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雪溶けの季節

 とりたてて悲しいことだとは思わなかった。


 お気に入りのミュールのかかとをたまたま階段のへりに引っ掛けて傷をつけてしまったことも、つい数分前まで彼氏だった大紀だいきが他の女の子と楽しそうに手をつないで歩いてるところを見たって、悲しいなんて思わなかった。


 私はいつも自分に起こる、世間で言うところの『不運』というやつを、深く考察してみたり、感情をはっきりと表に出したりしないタイプの人間だと思っている。

 それは、もちろんポジティブにとかそんな素敵なことではなく、きっと様々な事柄に対して関心が極度に薄いだけ。

 それを、そんなホントの自分を知る人間は、私以外に誰もいないと思っている。

 私は、人と『心の関わり』を深くしない、できない人間だ。


 そう自分で認識しているくせに、それを誰にも悟られないように、周りから浮く事をせずに広くて浅くて薄っぺらい人間関係をそれなりに大切にしている。


 それが私―――新見茜にいみあかねという人間だ。



 見上げる空はどんよりとした、季節の変わり目。

冬から春へと向かい始める三月も中版を過ぎる頃。

 今日はなんだか風が湿気混じりで生暖かくて、若干強い。

これがうわさに聞く『春一番』ってやつだろうか?と、吹き撫でる好感触では決してないその風に目を細めて、小さく息を落とした。


 街中まちなかの四角くて背の高い建物の群れ。商社ビルやファッションビル等、駅前は当たり前のように賑やかで、そして行き交う人も街も全て私に無関心な感じがしてなんだか好きだ。

 季節が季節なだけに、沿道に規則正しく間隔を置き並ぶ名前も知らない(ぶっちゃけ興味ない)背丈は差ほどでもない幹の細い木には、小さな若い緑の新芽。それをじっくりと愛でる気持ちなんて更々なくて、ただ、街なかのオブジェ感覚で『そこに木が並べてある』という程度の認識で軽く視線を泳がせ、目的地である駅を目指して歩いた。



 数分前に少しだけ時間を戻そうかな……。


 私には数分前に大紀という名前の彼氏がいた。

彼は私と同じ十九才で、デザイン関係の専門学生。明るくて短めの茶髪をふうわりと整えた、普通におしゃれで、笑顔がとても幼くて年相応に見えない、巷で言うところの『可愛い系』な感じの子だった。


 出会いはお決まりの『飲み会』―――言い方を変えれば合コン。主催者は、私が通う短大の友人である美恵子。彼女は私の両肩をポンッと叩き、私にこう言い切った。

「遊べるうちに遊んどかなきゃ、就職したらしばらく忙しさに追われて、恋愛する余裕がないかもしれないじゃん!」

と。

 苦笑いする私に気遣い遠慮なんて全く無しで、あれよと言う間に彼女に引っ張られたのだ。

 美恵子の恋愛中毒ラブジャンキーな性質はホントは嫌い。

遊ぶイコール恋愛って結んで考える彼女はなんだか浅はかでさもしい感じがしてぶっちゃけ好きじゃない。


 でもそんな本音はけっして口にはしない。友達を失くすとか、反感を買うのが嫌だとかそんな理由じゃなくて、そこまで人にとやかく言うのが億劫なだけなのだ。

 そんな美恵子に連れられて参加した『飲み会』で私の向かって右斜め前に座った男が、大紀であった。

大紀はこの手の集まりにあまり慣れていない感じだったけど、なんとも穏やか且つ、柔らかな物腰で私に笑顔をむけてきた。「名前、なんていうの?」から始まり、「この後さ、ふたりで消えちゃおう」って感じのこれもお決まりな流れで私は大紀との関係を始めた。



 大紀といるととにかく楽だった。無理して会話をつなぐ気苦労や、彼氏だ、彼女だという暗黙の了承である束縛感もなく、話す会話の内容もたいした意味を持たないくだらないレベルの低いもの。いちいち思考を働かせなくても、むしろ会話の内容を覚えていなくても彼は気にせずに楽しげに笑いながら会話を展開させていく。適当に相槌を打ち軽い笑みを浮かべる私に彼がよく言った言葉。


