、平筆で一気に直線を引いたように所々滲んだような、掠れたような飛行機雲が見上げたすぐ目の前に長く延びている。
アパートの向かい、老夫婦が暮らしている古い木造家屋の庭先に大きなキンモクセイの木。
美里の部屋に広がる香の主である木だ。
濃い緑の葉と対象的な、目に鮮やかな橙色の小さな粒の集合体。
まるで実をつけているかのように咲いている花。
どこか胸に懐かしさが広がるような甘い香に包まれ、美里は唇の端を少し緩めてゆっくり歩きだした。
アパートから細い路地を左に曲がると下り坂。そこを5〜6分程下り歩くと、まだ出来て間もない、間新しいが滑り台とベンチしかない小さな公園がある。
公園の四角い渕に添って植樹された柘植の木に囲まれた西側の角手前には背丈の低い、若い桜の木が1本植えられている。
来年の春にはちらほらと花を咲かすだろうと美里は桜の木を見つめて小さく微笑みを浮かべた。
東側の柘植の木の前の木製のベンチに腰を下ろし、ふと思い出す。
「もう13年か…。」
美里は小さくつぶやき、空を見上げて微笑んだ。
◇
遡る時は13年前。
当時私は17才の公立高校3年生だった。
ダルイ学校をサボりながらも、単位ギリギリの状態でかろうじてキープし、ろくすっぽ進路も決めずに、ただ生きてた。
朝9時を過ぎた頃にベッドからのそりと這い出し、自室の2階から誰もいないひんやりとした1階の台所へ降り、冷蔵庫から牛乳を出してコップに注ぎ一気に飲み干し息をつく。
朝ご飯なんて普通にない。
学校に行くのに昼食の弁当もない。勿論昼食代すら置いてない。
弁当を作ろうと冷蔵庫を覗いても、ろくなモノがなくて、私は舌打ちしながら
「ほんとこ寒い家だな…誰も住んでないみたい」
八つ当たり気味に勢いよく冷蔵庫のドアを閉めて、台所右奥の部屋へ入る。
大きな樫の木でできたナチュラルブラウンの丸いテーブル。
同じ材質の揃いの椅子。
一家団欒の食事場所。
でも、そんなもの実は味わった事がない。
両親は自営業。地元じゃちょっと名の知れた日本料理屋を経営していた。
周りの人間は、愛想が良くて仲睦まじい夫婦とあの人達を褒めるが、蓋を開けたら酷いもので、実は全然仲睦まじくもなんともない、険悪と言うか最悪。それ以上以下の表現はナシ。
父は元々板前だったらしいが、私は父が包丁を握っている所を見た事がない。と言うより仕事をしている姿を見た事がないと言っても過言じゃない。
毎日寄り合いだ、組み合いの会合だと嘘ばかり並べて、地元の金持ちで暇を持て余している輩と旅行や麻雀三昧。
店なんかほったらかしで遊びほうけていた。
母は、確かに仕事はしていたけど、仕事をする目的もやってる事も目茶苦茶だった。
朝から店にいる母は、仕事の他に別の目的があった。店で働いている板長とイイ仲で、女の顔を振り撒き楽しげに笑ってる。
加えて昼の営業が終わるとダッシュでパチンコ屋に車を走らせ、夜の部が始まるギリギリまで戻らない。
夜の営業時間が終わると、今度は店の常連客と飲みに出かけここでも女を振り撒き笑う。帰りは当たり前のように午前さま。
私が1日に両親と顔を合わせる時間はトータルしても1時間ない。
ずっとそんな生活。
唯一の救いは、2つ上の兄がいた事だったけど、兄は調理師の専門学校を卒業して、寮つきの料理屋へ板前の修業に出てしまい、私はこの家で一人になってしまった。
別に両親には何も望んでいなかった。
なんの期待も、なんの感情もなく、ああ、この人達が親だっけ?と、時々思うだけの存在だった。
親がくれる愛情なんてモノ。
そんなの馬鹿げた妄想だ。家族を愛するなんてそんなの意味わかんない。
兄は優しかった。でも修業と称して家を出たけど、ほんとのところはこの家が嫌で出ていったんだと思う。だって、帰省もしなければ、連絡だって一切ナシだから。
私が連絡して何だか迷惑そうだしね。
そういえばもう兄と連絡せずに何ヶ月が経ったっけ……。
所詮家族と言えど、一個人の人間の集合体で、みんな自分の身が一番かわいいんだ。
