1-2:世界一いらない能力
トイレのあと、数分も経たずに経の事情聴取は終わった。あれだけ何かに執着していた中荷があっさり引き下がったのが気になったが、わざわざ聞く必要はない。そう判断した経は堀巣にお礼を言って席を立つ。
そもそも、たくさんの人々が倒れた原因は今もまだわかっていないのだ。なぜ倒れたのかわからない状態では、事件を起こした方法も動機も突き止めるのは難しい。現段階では拘束などできるはずもないので、「また呼ぶ可能性はあるが」と一言添えられた上で全員早々に帰されていた。
「これから本格的に調査だよ」
「お疲れ様です」
帰り際、苦笑した堀巣に心からの労いを送る。何かあればと渡された名刺は財布に入れて、見送りだとついてきてくれた堀巣に警察署入り口で頭を下げた経はその場を去った。
時刻は四時。今更学校に行ったところで授業はとっくに終わっている。部活をやる気にもなれなかったので一度家へと帰った経は私服に着替え、事件後なので念のためマスクで顔を隠すと祖父がいる病院へと足を進めた。
「じいちゃん」
「おお、来たか」
須賀志総合病院。都内でも五本の指に入るほど大きな病院であるここは、経の祖父である素夫が理事長を務める病院だ。偶然にも、倒れた人たちが搬送された先がこの須賀志総合病院だった。
すでに現役を引退している素夫は院長を実力のある後継に譲り、今は自分の好きな研究をしながら理事長として病院の経営に関わっている。
「調べといたぞ」
ほれ、と差し出された書類の束をパラパラとめくっていく。その書類は、今回倒れた人たちの診察結果だ。
「警察からも連絡が来たし、事件に関わってるとわかっとるから今回は特別に見せるが……口外禁止じゃぞ?」
「わかってる。ありがとじーちゃん」
紙をめくる手は止めずに部屋の中を移動し、来客用のソファに腰掛ける。
書類には、どの患者にも大きな外傷はなく、倒れたときについたと思われる擦り傷や打撲程度であること。そして、毒物などは検出されていないが、現在も昏睡状態であることが記載されていた。
「なあ、じいちゃん」
「んー?」
パソコンと向き合っていた素夫が、空返事をしつつかけていた丸メガネを押し上げた。度数が高いからか、極端に拡大された目が経を捉える。
「……おならが毒になることってあんの?」
「ほ……?」
興味のなさそうな瞳が一瞬で見開かれ、素夫が楽しそうな声をあげた。
理事長用の長机を両手で押して、座っていた椅子から立ち上がる。老人にも関わらずひょろりと高い身長でモデル体型の素夫は、白衣をはためかせながら身軽な動きで経のそばに移動した。
そして、書類を見ていた経と向かい合うように来客用のソファに座ると、早く話せと机に置いてあるせんべい片手に急かす。
「いやさ……」
ぽりぽりと頭をかいて口篭る。だが、黙っていても話は進まない。観念したように口を開いた経は、今回の事件の状況を話した。
自分の周り、半径一メートル以内の人間だけが不自然に倒れた事実。そして、それは自分が「屁」をした直後だということも。
「いやいやいや。面白いのう」
ニンマリと笑った素夫は、医学会で名を馳せていたほどの名医だ。だが、現在は最前線を退いた身。自分が好きな研究に没頭できると、両手を上げて喜んでいたのがつい先日のことのように思い出せる。
「面白くないんだけど」
年に似合わない無邪気な顔をしている素夫に突っ込むが、その顔が元に戻ることはなさそうだ。
「とりあえず、調べてみるか」
白衣についたせんべいの残りカスを叩いて落とし、素夫は再び立ち上がった。
「今屁でるかー?」
「ちょ、恥ずかしいんだから大声で言うなって!」
理事長室に備え付けてある素夫個人の研究室。そこに消えた素夫が、奥の方から大きな声を出した。
途端に真っ赤になる経の顔。
「防音だって知ってるじゃろ?」