「アカネって、ほんとに人を馬鹿にした態度やフザケタ無駄な会話とかしないし、おとなしくていい子だよね。俺、無意味な会話したり、ひけらかしたり、軽くて馬鹿な女の子って正直嫌いなんだよね」


 なんの悪びれもなく笑顔で言い放つ大紀に、私は心の中で(自分のこと何にもわかってないな。私のことも上っ面しか見えてない……この子はきっと、紙一重でバカのほうだな)と何度となく苦い笑みを浮かべたっけ……。 


 彼はどうも私をとても従順で女の子らしい人だと思っていたようだった。


 もともと大紀は自分に否定的な態度を絶対にとらない人間が好きな甘ちゃんな性質タチで、美恵子のように積極的にはきはきとした物言いをするタイプは苦手らしかった。あと、頭のいい人も好きではないらしい。要は自分より秀でた人間を疎ましく思う、限りなく狭い範囲での『お山の大将』みたいな感じの人だった。

 

 そんな彼の小さな自尊心プライドを些細なことで傷つけたのは三日前のことだった。


 たわいもない、いつも通りの薄っぺらな会話。それをいつも通りやんわりと笑いながら聞き流すつもりでいたのに、あの日の私はそれを聞き流すことができずに彼にたった一言でわあるけど、物申してしまったのだ。


「チュッパチャップス(キャンディ)のデサインて、確かアメリカの画家がデザインしたんだよ。俺もさ、ああいうロングセラーなデザインを生み出せたらなぁ」

 うんうんと頷く彼に、

「『ダリ』がデザインしたんだよ」

 わたしは小さく笑みを浮かべて彼の間違いやんわりとを正した。


「…へえぇ…、アカネって、物知りなんだね……」


 彼の顔は、不満そうな、不機嫌そうなつくり笑顔だった。(あ~あ…、ほんとめんどくさい性質だなぁ…)と思いながらも、それとなく「たまたま知ってただけ」とあいまいに会話を濁してやり過ごすつもりだった。なのに、

「…ホントはアカネって頭がいいんじゃない?わざと隠してるとか?」

「頭?ぜんっぜん悪い悪い」

 笑ってごまかしたら、

「ねえ、『ダリ』って確かフランスの画家だよね?まあ、アカネは普通に短大生だし、美術やデザイン関係の話はそんなに詳しくないだろうけど」

 大紀は若干嫌味雑じりに私に尋ねた。その時私は彼に従順らしきふりをして「知らない」とやり過ごせばよかったんだろうけど、

「ダリがピカソと同じスペインの画家だってことくらい、中学の美術でも習うよね?」

 逆に彼に問いかけてしまったのだ。


「……ごめんね、中学レベルのことも知らないで」

 

 彼は、完全に沈黙してしまった。それから、なんとも気まずくて微妙な空気のまま時間を過ごして、互いの帰路についたのだけど、そこから大紀からのメールも電話もこなくなった。


 たったそれだけのことで……。


 そんな彼をものすごくめんどくさいと思った。


 それから、三日目の今日。

 

 大紀の隣には『おとなしそう』な女の子が笑っていた。


前から楽しそうに歩いてくる二人とすれ違ったけど、大紀は、顔色ひとつ変えずに彼女に笑いかけながら、私の横を平然と通り過ぎ歩いていった。


 なにも驚くことはなかった。

 別に悲しくなんてない。他の女の子と一緒にいたところを見ても、自尊心を傷つけられたとも思わない。きっと、大樹の存在は私にとってそんな程度のものだったんだと妙に淡々と思う自分に少しだけあきれ笑いがこみ上げる。