じゃなきゃ私は一人ぼっちで今こうして、だだっ広いだけで誰もいない寒いテーブルにぽつりと座って、孤独を感じてはいないだろう…。
「はぁ…、学校めんどくさ………。」
ため息が出た。
愚痴っても、何の返答も無し。当たり前、一人なんだから。
30分程ぼーっとテレビを見つめて、家にいても退屈だから渋々学校へ行く準備を始める。
シャワーを浴び、歯磨きをして、制服に着替えてと、ひととおりのお決まりの行動を終えて、私は自宅を出て100メートル程歩いた所にある母がいる店の裏口へ入る。
中では、母が板長と仲睦まじく笑っている。
不愉快だった。
母の顔はまるで場末のホステスのようなケバい顔。濃い紫のアイシャドウに何度重ね塗りしたんだ?と首を傾げたくなるようなマスカラ。
濃い頬紅に真っ赤なルージュ。
髪は細かいソバージュ。格好だってかなりケバい。
ラメ入りの黒い薄手のニットに真っ赤なミニのタイトスカート。極めつけは、黒い網タイツ。足元は黒いスエードのウオーキングシューズ。
「相変わらず趣味悪…」
私は小さくつぶやき母を睨んだ。
母はそんな私の視線にきづき、
「何?美里ちゃん、これから学校?」
少しハスキーな猫撫で声。大嫌いな『オンナ』の声。
「昼飯代ちょうだい。」
私は用件だけ簡潔に伝える。
「…女の子なんだから、お弁当くらい自分で作ればいいのに。」
母は言いながら店のレジへ歩き、レジの両替ボタンを押して千円札を二枚取り出す。
「馬鹿じゃね?冷蔵庫からっぽなのも知らないなんて」
私は小さく鼻を鳴らして母の手からお金をむしり取り、再度裏口へと歩いた。
背中越しに聞こえる母の笑い声。
「ほんとにうちの娘は世間知らずで。誰に似たのかしらねー。」
ムカついたから、裏の生ゴミ用の青いポリバケツを蹴飛ばした。
あんたには似てない!
似てると言われたら自殺もんだわ、マジで!
叫んでやろうと思ったけどやめた。
余計に惨めな気持ちになるから。
大体世間知らずなのは誰のせいだ?
誰が世間を示し教えてくれると思ってんだ?
生きてく為の手本て何?誰よ!
悔しさを噛み殺し歩く。
「親として機能してないあんたのほうが、よっぽど世間知らずじゃん。」
小さく吐き捨てた。
「ほんと 馬鹿みたい………。」
こんな事位で泣いてる私。
ほんと馬鹿だ。
◇
学校に行くのがますます面倒になった。
別にイジメられてるわけじゃない。
友達だって普通にいるし、クラスで孤立してるわけじゃない。
ただ気分が乗らないだけ。
勉強だって別にできないわけじゃないから。
ただやりたくないだけ。
やる意味がわかんないから。
ウザイ。何もかも。
何が?って聞かれたら、きっと「わかんない」と答えるだろう。
この説明できない不快感を、逆に誰かに尋ねたかった。
私を支配するこの意味のわからない苛立ちや憂鬱さは一体なんなんだろうかって。
歩きながら、頭の中は忙しいんだかからっぽなんだかよくわかんなくて。でも足はちゃんと目的地へ向かい歩いていて。
ちぐはぐした感覚にめまいがして倒れそうだった。
カバンが重い。
握った手を離してしまいたい………。
「喉渇いた…。」
気がつくと、学校の手前のいつものコンビニの自動ドアの前に立っていた。
店内に入ると、
「いらっしゃいませ〜。おはようございます。」
最近聞き慣れた声が出迎える。
ひと月前に新しく入ったバイトの女の人。
名札には「兵藤」の文字。
歳はわからない。でも雰囲気からして二十歳を越えているだろう。
平日のこんな時間に働いていると言う事は、大学生ではなく多分フリーターだろうなとなんとなく思った。
私は乳製品やパック飲料が並ぶ棚に歩み寄ると、レモンティーを手に取り時間潰しの為ぶらぶらと店内を歩き回り、雑誌の並ぶ向かい側の化粧品や小物の陳列棚へ歩き、足を止めた。
そこで別に欲しくもない口紅を手に取った。確か、アプリコットブラウンだったっけ……。
私は、それを握りゆっくり歩き、ペットボトルの飲料水が並ぶ大きな冷蔵庫の前を通り、お菓子の陳列棚を曲がる時にスカートのポケットの中へ忍ばせた。
万引きは犯罪。そんな事わかってる…。
