決壊寸前のダム
もしも見えていたら、その瞬間に恐怖で私のダムは決壊し、恐らく今頃、下半身に身に着けているものを全部替えなければならなかっただろう。
フェリスは青ざめた私を見て、小さく頭を下げる。
「ごめんなさい。やっぱり、『見えない』人に、幽霊の話をすると、怖がらせちゃうわね……私にとっては、『見える』のが普通だから、昔から、つい話題に出しちゃって、よく気持ち悪がられたわ」
寂しげにそう言うフェリスを元気づけるように、私は努めて大声を出す。
「わ、私はあなたのこと、気持ち悪がったりしないわよ! ただ、ちょっとびっくりしただけなんだから!」
「うん……ありがとう……」
「それで、その、一つお願いがあるんだけど……」
「なあに?」
「お、おトイレに、つきあってはもらえないでしょうか……」
下腹部を押さえながら、プルプルと震える私。
自分でも驚くほど情けない声が出て、羞恥心で顔がカァッと熱くなった。
いや、そのですね。正直言って、この『こめつぶ荘』に到着する前から、かなり尿意を我慢していたのですよ。『犬のしっぽ亭』でいっぱい塩辛いものを食べて、水分を取り過ぎたのがよくなかったんでしょうね。
本来なら、建物の中に入ってすぐにおトイレを借りるつもりだったんですけど、怪奇現象のせいで、数分間、尿意が完全に吹っ飛んでましたのよ。ああ、もう駄目。限界過ぎて、何故か敬語になっちゃいます。
切羽詰まった様子の私を見て、フェリスは「こっちよ」と言うと、大慌てで私の手を引く。部屋のドアが『ギイィ』と音を鳴らして開き、私たちは再び、幽霊たちの居場所である廊下に出た。
「どうしたの? どうしたの? どこいくの~?」
またしても、楽しげな子供の声が虚空から響いてくる。
いや、子供の声だけじゃない。
男性。
女性。
若者。
老人。
多種多様な声が、まるでミックスされたように重なり合い、不気味な共振を引き起こしている。
あうう……
やめてよ~……
ただでさえ、漏れちゃいそうなのに、これ以上脅かさないで……
そんな私の怯えを敏感に察知したのか、声はますます調子に乗った感じで、ドスの利いた声を出した。
「おい、どこ行くのかって聞いてるんだよ。答えろよ、なあ」
涙がにじみ、私が鼻をすするのと同時に、なんとフェリスが口を開く。
「いい加減にして」
えっ、ちょっと待って。
幽霊と口きいちゃ、駄目なんじゃないの?
私はちらりとフェリスを見た。
もの凄い目だ。
今のフェリスの瞳を、漢字一文字で表すなら、『怒』である。
午前中に見た、フランシーヌの狐のような瞳も迫力があったが、今のフェリスだって負けていない。……どうやらフェリスは、悪乗りして私を脅かしている幽霊たちに、本気で怒ってくれているようだ。
対する幽霊たちは、せっかく生者が反応してくれたというのに、黙り込んでしまった。フェリスは、しぃんと静まり返った空間に、地獄の底から響くような声で、鋭く、そして冷徹に言い放つ。
「これ以上ミリアムを怖がらせたら『消す』わよ。そのまま黙ってなさい」
そしてそれ以降、幽霊はただの一言だって、発することはなかった。
……そんなわけで、私は茫然としたままフェリスに手を引かれ、何とか無事、おトイレを済ませることができたのでした。