 きっと、人を本気で好きになるってことを私はまだ知らないのだろう。

そもそも本気ってなんだろう?恋愛にせよ、生き方にせよ、本気、真剣になるってことの意味が私にはわからない。

 美恵子にしろ、他のトモダチにせよ、本気でに好きだとか言っておきながら、その人と別たらすぐに他の誰かをまた『本気で好きになっちゃった』ってテンションをあげられる事に首を傾げたくなる。

簡単に代替の効く都合のいい『本気』なんて、私には全く意味がわからないのだ。


 狭い範囲で自分中心に展開していく偏った平和な世界。

人って暇なんだなぁ…と、私は湿気混じりの春を迎える風に吹かれてふと思った。


 その暇人の中に当然私も含まれているって自覚はあるつもりだ。

 そして、時間(暇)をどう消費するかの為だけにやり過ごす中身のない日々に慣れてしまうと、人間てなだらかに腐敗していくものなんだなとも思っている。


 贅沢な悩みだろうか?

普通に両親がいて、五体満足で、 それなりにトモダチもと呼べる人もいて、生活には困ることはない。


 でも、いつも心のどこかにすきま風が吹いているようなこの感覚が止む事がないのだ。

 

 楽しい事はある。

でも、それを心から楽しいと感じられる自分がそこにいないのだ。


 いつからこんな風に渇いた人間になっちゃったんだろう……… 


 最後に思い切り笑ったのはいつだっけ…?


 最後に思い切り泣いたのはいつだっけ………


「何考えてんだろ…馬鹿みたい……」

 俯くのは何となく嫌だったから、わざと視線を空へと上げる。


 重い空。

雨が降りそうだ。

(傘、持ってないや…)


込み上げたのは中途半端な苦笑いだった。

まあ、いい。どうせこのまま駅地下に潜り、適当にウインドウショッピングして、とんぼ返りするだけだから。


今日からはもうこの街に用事はなくなった。

理由は、彼氏だった人のアパートへ行くことはもう二度とないから。


悲しくないのがなんだかちょっとだけ悲しい……

なんだか自分の欠陥をじんわりと噛みしめてるみたいだから。




   ◇



 少しだけ歩く足を速めて、駅ビルの入り口にさしかかるところで一人の少女が私の腕にぶつかった。

 さほど勢いはなくぶつかったのに、少女は華奢で小さな身体をぐらりとよろめかせ、そのまま地面にうずくまった。

些か面食らったが、放置して足を進める程の薄情さは生憎なくて、

「ごめん、大丈夫?」

と私は彼女に声をかけた。 黒くて真っ直ぐなセミロングの髪。その肩は触れただけで折れてしまいそうな程にか細くて……髪の隙間から見える頬は生きてる人間だろうか?と一瞬躊躇してしまう程蒼白していた。

(なんだか厄介事の嫌な予感)

 彼女から出る異質な空気を本能的にさとり、私は少しだけ身構えた。そんな私に予想通り厄介事が降り掛かった………


「お、お、お金」

「は?」

「お、お金っ!だして!!!」

 蒼白し、ガタガタと身体を震わせながらも、鬼気迫る瞳を私に向ける彼女の手には、カッターナイフが握られていた……

 あまりに突然なこの状況に思考がついていけずに、一瞬頭の中が白くなり思わず息を飲んだ。


「は、は、はやく!!」

 彼女の引きつった声、泣き出しそうなその顔が尋常じゃなく怯えていたので、私は逆に冷静さを取り戻す。ゆっくりと視線だけを周りに這わすと、駅ビルから少し離れた場所に彼女と歳の変わらない少女が三人、植え込みの陰に隠れて下卑た笑みを浮かべて指を差して様子を伺っている。


(なるほどね…最近のクソガキはこんな事までさせるんだ)

 やれやれとため息をつきたかったけど、私はそれを飲み下して

「悪いけどさ、カッターナイフじゃ、よっぽどじゃないと人は死なないんだよね」

 私の言葉に一瞬はっとした彼女の隙をつき、震えるその手の中から素早くカッターナイフを取り上げて 「あんなクソガキ達の命令に従ってさ、自分の人生棒に振るってどうよ?」