コンビニに置いてある口紅の値段なんて知れた値段。手持ちのお金でなんなく買える。
でもやった。こんなモノいらないけど万引きした。
自分でもどうして万引きしようなんて考えたのかは解らない。
嘘。わかってた。
スリルを味わえば、イライラが少しは収まるかなと思った。捕まってもどうせ親が呼ばれて、頭を下げてお金を払えば終わりだと思っていた。
私はレジへ向かい、パックのレモンティーを置いた。向かい側には兵藤の名札をつけた女の人。
彼女は、私を数秒じっと見つめていた…。
もう一人のオバサンは弁当の陳列棚を整理していた。
バレたかな…。
何となくそう思った。
でも、彼女はニコッと笑いパックの横のバーコードをスキャンして、
「104円です。」
と私に告げただけだった。
「……」
私は無言で千円札一枚をカウンターに置いた。
その時、
「…なんだ、お金あるじゃん、じゃあポケットん中のモノも精算してね」
「…………」
やっぱりバレてた。
彼女の口から放たれた言葉に、バレてもいいと思っているのにも関わらず、急に心臓がドクドクと速まった。微かに指が震えた…。
「早くしないとさ、オバサンが来ちゃうじゃん。あの人に見つかるとうるさいからさ〜。」
彼女は小さな声でそう促した。
(どういう意味…?)そう思いながらも、私はポケットから口紅を出してレジに置いた。彼女は騒ぎ立てる事も注意する事もなく普通にバーコードをスキャンし、
「271円のお返しです。ありがとうございました〜。」
お釣りとレシート、パックジュースと口紅にテープをして、ストローと共に私に差し出して、普段と何も変わらないそぶりで営業スマイルを振り撒いた。
「………」
私はそれを無言で受け取り、レジから出入口の自動ドアへ早足で歩いた。
「いってらっしゃ〜い」
背中に彼女の声。私を咎める気配が全くない感じの普通の声だった。
自動ドアが開き、店の外へでたら、足が少し震えてた……。
学校へ連絡されたらどうしよう。
なんのリアクションもない彼女に対して何故だか逆に急に不安になり怖くなった。
でもとりあえずは、行き掛かりはどうであれ、お金を払い品物を買ったんだ…。罪となる証拠はない。何か聞かれても知らぬ存ぜぬを決めこもう。
そう思い、歩き出した。
◇
学校に言っても、ずっと彼女の事が気になった。いつ職員室に呼ばれるかもしれないと言う不安もあった。
全くもって中途半端な強がりだ。
バレてもいいやなんて思ってたくせに、いざバレると心臓が速まり、あれこれ考えてしまい…。
結局学校にいる間、ずっと彼女の事、いつ職員室へ呼ばれるだろうか、そんな事ばかり考えていた。
ポケットの中にはテープつきの口紅。
ため息がでた。
何を考えてんだろう…
何をやってんだろう………と。
結局授業を終えても職員室に呼ばれる事はなく、何事もなく終わった。
帰路につく際、コンビニの前を通るのに何となく躊躇した。
罪悪感とは何かちょっと違うような…、でもそれは何かわからない。とにかく嫌だった。
いつもなら下校の際立ちよるところ、少し足を速めて素通りしようとしたら、自動ドアが開いた。
ちらっと自動ドアに視線をやると、コンビニの制服姿ではない私服の彼女が缶コーヒーを片手に店から出てきた。
「……」
「………」
気まずい。
そう思ったのは勿論私。
彼女は私を見て、
「おかえり。」
と普通に笑った。
私は無言で歩く足を止めた。
彼女はドアの左側の灰皿の前に立ち、缶コーヒーのプルトップをカシャリと起こして、コーヒーを一口飲み、黒いパーカーのポケットからタバコを取り出し、ライターで火をつけた。
ため息をこぼすように煙を吐き出し、首を左右に倒した後、再度私に視線を向け、
「どしたの?ぼーっとつっ立っちゃって。今日は買わないの?パックのレモンティー。」
ニコッと笑った。
私は彼女に歩み寄り、
「…ねえ、なんでそんなに普通なの?」
思わず尋ねてしまった。 「は?何が?」
彼女はタバコを吸いながら小首を傾げた。
「……私、口紅パクろうとしたんだよ。」
私はボソッとつぶやいた。
