1-2:安堵と懸念
被害者が全員無事に退院したこともあり、どことなくのんびりとした雰囲気の漂う理事長室。経と工は未だにダラダラとその場所に居座っていた。
素夫以外に家族のいない経と、放任主義の家庭に育った工は時間に左右されることがほとんどない。何を話すわけでもなく経はスマートフォンでゲームをし、工はパソコンを操作する。素夫は仕事をこなしながらお菓子とお茶を順調に減らしていた。
「おお、そういえば工くん」
「……はい」
自分の仕事をあらかた片付けて、凝った腰を伸ばすように両手を天井に上げた素夫が思い出したように声を出した。同時に、滑るようにキーボードの上を動いていた工の指がピタリと止まる。
「最近、この病院のパソコンの調子がちょっとおかしくてな。主にワシが使うこれなんじゃが」
ソファに座っていた工は、自分のノートパソコンを閉じて手に持つと立ち上がる。進む先は、素夫がいつも利用しているデスクトップパソコンだ。
「ちょくちょくデータが消えたり出たりすることがあったんじゃよ」
「……お借りしても?」
「もちろんじゃ」
そばに来た工に素夫が席を譲る。
この病院のセキュリティには工の父が携わっている。そして導入されているセキュリティシステムは、工の父が工と一緒に作り上げたもの。大元部分は流石にわからないが、簡単なチェックであれば工でも問題はない。
「これは……」
ソファに腰を沈めた素夫が新しいお茶を口に運ぼうとしたちょうどそのとき、驚いたような、それでいて困ったような工の声が理事長室に響いた。
「どうかしたのか?」
パソコンに疎い経だったが、困ったような工の声が珍しく顔を上げた。
ズズッと素夫がお茶をすする呑気な音が響く。
「まだ素夫さんのパソコンしか見ていないから詳細はわからない」
けど、と動いた工の唇。その間も、指は止まることなくキーを叩く。
「……狙われてるのは多分、経の情報だよ」
タンっと工の指が跳ねた。
確認し終わった工は、どの情報が探られていたのかを詳しく説明する。
病院内のパソコンにもアクセスされた痕跡はあったが、求める情報がなかったのか内部まで潜られた様子はなかったこと。しかし、理事長室のパソコンにしかない、経の情報が記載された鍵付きのフォルダだけはなんどもアクセスされていたこと。
権限のないものがアクセスをしても、ダミーである偽情報が開くようになっている特殊なファイル。何度もアクセスされているので、もしかしたら正しい情報も何点か見られてしまったかもしれないと工は言う。
「まあ、どんな成分が含まれるのかとか、パッキング・ユニットのことまでは見られていないみたいだけど……」
今度は自分のパソコンを開き、セキュリティの見直し箇所をメモしつつ工は眉間にシワを寄せた。
「確実に、経の『屁』に何かあることはバレちゃっただろうね」
今回見つけたセキュリティの見直し箇所は、念のため自宅のネットワークから父に送信すると素夫に告げる。しっかりと頷いたことを確認して、工は先ほど座っていた経の隣へと移動した。
「で、どうする?」
「どうするって……」
首を傾げてきた工に経はうろたえた。あまり頭の良くない経には、何をどうしたらいいかが全くわからない。
「これは僕個人の予想にすぎないけど……。たぶん、今回情報を覗き見してきたやつは警察じゃないよ」
「へ?」
工の言葉に惚けた返事をする経とは違い、素夫も何か思うところがあるようで浅く頷いた。
「警察はあれ以降ワシらのところには来てないしの」
目覚めた被害者に会いに警察も来ていたが、被害者に対して情報提供を求める動きはしていたものの経に関して触れることは全くなかった。素夫にも、被害者の体調などを聞くだけでそれ以上は何もない。
そう言った素夫に、工は「やっぱりね」と呟く
「逆探知はできそうもないし確信はないけど……。経のその力を狙ってる奴がいるんじゃないかな」
「狙うったって、こんな力――」
「前に姫と言ったよね」
いらないだろ。と続くはずだった経の言葉は、工の力強い声によって最後まで口にすることは叶わなかった。
「それは、使い勝手のいい力だよ」
自分の体の中で人体に影響を与えるガスを作れる。眠らせることもできるし、爆弾にもなる。検査をしようにも外側からは何もわからないし、多少漏れたところで麻薬などのように匂いから確認されることもない。風船に入れて持ち運べば、割らない限りそこに何が入っているかなんて誰も気にしないだろう。
「悪いことをする奴らには、喉から手が出るほど欲しい力なんじゃないかな」
真顔の工。その瞳は真剣で、経は茶化すこともできずにゴクリと唾を飲み込んだ。
「……なあに」
素夫が持っていたお茶を飲み干し、空になった湯呑みを机に置いた。
何も考えていないような、それでいてひどく安心する声音に二人は無言のまま素夫に視線を向ける。
「まだ可能性の話じゃ」
「しかし――」
チッチッチ。と、口を開いた工の目の前で右手の人差し指を左右に振った素夫の顔は、楽しそうにニヤリと歪んでいる。
「可能性があるとわかったなら、対策をすればいい」
ここで、素夫はもったいぶるように一度息を深く吸い込んだ。
「姫ちゃんなんか喜ぶんじゃないか? パッキング・ユニットを使う訓練なんて聞いたら」
「は……」
「それは、非常に面白そうですね」
出て来た言葉に経が固まり、工は楽しそうに唇を歪める。対照的な顔をした二人に、素夫は笑った顔を崩さずに続けた。
「本当に狙われているなら戦えばいい。狙われてないならそれはそれで御の字。気楽に考えりゃいいんじゃないか?」
「ちょっ、じいちゃ――」
「素晴らしいアイデア。ありがとうございます」
素夫を諌めるために経が口を開くが、わざと工が被せたことにより叶わなかった。工の瞳は、すでにパッキング・ユニットを試せるという新たな楽しみを想像し輝いてしまっている。
「いやでも、試すったってどうやって」
「それは姫と相談だね。でももういくつかアイデアがあって」
そこからの工の舌は、信じられないくらい滑らかだった。
体に密着する形のラバースーツを作り、それを着て経と敵役が戦う。ラバースーツにはマスクを装着して呼吸補助。体には空気中の物質を測定できる機械を装着し、実際に人に吸い込まれる分量を測る。
そうすれば、軽の動きの練習にもなり、なおかつ人にどれくらいの影響を与えるかを事前に確かめることができるのだ。
「素晴らしいと思わない?」
「いや、お前絶対楽しんでるだけだろ」
「否定はしない」
ジト目で睨んでくる経に、工は悪びれもせずに即答する。
「場所の提供はワシがしようかの」
「じじい……」
そして、楽しそうに続いた素夫。
素夫が場所を用意するのであれば、それはそれは研究に適した素晴らしい舞台が用意されることだろう。
二人の表情を交互に見た経は、頭を抱えることしかできなかった。