 自失してへたりこむ彼女にそう問いかけた。

「わ、わた、わた……し」 事の重圧に押しつぶされそうになりながらも、彼女は何かを私に訴えかけようと必死に喉を動かそうとしているけど、その喉からはしゃくり上げる声。


 そして、怯える瞳からは出すことのできない言葉の代わりに大粒の涙がぼろぼろと溢れていた………


 無関心な街なはずなのに、『暇潰し』を見つけた野次馬共が私と彼女を徐々に円で囲い始める。

「ちょっと場所変えて落ち着こうか…」

 今度ばかりはやれやれとため息を吐き出して、私は彼女をゆっくりと立たせて「歩ける?」

 声をかけた。泣きじゃくりながらも彼女は何度も何度も頷き、私に身を預ける。

 私も結構身体は軽いほうだと思っているけど、彼女の身体は私の想像を遥かに越えた軽さだった。

Aラインの膝丈のスカートから伸びる真っ白な足は、眉をしかめたくなる程細かった。それは、決して羨ましいではなくて、病的ともとれるその異常な細さに対しての言い様のない気持ちから来るものだった。



   ◇



 駅ビルから少し離れた緑に囲まれたベンチに彼女を座らせ、私も腰を下ろして、数分沈黙した。

 どう彼女に声を掛けようか…。被害者は私なのに何故だろう、私より更に彼女の方が酷く被害者に見えるのがなんとなく可笑しくて、不謹慎かも知れないけど笑いが込み上げそうになる。そんな私に彼女はか細い声で、


「ご、ごめんなさい…ほ、ほんとに…ごめんなさい………」

 泣きじゃくり、肩を揺らし、うわごとのように謝罪を繰り返す彼女を見ると、なんだかますます笑いが込み上げそうになった。

「相手が私でよかったと思うよ……」

 先刻の出来事をざっと頭の中で振り返り、私は小さく笑みを浮かべた。

「あの場面で私が悲鳴のひとつでも上げる人間だったらさ、あなた…間違いなく今頃警察のお世話になってたね……」

そう考えると、私のこのドライな性質も捨てたもんじゃなかったかな…と言いかけたけど、口には出さずに代わりにため息笑いを地面に落とした。

 そんな私のリラックスした姿と反するように、彼女の表情はますます重苦しく泣き声も激しさを増していく。

「あ、いや…、あのさぁ、誤解しないでね。別に、私はあなたの事を、警察に突き出す気はないしあなたのしたことを咎めようとも説教しようとも思ってないからさ…」

 別に私が悪い事をしたわけじゃないのに、彼女を見てると何だか心が勝手に焦りだしていく。

(参ったなぁ…なんか面倒だ………)


 私は、とりあえず自分はもう何とも思ってない事を告げて、彼女の元から離れてウインドウショッピングはやめてさっさと帰路につこうと思った。


「惨めです……」

 彼女は俯き、涙と共に蚊の鳴くような声をぽつりと地面に落とした。

「私は何もしてないのに…、どうしてみんな…私を…どうして私なんだろう……………………」

 地面に向かい自問自答を始める彼女を、私は黙って見つめた。

「どうしてこうなっちゃったのかなぁ…。友達だったはずなのに…いつの間にかみんなの言うことを聞かないと―――」

 ありがちなパターンだなと思った。


 友達という言葉の呪縛。

友達だから、友達の為に、友達が頼んだ『お願い』はどんなコトだろうが聞くのが当然だろ?という友情という言葉を逆手に取った心理攻撃。


そんな言葉の罠にはまる人って、率先して自分の意見が言えない受け身タイプの大人しくて、驚くほどお人好しな人間だと私は思う。

悪く言えば、『自分』という中身がない人。

断ったら、独り―――孤独になるのを恐れ、ズルズルと『トモダチ』って言葉に操られて、命令行為がどんどんエスカレートしたのがこの結果なのだろう。


 元々そこに『友情』なんてない事に薄々気付きながらも、それでも独りになりたくないと思ったのか、偽りの『友情』がいつかホントの『友情』へと姿を変えてくれると、心のどこかで願って信じてたのか、私は当人じゃないからわからないけど、どちらにせよ、馬鹿馬鹿しいなと心の中で嘆息した。