「あぁ、でも、ちゃんとお金払ったじゃん。」
彼女は笑う。
「…でも…」
悪い事したのに、なんでノーリアクションなのか不思議で仕方がなかった。普通なら、お金を払う払わないの問題じゃなく注意するなり何なりするはずなのに…。
「…何?叱られたいの?」
彼女はやれやれと笑う。
「…別にそうゆう訳じゃ…。」
「だったら別にいいじゃん。人間魔がさすって事もあるわけだしさ。」
彼女はそう言って缶コーヒーを飲んだ。
「ねえ、」
「ん?」
「あの時、私が千円札じゃなくて104円きっちり出してたら、…どうしてた?」
不意に聞いてみたくなった。
「あぁ、…別にポケットの中身は追求しなかったかな〜。」
しれっとそう言い放ち、タバコを消した。
「は??」
ちょっと面くらった。
「だって、欲しくても金がないならさ〜、しょうがないんじゃない?そうゆう時もあるじゃん?生きてりゃさあ。」
彼女は更に笑う。
「何それ…ワケわかんない…。」
ちょっと軽蔑の眼差しで彼女を見た。
彼女の言い方は、お金がなければ盗んでもいいとしか聞こえない。
「わかんないなら、別にいいじゃん。あなたはたまたま買うお金を持っていた。だから品物の代金を戴いた。ただそれだけの事だから。」
彼女は小さく笑って缶コーヒーの残りを飲み干し、自動ドア右側のダストボックスに空き缶を捨てた。
「…変な人。」
思わずつぶやいてしまった。
「…ぷっ。ありがとう。」
彼女はご機嫌に笑った。私はますます首を傾げたくなった。
「さて…と、帰ろう。じゃあね。」
彼女は私にひらひらと小さく手を振った。
「ねえ、兵藤さん…」
「何?名前覚えてくれたんだ、嬉しいねぇ〜。」
「働くって楽しい?」
また何となく聞いてみたくなった。
「楽しいよ〜。ここのバイトは特にね。」
「兵藤さんてフリーター?」
「うん、そうだよ。」
「歳いくつ?」
「19才。」
しれっと言い放つ。
「…は?」
思わず間の抜けた声が出てしまった。
「何?もっと歳イッて見えた?」
彼女はそんな私を見てやれやれと笑う。
「…未成年のくせに何店先で堂々とタバコ吸ってんの…?」
私は、またちょっと軽蔑の眼差しを向けた。
「あー…、あははっ。うそうそ冗談、ハタチです。」
笑ってごまかす。
「…万引きを容認したり、未成年のくせにタバコ吸ったり…兵藤さんてめちゃくちゃな人だね。」
私、何を言ってるんだろうと思った。
「ほんとめちゃくちゃな人だねぇー。じゃあバイバイ。」
彼女はくすくすと笑いながら、ダストボックスの横に置いてある黒いママチャリに鍵を差し込みまたがった。
「ねえ、……」
会話なんてさほどないのに、何故だろう彼女ともう少し話がしたい…そう思った。
「なーに?」
彼女は若干困り顔で笑う。
「………。」
何だかもう少し話がしたいんだけど、何を話したらいいか解らない。
私は黙りこんでしまった。
「用がないならもう行くから。特売のタマゴ売切れるし……!あっ、そーだっ!ねえ、あなた暇ですか?」
彼女は私の方にすいーっと自転車で近付く。
「…うん、暇だけど?」
「よっしゃ、じゃあ後ろ乗って♪」
「は?」
「暇ならタマゴ買うの付き合ってよ。お1人様1パックだからさ、2人で行けば2コゲットできるし♪」
彼女は笑う。
「……うん。」
私は自転車の後ろの荷台に座った。
「よっしゃ〜♪今日はオムライス作ろうっ♪」
彼女は高らかに声を弾ませ自転車をこぐ。
後ろで私は(何か変な人だな…)と少し冷たい10月の夕方の風をうけて、小さく笑い小首を傾げた。
◇
「サンキュー、これで家計が助かった♪」
彼女はタマゴが2パック入ったスーパーの袋を片手に嬉しそうに笑った。
話を聞くと、彼女はアパートで一人暮らしをしているらしく、ご飯は出費を抑える為に自炊をしているのだとか。
自転車の前カゴには私のカバンが入っている為、私がタマゴの袋を持った。
「よし、タマゴのお礼にこのまま家まで送ろう。家、どこ?」
彼女は私に笑いかけた。
「…帰りたくない。」
私は小さくつぶやいた。
「おいおい…、」
