パトリス・ハリス
「ん? 言ってなかったかな? 今日は国王陛下と盤上遊戯の約束をしておるのだ。せっかくだから、お前も一緒に行こう。ワシは、陛下にお前を自慢したいのだ。……陛下はなんでも持っているが、この国で最も美しく賢い女だけは、ワシの妻だからな。ふふふ、陛下の悔しがる顔を見るとワシは気分がいい」
「まあ、あなたったら」
お母様は、イタズラ好きな子供を見るように困った笑みを浮かべると、「すぐに支度いたしますわ」と言い、お父様の背中を押すようにして、衣裳部屋へと向かった。国王陛下に謁見するために、最上級のドレスに着替えるのだろう。
そして、お父様が衣裳部屋に入ると、お母様だけが小走りでこちらに戻って来た。どうしたんだろうと思っていると、お母様は、使用人たちに対して、深々と頭を下げた。
「皆さん、ごめんなさいね。あの人を許してあげてください。最近、少し気難しくなってしまったけど、心根の奥は優しい人なんです」
お母様の謝罪を受け、使用人たちは大いに恐縮し、お母様より深く頭を下げた。私も、なんとなく、ただ立っていてはいけない気がして、小さく会釈をする。そんな私の耳元に、お母様は唇を寄せると、限りなく優しい声で囁いた。
「それじゃあミリアム、ちょっと行ってきますね。……お父様をあまり刺激しないように、これからはなるべく、夜遊びは控えるようにね」
「はい、お母様。あの、お父様の怒りを鎮めてくれて、ありがとう。お母様が来てくれなかったら、どうなってたか……」
「いいのよ。夫と娘の間を取り持つのも、母親の役目ですもの」
お母様は、事も無げにそう言うと、今度こそ本当に、衣裳部屋に向かった。
あとに残されたのは、冷や汗をたっぷりとかいた私と、使用人たちだけ。
こうして、エントランスホールでの大騒動は、ひとまず一件落着となった。
流石と言うべきか、ローゼン家の使用人たちは皆、プロ根性の塊であり、あれだけのことがあったにもかかわらず、全員、すぐに気を取り直して、それぞれの仕事に戻っていった。
みんな立派だわ。
私も、気持ちを切り替えて、今日の行動を始めないと。
そう思っていると、一人だけエントランスホールに残っていた、年配の使用人が、私に声をかけてきた。
「ミリアムお嬢様。先ほどは、旦那様から私共を庇っていただき、まことにありがとうございました」
そう言って、灰色の頭を恭しく下げる彼の名前は『パトリス・ハリス』。ローゼン家に仕える使用人の中でもかなりの古株であり、私が幼い頃、何度も遊び相手になってくれたお爺ちゃんのような存在である。
私は首を左右に振り、パトリスの細い肩を掴むと、きっちり斜め45度のお辞儀姿勢を保っている彼の体を起こした。
「ううん、もとはと言えば、私が外泊をしたせいだもの。改めて謝るわ。私のせいで、あなたたちを怖い目にあわせて、本当にごめんなさい……」
謝罪する私を見て、どういうわけか、パトリスは嬉しそうに目を細めた。それから、どこか昔を懐かしむように、静かに語り始める。
「その、素直で、純朴な言動。本当に、昔のミリアムお嬢様にお戻りになられたのですね……」
「えっ、あっ、うん……」
私はついつい、曖昧な返事をした。『昔のミリアムお嬢様にお戻りになられた』と言われても、今の私は、昔のミリアムとはまったくの別人のはずなのだが、どうやらパトリスは、完全に私を『昔のミリアム』だと思っているようである。