「私…中学の三年間、『透明人間』だったんです」

 彼女の呟きで何故友達に執着するのか、なんだか妙に納得がいった。


 暗闇が長くて、光に憧れれば憧れるほど、一度手に入れた光はそれがたとえ『まがい物の光』だったとしても、手放すにはそれ相応の覚悟と強さが必要になるだろう。でも、彼女にはそんな強さなんてないのは見ただけでわかる。


「それでもさ、やっぱり違うと思うな…」

 思わず心の声が漏れた。彼女はゆっくりと顔を上げてじっと私に視線を向けた。


 本当は私なんかがこんな事を言うなんて間違ってるだろうけど……。

でも、何故だかこの子に対してはきちんと言わなきゃいけないと思う自分自身に少し戸惑う心の中の私を閉じ込めて、


「友達ってのは、対等であって初めて友達と呼べるものじゃないかな?」

 泣き腫れた彼女の赤い目をじっと見つめて心の動きを探る。

「こんな残念な事言いたくないけどさ、あなたにこんな事させた奴らは友達なんかじゃないと思うな。」

 彼女の瞳はまるでものを見る力を失くしたように焦点が定まっていない感じに見えた。だけど、握った両拳は瞳と反して更に強く握りしめられている。


「間違いを正せずに、喧嘩もできないなんておかしいよ……」

 頭の中で大紀の顔が浮かんだ。

私もそうだ。

大紀の考え方は間違ってるって、正す事も諭す事も喧嘩する事もしなかった。

 本当は大紀にはっきりこう言うべきだった。

『自分勝手なものの考え方で人を馬鹿にして見るのもいい加減にしろ』って。

「アクションを起こす前から、無理だって諦めたら、何も変わるわけないじゃん。何も伝えずに我慢してされるがままなんておかしいじゃん」 


 彼女に言ってるのか、自分自身に言ってるのか……

「それにさ、あなたは何もしてないのにって言ったけど、何もしてないからこうなったんじゃない?

反論や拒否も何もしてないから、やりたくない事をやらされた。違う?」


驚く程感情が高ぶっている自分に目眩がしそうになる。

「私はそうだった。

何もしないから、ただ流されるまま、ちゃんとしっかり相手を、自分自身を見ないから!だから―――!」



 だから、人と一緒にいても満たされる事なく、いつも孤独だった……

そして今も、無関心を装って、孤独じゃないふりして周りに心を開けないでいる。


 どうせ、本当の私なんて理解してくれる人間なんていない。

友達なんて、互いの暇を潰す為だけの存在。

彼氏なんて、ただ、欲を満たすだけの存在。


私が本当は何を望むのか?本当はどうしたいのか?


誰にも解るわけない!

だって、私は何もしていないから。

だから―――

だから私は


「涙を流すことができなくなっちゃったんだよ…………………………」

 

 こんなにも胸が軋むのに。

 こんなにも息が苦しいのに―――

 

私の瞳は、涙を流すことができない。

彼女のように、しゃくりあげ、なりふり構わず大声で泣いてしまいたいのに。


私の涙腺は、ある日を境にずっと壊れたままなのだ………


「私ね―――数年前に人を切りつけたことがあるの。ちょうど今日のあなたみたいにカッターナイフで」


 軋む胸と反して、私の顔は何だか気の抜けた笑みを浮かべていた。

 そんな私を見つめて息を飲む彼女に、私は何故自分が『欠陥品』になったのかゆっくりと話す。


「切りつけた相手は中学の同級生で、少なくとも私は親友だと思ってた……。 元々、私はね、人が厄介事に巻き込まれるのを黙って見過ごす事ができないタイプの人間だったんだよ…」

