表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
すかしっぺ・ヒーロー  作者: 緋雨
第1章 世界一いらない能力
1/17

1-1:世界一いらない能力

――ぷすぅ

(やっちまった……)


 混み合う電車の中。白ワイシャツに赤いネクタイをつけ、濃い藍色のブレザーと灰色のスラックスを履いたオレンジ髪の少年は、人の波に押しつぶされて身動きもできない状態だった。

 少年の名前は須賀志(すがし)(けい)飛呂(ひろ)総合高等学校の二年生である。


 漏れ出てしまったすかしっぺ。朝ごはんに食べたふかし芋がいけなかったのではと、朝食に芋なんかを出してきた祖父・須賀志素夫(もとお)に心の中で悪態をつく。そして不自然にならぬ程度に眉間に浅いシワを刻んだ経は、突然漂ってきた不自然な匂いに顔を歪める他人を演じる。これだけ人が多いのだ、特定される心配はないだろう。

 自分の演技に心の中で花マルをつけていると、電車がガタンッと大きく揺れた。人口密度が高いため倒れることはなかったが、それでも反射的に足の裏に力が入る。するとその時、経は突然背中に重みを感じた。

 わずかに漂ってきたすかしっぺの残り香。それと同じタイミングだったため、まさか気絶するほどの匂いだったのかと一瞬慌てる。だがそれはさすがにありえない。そう思い、経は体重がかかった方向を確認するために頭を後ろへと向けた。


『扉が開きます、ご注意ください』


 しかし、平均より低い身長のせいか他の人の頭が邪魔して見えない。仕方なく上半身も動かそうとした瞬間、響いた車内アナウンス。扉が開き、人の密度が下がるに従い増してくる重み。


「だ、大丈夫ですか?」

「キャー!」


 着いた駅では電車を降りたい人と、電車に乗りたい人がいる。降りたい人が全て降り、乗りたい人が乗る前の人口密度が下がったそのタイミングで、フッと無くなった背中の重み。同時に、いくつもの米俵を床に落としたような音が響き渡った。その車両に乗っていた人には、音に見合う振動も届いていた。


「人が! な、何が起きたんだ」

「へ? え?」


 それは、バタバタと人が倒れていく音だった。事件だ、テロだと叫び声が上がり、急いで車両から逃げようとする人々で激しい混乱が起きる。しかし、叫び声をあげる人達とは対照的に経は思わず間の抜けた声を出していた。自分を中心に人々が意識を失い倒れているその状況を、うまく飲み込めなかったのだろう。

 目の前に立っていたはずの濃い灰色のスーツを着た小柄の中年男性も、斜め前に立っていた赤いパンプスに黒いタイトスカートを見事に着こなすスタイル抜群の女性も。全員気を失い、誰も言葉を発することはない。

 電車内の冷たい床に倒れこんだ人達は、経の半径一メートルに集中していた。

 床に座り込み、気を失った少年の肩を涙目で揺する少女もいる。彼女は倒れるに至らなかったのだろうが、その理由がわかるものは今この場にはいない。


「落ち着いてください。動かないで!」


 しばらくすると、同じ制服に身を包んだ鉄道会社職員が数名やってきて声を上げた。すでに警察と救急には通報したと告げる職員達は、警察の事情聴取があるためこの電車に乗っていた人は残って欲しいと説明する。

 経を中心に人が倒れている異様な光景。倒れている人々の中心にいる彼なら、何か知っているはずだ。この場にいる人達は、そう思って疑わない。


「ねぇ、先輩に何かしたの? 起こしてよ、お願い……」


 縋ってくるもの。


「ひっ! ち、近寄らないでくれ」


 畏怖の目で見つめてくるもの。


「いや、俺は……何も」


 すかしっぺをしただけだ、誰でもバレないようにしてるだろ?

