負の感情
言われてみれば、何も聞こえない。さっきの幽霊の声はかなり大きかったので、廊下で叫んでいれば、部屋の中にまで声が聞こえてもおかしくないのに。
「不思議に感じるかもしれないけど、それが『ルール』なの。私も最初は驚いたけど、『ルール』さえ守っていれば、この『こめつぶ荘』、なかなかいいところよ。見て、家具も全部備え付けなのよ。特にこのベッドなんかフカフカで、おふとんは羽毛なんだから」
そう言って、ピンク色のベッドにぽふっと座るフェリスに、私は涙声で、なおも食い下がった。
「で、でもぉ、幽霊がさっき、ドスの利いた声で『殺す』って言ったじゃない~! ここ、絶対やばいわよ~っ!」
「あなたを責めるわけじゃないけど、あれは、ミリアムが緊張して、警戒したからなのよ」
「えっ? どういうこと?」
「途中までは、幽霊の声、無邪気で可愛い感じだったでしょ? それは、あなたが全然不安を感じていなかったからなの。でも、どんどん話しかけてくる声に、少しずつ恐怖を感じて、部屋までもう少しってところでは、もう、かなり怖かったんじゃない?」
「そ、そりゃそうよ……」
「だから、恐怖という『負の感情』に敏感に反応して、幽霊も攻撃的になったの。こっちが平然としていれば、案外可愛いものよ。可愛いから、つい返事をしてあげたくなるのが困りものだけどね」
あ、あんな脅かすようなことを言ってくる幽霊を『可愛いもの』と思えるなんて、凄い胆力だわ……
一ヶ月前、『犬のしっぽ亭』で、私のことを悪く言ったおじさんに食って掛かったときも思ったけど、フェリスって大人しそうに見えるけど、人並み外れて度胸があるわよね。
そこで私は、ふと気になって、尋ねた。
「あの、ちなみに、幽霊に返事をしちゃったら、どうなるの……?」
フェリスは「私が実際に見たわけじゃなくて、管理会社の人に聞いた話なんだけどね」と前置きをしてから、ポツリと言う。
「連れてかれちゃうんだって」
「ど、どういう意味……?」
「玄関のカギを、今みたいに厳重なものにする前にね、この家に泥棒が入ったことがあるらしいのよ。……立派な家だから、きっと金目の物があるに違いないって思ったのね。実際、二階には、社長さんのコレクションだった絵画がいくつかあるから、出すところに出せば、それなりの値段がつくかもしれないわ」
「そ、そうなの……」
「で、泥棒も、その絵画に目をつけて、運び出そうとした形跡があったみたいなの。でも、絵画は一つもなくなっていなかった。たぶん、盗み出している最中に、幽霊に声をかけられて、返事をしたんでしょうね」
私は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「二階にある絵画の中には、心中した社長さん一家の肖像画もあるの。家族三人が笑顔で並んでる、幸せそうな、素敵な絵よ。……その絵の、壁の部分にね、苦痛に歪んだ顔があるんだって。それで、その顔が、当時、この辺りを騒がせていた、指名手配の空き巣の顔にそっくりらしいの。恐らく……ううん、間違いなく、『死者の世界』に連れてかれたんだわ」
「じゃ、じゃあ、もし私が、さっき幽霊に返事をしてたら、私も……」
「そうなってたら、私がすぐに話すのをやめさせただろうから、せいぜい多少つきまとわれるくらいで、『死者の世界』に連れていかれるとまではならなかったと思うわ。空き巣の人は、きっと面白がって、幽霊と話し込んでしまったのね」