 思い出したくない記憶の引き出しをそっと開けて、私は親友だったあの子や、あの日の景色を、横に座る彼女に打ち明けた。


中学時代の私はここよりもう少し都会で生活する、世間でいうところの『優等生タイプ』の人間だった。


部活は陸上部、なにより走るのが大好きで、一生懸命が好きだった。

いつも沢山の人に囲まれて、みんなが笑顔でいる事が心から嬉しかった。


 その中でも、大切だった親友がいた。

相田奈留あいだ なるそれが彼女の名前。


 奈留とは、中学に上がりすぐに仲良しになり、いつも私達は一緒だった。

奈留は私と違って少し控え目で、とても女の子らしい子だった。


 いつも私は奈留を守ってあげよう、奈留がツラそうな時はいつも彼女の傍にいた。

彼女から頼まれるお願いは「しょうがないなぁ、いいよ。奈留の頼み事ならなんでも聞くよ」


 今思えば、私は彼女に依存しているんじゃないかっていうくらい、奈留に執着してたと思う。

奈留の笑顔が大好きだったから。


 でも、奈留の笑顔は偽りの仮面だったのだ。


 中学三年になり、奈留とクラスが離れてしまったけど、私達は相変わらず仲良しだった。


 でも、クラスが離れた事で今まで奈留に対して不満が鬱積していた二年の時から同じクラスメイトだった女子にこう言われたのだ。

「アカネちゃんはナルにいいように利用されてるだけなんだよ……」


 何を馬鹿な事言ってるをだろう。親友の奈留が私を利用してる?

当然、私はそんな戯れ言には耳を貸さなかった。


 私は奈留を信じてたから。

 でも、奈留の仮面は本当に他愛ない事で外れてしまったのだ。


美術の時間だった。

日直だった私は、授業の準備の為に休み時間に美術室へ急いだ。

美術室の隣の準備室に入ろうとした時に、奈留と奈留のクラスの女子が準備室で話してた事………


「新美茜ってね、ホントは私の奴隷なんだ♪」


 …耳を疑った。

この声は、ホントは奈留の声じゃない………

きっとそうだ。

そうに決まってる……


「アイツはね、自分が一番なんでもできるからって、ほいほいゆうこと聞いてさぁ、正直親友ってベタベタ付き纏われてキモいしウザイし。でもさぁ、便利だから、親友のフリして面倒クサイ事全部アイツに押し付けてるの。お願~いって私が笑って頼めば、アイツは絶対嫌だって言わないし。……そうだ、今度金貸してってなきついてみようかな?」



 目の前が真っ白になった。

奈留が…大切な親友が… 吐き捨てて笑っている言葉………

 私の中で大切な何かが壊れた………


「…奈留…?」

 私はよろけそうになりながらも奈留に歩み寄り

「…冗談だよ…ね?」

 私は奈留の両肩を掴み揺すり呟いた。

 嘘でもいい。

ごめん、冗談だよって笑って欲しかった。そうしてくれたら、それが間違いだとしても私は奈留を信じようと思った。それなのに、


「あんたのそういうところがウザイんだよ!馬鹿じゃない?いい子ぶって親友とかぶっちゃけ引くし!私だけじゃない!みんなあんたのそのいい子ぶってるのを便利だと思って利用してんじゃん!あんたはそれに気づいてなかっただけじゃん!」


 それから、私は自分自身が何をしたか覚えてない。気がついたら、私の手には切っ先に血い液体がついたカッターナイフが握られ、目の前には、恐怖に顔を歪めて、泣いて腕を押さえる 