口になんてできる雰囲気ではない内容を、心の中でも小さく呟く。一応両手をあげ無実を主張するが、きっと今は誰かのせいにしないと安心できないのだろう。恐怖に彩られた瞳や、声。そして興味の色を宿した視線が消えることはなさそうだ。


「君、署まで同行を」

「その前に、学校に連絡してもいいですかね」


 事件が起きたタイミングで、偶然すかしっぺをしただけで、自分は絶対に犯人ではない。そう思っていた経は、到着した警察官の声がけにも特に狼狽えるたりせず即座に顔を縦に振り、持っていたスマートフォンで学校に電話をかけた。


「事件ってお前、いったい何やらかしたんだ?」


 コール音が途切れ、電話に出た教師に事情を話せば経の担任が呼ばれて受話器が渡る。普段の生活態度が悪くないからか、責めるというよりはからかうような声音に苦笑して隣に立っている警察官に視線を向ける。


「良かったら代わるよ」


 経に声をかけてきた警察官。刑事である堀巣(ほりす)は、なんと説明するか悩んでいる経の状況を察して快くスマートフォンを受け取った。


御手洗(みたらい)警察署に所属している堀巣と申します」


 名前を名乗り、事情を説明しつつ連絡が取れる警察署の電話番号を伝える。


「わかりました。公欠という扱いになるようにしておきます」


 堀巣の紳士的な対応もあり、担任はすんなり納得した。間に合うようなら遅刻でもいいから学校に来るように伝えて欲しい。そう言って、あっさりと切られた電話。


「すまないね」

「いえ、まあ……しょうがないかなって」


 通話が切れたスマートフォンを経に返しながら、堀巣は申し訳なさそうに苦笑した。目尻のシワが少しだけ深くなる。だが、たくさんの人が経を中心に歪な円を描くように倒れているのだ。疑われても仕方ない、と経も同じように苦笑を返す。


「真ん中にいて平気ってのも、怪しいと思うし」

「その辺は詳しく聞かせてもらうよ」


 通報を受けてやってきた堀巣は、人が倒れていくその瞬間を目撃した訳ではない。だからこそ、第三者として冷静に経と会話することができるのだろう。


「学校もサボってるし、できる限り協力しますよ」


 堀巣含め、集まった三人の刑事に同行して警察署へと向かうのは、経以外では近くにいて被害に遭わなかった数人だけ。近くにおらず同じ車両に乗っていただけの人や、他の車両に乗っていた人は駅構内で駅員や他の警察官に状況を伝え、問題なければその場で解散となる。

 移動中、経はなんとも居心地の悪い視線を感じていた。それでも、ここで萎縮するのは違うと姿勢を正す。同じように警察署に向かう人には軽く頭を下げて、顔色は変えずに車両を降りる。目の前を歩く堀巣の背中を追いかけ、ゆっくりと駅をあとにした。


   ***


「それじゃあ、詳しく聞かせてもらえるかな?」


 東京都、御手洗警察署。

 道路を渡れば海岸というほど海に近いこの警察署の窓からは、青青しい海原しか見えない。現在は春の終わりで衣替え前。ブレザーは少し暑いなと、経は上着を脱ぐと座っているパイプ椅子の背にかけた。夏に移り変わり始めた生暖かい風が吹くこの時期。節約だろうか、クーラーは使われておらず窓が全開の取り調べ室。

 海に入るにはまだ肌寒く、さらに平日ということも相まってか普段はするはずの観光客の声は聞こえない。時折風に乗ってやって来る潮の香りが、ここが海の近くなのだと教えてくれる。


「基本的には、他の人と変わらないと思いますけど……」


 経が持っていた学校指定カバン。その中身を一心不乱に見ている若い男を視界に入れたあと、経は目の前の堀巣と目を合わせた。

 ただでさえ人の良さそうな顔の堀巣は、穏やかな笑顔を称えている。その目元のシワから経は堀巣が四十代半ばくらいだろうと勝手に推測したが、直接聞く気はないのか堀巣の問いに応えるためだけに口を開いた。