苦笑いしてため息をこぼした後彼女は、
「−−よかったらさ、ウチで晩ご飯…、食べてく?」
そうつぶやいた。
帰りたくないと言う私だったけど、正直彼女の行動は腑に落ちなかった。
「なんで見ず知らずの人間にそんな事言えるの?」
私の思考回路は正常だと思う。だって、普通にないよ。まともに口を聞いたのは今日が初めての、どこの誰だかわかんない人をウチに招くなんて……。
「見ず知らずではないよ。コンビニの常連さんなわけだし、通ってる高校もわかってるし。」
「でも、それだけじゃん……。」
「それだけじゃないよ……」
彼女は小さく笑って私を見つめてこう言った。
「私とおんなじ《淋しい人オーラ》が出てる。」
彼女の笑顔を見て、なんだか泣きそうになる自分を感じた。
「見たところ、あなたは裕福な家庭環境みたいだけど、目がね…なんか澱んでるわ。」
そんな事を言う彼女の笑顔もどこか淋しそうに見えた。
「…ねえ、」
「ん〜?」
「親の愛情って何だと思う…?」
思いきって彼女に聞いてみた。
「さあね…、私にはわかんないや。親と暮らした記憶ってあんまりないからね〜。」
「………。」
私は黙り込んだ。何か触れちゃいけないモノに触れてしまった感じがしたから…。
彼女は、何も語らずポケットからタバコを取り出し、ライターで火をつけ紫煙をくゆらせる。
薄闇の中、朱に灯るタバコの先端の儚げな明かりが妙に切くて、胸が軋んだ…。
◇
「驚いた。結構近所に住んでたんだ…。」
彼女の済む2階建ての小さなアパートを見つめて私は何だか可笑しくなり笑った。
彼女のアパートから自宅まで、徒歩10分満たない。しかも、学校へ行く時通る道沿いにある見慣れた景色の一部だったからだ。
アパートの隣の家の庭からは、甘い香。
キンモクセイの香だ。
「この花の匂い…嫌い」
私はつぶやいた。
「私も嫌い。なんか厚化粧のババアの匂いがするし。」
彼女が鼻を鳴らして笑ったから、私もつられて笑った。
実は何を隠そう同じ事を思っていたのだ。
1階の右端の部屋の前に立ち、彼女は鍵を開け、「さ、狭いかもだけどどうぞ」と笑った。
「お邪魔します。」
こじんまりとした玄関で靴を脱ぎ中に入る。
入ってすぐ右側に小さなキッチン、正面はワンフロア。6、5帖ほどだろうか?少し縦に長い部屋の左側に薄いマロンベージュの木製のベッド。カバーも同色で統一されている。
ベッドの前にも同じ色調の木製の小さなテーブル。その上には陶器らしき材質の黒い灰皿。
右側にはテレビやコンポ等の電気機器がスチールシェルフに収納されている。ベッドから向かい左隣にもスチールシェルフ、布が被さり中は見えないが、多分衣類が収納されているんだろうなと思った。
右隣にはチープな白いカラーボックス。絵本などの薄いのや、厚い本がずらり詰まっている。
以外と殺風景な部屋だ。なんだか女の子の部屋という感じがしない。
「適当にそこらへんに座ってテレビでも観てなよ。ご飯作るからさ。」
彼女は小さな台所に立ち夕食の準備にとりかかる。
私はテレビをつけ、リモコンでチャンネルを変えるけど、ニュースばかりで退屈だった。
「あ、ねえ、名前なんて言うの?」
玉ねぎを剥きながら彼女は尋ねる。
「美里。今野美里。」
「美里か、私は葵兵藤葵。」
彼女は振り向き笑う。
私も小さく笑った。
まな板が軽快に鳴る音が部屋に広がる。
何だろう、不思議とあったかい感じ。
私は彼女−−葵の背中を見つめた。
……何でだろう。
涙がでた。
◇
小さなテーブルの上、オムライスと大根とツナのサラダ、それにワカメの入ったスープが2つ。
葵は少し目が赤い私を見て、小さく笑って頭をくしゃっと撫でて、
「さ、あったかいうちに食べよう、《美里》」
私を名前で呼び、にかっと笑った。
「……うん。」
胸の中がくすぐったい感じがした。
学校の友達に同じように呼ばれてるのに、なんか全然違う感覚。
「「いただきます。」」
二人声を揃えて、スプーンを持ち、オムライスに手をつけた。
ひとさじすくうと、ほわりと湯気が立ち、ケチャップの香が鼻をくすぐる。