ちらりと扉から顔をのぞかせた素夫は、楽しそうにくつくつと笑っている。還暦を過ぎているようにはとても見えない。
「ほれ、ここに入ってみ」
先ほど受け取った書類を素夫が座っていた長机に置くと、経は促されるまま研究室に向かい、ガラスで覆われている箱の中に入る。
高さ二メートル、横幅一メートルはありそうなこのガラスの箱には、二箇所に穴が空いていた。両方の穴には太く透明なホースがついている。一つは酸素注入用、もう一つが中にある気体を取り込むためのものだ。
ガチャリと閉められた扉。出てきた気体が漏れないようにゴム製のパッキンがされているが、念には念を込めてと素夫はガスマスクを被っている。どこから取り出したのかと経が呆れている間にも、着々と進んでいく準備。
「よーし、もういいぞー」
「いやちょっと待てじじい、俺にマスクはないのかよ」
「きっと大丈夫じゃろ」
グッと立てられた親指。
ちっともよくなんかないが、この設備が高いことはよくわかっている。むやみやたらに手を出すわけにはいかない。そもそも、育ててくれた祖父の楽しそうな顔を壊すのも忍びなく、仕方ないなと経は小さくため息をついた。
「どうなっても知らないからな」
「そんときゃワシがなんとかしてやるわ」
カラカラと笑う素夫。相変わらずかっこいいジジイだなと苦笑して、経は腹に力を込めた。実は、さっきからこのために少し我慢していたのだ。
――プッ……プゥゥゥゥ
「わっはっはっはっは」
「くそっ! 笑うなじじい!」
素夫が我慢できずに笑い出す。顔を真っ赤に染めた経が声を荒げるも、涙を浮かべて腹を抱える素夫の笑い声は止まりそうもない。
研究室も理事長室同様防音だし、病院で一番偉い素夫の部屋に無断で入ってくるものも当然いるわけがない。だが、それでも笑われるのは気分のいいものではない。
「ひーっ! すまんすまん。真剣に聞くとこうも笑えるものだとは知らなんだ」
「……で、結果は」
目尻の涙をぬぐいながら、上がった息を整える。そんな素夫を一瞥して、経はそっぽを向くと結果を急かす。
「そんなすぐ出てたまるか。ちょっとまっとれ」
経が入っているガラスのボックスから、検査が終わっていない未知の気体。「屁」が全て抜けたのを確認して素夫がその鍵を開けた。
ボックス内は密室空間のようなものだったが、検査する気体を押し出すために空気は循環している。なので、電車の時ほど匂いを感じることはなかった。
「じゃ、茶でも飲んどれ」
「はいよ」
背中を押され、専門知識がない経は抵抗もせずに研究室から出た。
出入り口に備え付けてある電気ケトルで湯を沸かし、置きっ放しにしてある自分用の青いマグカップにインスタント珈琲の粉を入れた。しばらくすれば、沸騰するコポコポという音とともにカチッと機械的な音が響く。ケトルを持ち上げてお湯をカップに移すと、最後に備え付けの小さな冷蔵庫を開け、牛乳を一センチほど入れた。カップの中の液体はしろと焦げ茶色が混ざり合い、ミルクチョコレートのような色へと変化する。
「砂糖入れんで苦くないんか?」
「じーちゃんみたいにガキみたいな味覚はしてないからなー」
開けっ放しの研究室の扉。ちょうど珈琲を入れているところが見えたのか、構われたがりの素夫が声をあげた。適当に返事をして、また先ほどのソファへと腰を下ろす。すでに太陽は沈み、理事長室の窓からは藍色に染まった空が広がっていた。
「待たせたのう」
コーヒーが無くなってから数時間。丸メガネを頭の上に乗せ、目をこすりながら歩いてきた素夫が経の前のソファに座った。すでに日はとっぷりと暮れていて、今は夜の九時。ちょうど、お腹が空いたなと経が思い始めたところだった。
「それで、わかった?」
「少しはな」
くつろいでいた姿勢を正してまっすぐ素夫を見つめる。はっきりと、自分が原因ではないと聞きたいのだ。
「それで、原因はやっぱり俺じゃ――」
「残念ながら」