「構わないよ」


 責めるでもなく、怒鳴るでもなく、ただ聴くという姿勢をとった堀巣に好感を持った経は、電車内での出来事を話し始める。

 通学途中だったこと、前に立っていたスーツ姿の男性がひっきりなしに汗をぬぐっていたことや、赤パンプスの女性は常にスマートフォンを操作していたこと。誰かのイヤホンから漏れてくる音楽が少しうるさかったことなど、全く関係ないと思われる内容も全て話してみる。

 堀巣は遮ったりせず、相槌を打ちながら経の話を聞いていた。だが奥でカバンを漁っていた男は手を止め、イライラしているのか靴の爪先で床を叩いている。


「堀巣さん、そんな関係ないところじゃなくてっ――」

「関係あるかないかは、聞いてみないとわからないよ。中荷(なか)


 我慢の限界がきたのか、若い男は声をあげた。しかし、堀巣にやんわりと注意され口を閉じる。だが、ギリギリと奥歯を噛み締めているので納得はしていないのだろう。やりとりを見ていた経はぼんやりとそう思った。


「すまないね。まだ新人なんだ」

「いえ、大丈夫ですよ」


 わざわざフォローを入れてくれる堀巣に、別になんでもないと手をひらひらと振る。もしかしたら倒れた人に知り合いでもいたのかもしれない。そうだとしたら、苛立ちを募らせるのも当然だろうと思えたからだ。


「じゃあ、他にも何かあれば教えてくれるかい?」


 ありがとうと微笑んで、再び堀巣が口を開いた。経は一瞬だけ静止したあと、関係あるかわからないが。と前置きをしてから、大きく息を吸った。


「変な……匂いがした、気がするんですよね」


 吸った息の量からは想像できないくらい小さな声で、経はもごもごと話した。後ろめたいからではない。ただただ恥ずかしいからだ。


「変な、匂い?」

「あのー……アレをした時、みたいな」


 経も一応思春期の男子だ。小学生の頃みたいに「おなら」と、大きな声で楽しそうに言うなどもうできない。

 閉じた口の中で喋るように籠っていて聞き取りづらい声だったにも関わらず、堀巣はきちんと経の話した内容を理解してくれた。そして、予想に反してコクリと小さく顔を縦に動かした。


「ああ、君も感じたんだね」

「俺も……ってことは」

「署に同行してもらった人は、みんなその匂いをわずかにだが感じてたよ」


 顔から火が出そうになったのは初めてだった。経がしたものだと知らないとわかっているのに、経を気遣って「それ」と発言したことすら気になって仕方がない。脈打つ心臓をなんとか鎮めるため、経は顔に集まった熱を逃すのに意識を集中した。


「まあ、大方事件の時に偶然、誰かが我慢できなくなったんだろう」


 正しくその通りです、と頷く勇気は経にはなかった。我慢できなくなる時もあるよね、と朗らかに笑う堀巣は本当に菩薩のようだ。恥ずかしさがピークを超えて思考がおかしくなっていた経は、なんだか居心地が悪くなって声をあげる。


「すみません。トイレ、借りてもいいですか?」

「ああ、結構長く待たせてたもんね。案内させるよ」


 重要参考人という理由で、経の事情聴取が最後だった。都合よく解釈してくれた堀巣に心の中でお礼を言って、案内を指示された中荷に続いて部屋を出る。

 二人の間に会話はない。中荷の磨き上げられた革靴がかつかつと音を鳴らす中、経のスニーカーがごく稀に、床をキュッキュとこする音が響く。


「さっさとしろよ」

「はいはい」


 堀巣とは全く逆のタイプに見える中荷は、嫌悪感とはまた違う、探るような視線を隠さずに向けてくるのに何も言ってこない。違和感に首を傾げるも、自分から聞く理由もないからと経はトイレの中に入った。

 用を足している最中でも頭を占めるのは、当然先程の出来事。


「まあ……言えないよなあ」


 そして思わず声に出して、苦笑してしまった。


「屁したの、俺だなんて」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