電子レンジじゃない作りたての温かさ。そっと息を吹き掛け、少し冷まして口に運んだ。
「…おいしい…。」
なんかまた泣きたくなった。
そんな私を見て、葵は
「全くぅ、オムライスごときでオーバーな子だねぇ。」
ため息混じりにやれやれと笑った。
「誰かと一緒にご飯を食べるって、こんなにもおいしかったんだね、忘れてたよ。」
何だか笑えてきた。
「…よかったらいつでもおいでよ。あんまりお金ないからたいしたものは作れないけど。」
「お金じゃないよ。」
ぽろっと口から出た。葵は黙って私を見つめた。
「お金があったって、裕福だって…幸せとは限らない。」
私の言葉に葵は、
「…生活に、金に苦労してない人はそう言ってすぐ綺麗ゴト並べる。」
葵の瞳は怒りに似た哀しみに揺れていた。
「甘える場所があるから、わがまま言えるのって幸せな事なんだよ。」
「わが…まま?」
カチンときた。
私の事、何も知らないくせに。
「甘える場所なんてない!甘えてなんかない!」
声をあらげて否定した。
「じゃあ、今までどうやって生活してきた?学費は?着てる服は?コンビニで毎日買うモノに払う金はどこから出てんの?」
「!!」
「…結局親からでしょ?」
葵は切なそうに笑った。
「今の生活が不自由だって思うなら、親なんて切り離して一人で生活すればいいじゃん。学校やめて寮つきのとこ探して働いて、自分の力で生活すればいい。」
「………。」
悔しいけど言い返す事ができなかった。
「親が無償で愛情を注いでくれるなんて、私は勘違いだと思ってる。
私は親から愛情なんて貰った覚えはないし、親を愛したいとも思わない。」
そう言い放つ葵の目は冷たかった。
何者をも拒むような冷たい目……。
「世の中には、親の愛情なんて知らないで生きてる奴はいっぱいいるんだから…。」
葵は唇を噛み締めた後、小さくつぶやいた。
何だろう…。
私はまだ全然マシなんだ。漠然とそう思った。
彼女の過去に何があったかはわからないけど、少なくとも、私よりよっぽど苦しい事があったんだろうなと、何となくだけど感じた。
「でも、親の愛情以外ならわかる。こんな私でもいろんな人から貰ったモノは結構あるから…。」
彼女は小さく笑った。
「色々あるけど結局生きてるって意外と悪くないよって事。こんな私でも毎日笑ってられるし、時にはこんな変わった出会いもあるしね。」
そう言って笑いながらオムライスをパクパクと食べ始めた。
「……そっか…。」
私もつぶやきスプーンを口に運んだ。
少し冷めたオムライス。でも、何だか妙にあったかかったような気がする。
彼女が何を言いたいのか、何を諭したいのか明確にはわからない。
でも、ひとつだけこの時わかった事。
私は貰う事ばかりに捕われてたんだって事。
誰かのせいにして向き合う事から逃げてたんだって事。
苦しいのは嫌。寂しいのは嫌。そればかりで、何の行動も起こさなかった。
母に対しても、父に対しても、兄に対しても…
結局事を起こす前に諦めてたんだ。
どうせ無理だって。
何も変わらないって。
「頑張れるかな…?」
私は葵に尋ねた。
「頑張れるかなじゃなくて、やるかやらないかだよ。」
そう笑われた。
「何そのキツイ言い方…。」
私もくすっと笑った。
「いいんだよ、ダメでも逃げ場はあるんだからさ。」
「…え?」
私は葵を見つめた。
「愚痴ならいつでも聞きますけど?」
葵は自分を指差しそう 笑った。
「うん……。」
何だろう。
やっぱり泣いてしまった。
◇
美里はベンチから立ち上がり大きく伸びをして、深く息を吐いた。
「懐かしい事思い出しちゃった。」
小さくつぶやきゆっくりと歩き出す。
風に乗って胸をくすぐるキンモクセイの甘い香。
「昔は嫌いだったけど、今は別に嫌いじゃないなぁ、この匂い。」
ゆっくりと歩きながらそうつぶやき、携帯を開く。
そして、メールを飛ばすためにカチカチと文字を打ち込む。
メールの内容は、
『久しぶりにオムライスが食べたい♪今日の夜行くね♪』
送信して、鼻唄混じりに笑いながら歩く足を軽やかに速めた。