 奈留がいた。




 中学児童が友人を刃物で切り付ける騒ぎを起こし、地元のニュースになり、私達はその街から引っ越しを余儀なくされた。

 この街で暮らし始め、心療内科の診察、カウンセリングをうけた結果、私は強い精神的ショックで『PTSD』と診断された。


 親友を、人を切り付けた代償に、私は『泣く心』を失ってしまったのだ。




「だからね、私は人と深く関われないんだよ。

誰かの為にも、自分自身の為にも、涙を流したり、本気で自分の事を話したりできなくなっちゃったから……」


 彼女は黙って、そして真剣に私の話を聞いてくれた。


「私はね、心のどこかでいつも恐がってた。奈留が、私から離れていくのが……だから、奈留の言うことは何でも聞いて断らなかった。それが例え間違いでも……。でもね、今は間違いだってわかる。

もう、私は取り返しがつかないけど、あなたはまだやり直しができると思う。」

 なるべく彼女が不快にならないように、笑みを浮かべた。


「ミュールの踵…」

 彼女が私の足元を見て小さく呟いた。

「ははっ、さっきね、引っ掛けちゃった。結構気に入ってたんだけど…」

 こんな時、泣く事ができたら、どんなに心が軽くなるだろうか…。でも、泣けない私は苦笑いするしかないのだ。


「ちょっとそれ、お借りしていいですか?」

「え?」

 戸惑う私に、

「ネイル用のラインストーンを踵にあしらったら、傷が誤魔化せるかなぁ…と、思って」

 彼女は小さなバッグの中から色とりどりのラインストーンが入ったケースを取り出して私に見せてくれた。

「…あの、あまり上手じゃないけど……」

 照れくさそうに、小さく微笑んだ彼女を見て、

「可愛くしてよ」

 私も頬を緩めて彼女にミュールを差し出した。


 10分程沈黙して、彼女は私の傷ついたミュールの踵に、キラキラと輝く花―――『桜の花』をちりばめた。

 それはまるで繊細なちぎり絵のような綺麗な淡いピンクの光の集合体で、正直このまま店に売っていても私は買いたいと思ってしまう出来栄えだった。


「すごいじゃん。こんな事ができるなんて」

 自然と顔が綻ぶ私を見て、彼女はとても嬉しそうに笑った。

「そんないい顔で笑えるならさ、大丈夫だよ」

 私はベンチから立ち上がり、

「あなたは、きっといい友達ができるし、きっとこれからもいい事なんて絶対にたくさんあるから」


 どれだけぶりだろう。

人にそんな前向きな言葉をかける自分に驚く。


「あの、あか…ねさん」

 彼女は恥ずかしそうに私の名前を呼ぶ。

「ん?」

「あ、あの、……来週も、また、ここに…来ますか?」

 彼女の瞳は不安そうに私を捕らえる。


「…そうだね、来週もまた来るよ」

 用事はない事はない。

ここに来たいと思えば、それはもう、ひとつの用事なんだと思うから。


「来週、…ネイルアートの練習をさせて貰えませんか?」

 彼女の申し入れに、

「可愛くしてよ」

 勿論快諾した。 




   ◇




 それから、一週間後。


 私は駅の改札を通り抜け、彼女と出会った駅前へとたどり着いた。


 駅の柱にはそわそわと駅ビルの入り口に目をやり私を待つ彼女の姿があった。

「何、その顔、すごいワイルドだね」

 私は彼女の顔を見て苦笑した。

「私なりに闘いました。もうあんた達なんか友達じゃないって」

 その顔は、体は相変わらず真っ白でか細いけど、瞳はまるで別人のように生き生きとしていた。


 顔にできた擦り傷が、何だか誇らしげに見えた。

「もう、大丈夫です。私は独りでも怖くない」 

「独りじゃないよ」

 私は彼女の頭を撫でた。「私がいるじゃん。ね、野中春美のなか はるみさん♪」


 はっとした次の瞬間、彼女はこれでもか!と言うくらい、顔をくしゃくしゃにほころばせて


「はいっっ!!」

 と春風にそよぐ小さな花のように笑った。


 どうやら私の中の長い冬にも、ようやく待ちわびた雪解けの季節が巡り来たようだ。


 私は彼女に見えないように、そっと目頭を指で拭った。



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