ヒュッと、経は自分の喉の奥が閉まる音を聞いた。
「お前じゃったよ」
予想外の言葉。しかし病院の理事であり、現役の研究者である素夫の出した結論だ。間違っている可能性は限りなく低い。そして、経はずっとその素夫の背中を見続けてきたのだ。嘘だ、なんて言葉を口にできるはずもなかった。
「お前の、屁じゃった」
「……クソジジイ」
シリアスなこの空気を、素夫は神妙な顔でぶち壊した。楽しそうに笑っている目の奥から、揶揄いの色が見て取れる。
だが、今の経に笑い飛ばせる体力は残っていなかった。力のない声で、ちっちゃな暴言を投げつけるので精一杯だ。
「イソフルラン。それが、お前さんの屁に含まれていたものに似た物質の名じゃ」
「いそ、ふるらん?」
ずっと調べてくれていた素夫に、経はお湯を少し緑茶を入れて渡す。湯呑みを両手で包み込んだ素夫は、冷ますために息を吐きかけながらようやく真剣な表情で口を開き言葉を落とした。
「呼吸麻酔薬の一つじゃよ」
「睡眠薬みたいなものってこと?」
「似たようなものではある」
経の言葉に、素夫は首を縦に振って肯定する。
しかし通常使われるイソフルランであれば、屁に含まれる程度の量の場合、数時間も経たずに目が覚めるはず。だが、現在も経の屁を吸い込んだ人たちは目覚めていない。
「成分としてはイソフルランと大差はない。が、より強い効果を持っているようじゃ。その辺はさすがに一日じゃわからんのう」
両手で包み込んでいた湯呑みに口をつけて、まだ熱かったのか素夫は再びお茶を冷ますために息を吹きかける。その様子を見つめ、経は今後どうすればいいのかわからず頭を抱えた。
「副作用ってか、なんかこう……悪い影響はあんの?」
「今回確認できた成分であれば、万が一多く吸い込んだとしても悪影響はないじゃろ。今の所は安心してもいいぞ」
今のところと言った素夫に、安心できないだろうと内心で舌打ちを一つ。それでも、医師としても研究者としても信頼できる素夫が言っているのだから、その言葉が正しい可能性は低くは無いのだろう。そう思えば、少しは安心してもいい気がした。
「それで、今後のことなんじゃが」
お茶がなかなか冷めないため、冷凍庫から氷を取り出して湯呑みへと入れた素夫が戻ってきた。すぐに形を無くしていく氷が、お茶の温度の高さを物語っている。
「これを発表すれば、おそらくお前は良くて軟禁。最悪監禁状態でいろいろ弄られるだろうな」
予想はしていた。一般人では作り得ないものを、使うことすらないかもしれないものをガスとして作れてしまうのだ。しかも、材料は不要。研究対象として見られて然るべきなのだろう。
「だが、可愛い可愛い孫が青春の真っ只中に監禁状態になるなんぞ、ワシには許せん!」
素夫はとことん真面目な話に向かないようだ。
顔を顰めている経には触れず、拳を握りしめふるふると震わせながらそれを高く突き上げる。その様を見て呆れて笑みをこぼした経も少し緊張がほぐれたようで、幾分か柔らかい声を出した。
「で、その心は」
「こーんな面白い研究、他の奴らにやらせてなるものか!」
湯気がほとんど立っていない湯呑みを机に置いて、両の拳を顔の前で握りしめ本気で震えている素夫。研究大好きな素夫は面白い研究材料である経を、経の屁を誰かに取られたくなかったのだ。
「やっぱりそうか、クソジジイ」
「ほっ! 謀りおったな経!」
ハッと気づいた素夫が口を尖らせるが、経の口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
それを見て、素夫も力を抜くとようやくお茶に口をつける。ぬるくなったお茶は、素夫の舌を火傷させることなくスムーズに喉の奥へと押しやられていく。
「今しかない青春を、楽しんで欲しいっていうのも本当じゃぞ」
「わかってるよ、じいちゃん」
ズズッと素夫がお茶をすする音が、室内に静かに溶けて消えていった。