公爵令嬢に相応しい人間
私は、ギュッとエッダの手を握り、覚悟を決めて、口を開く。
「エッダ、今から走るわよ、ついてきて!」
言い終えるのと同時に、『あやしい液体』にありったけの魔力を注ぎ込んだ。
すると、毒々しい緑色の気体が、一瞬で爆発的に広がっていく。
緑のガスは、私、エッダ、盗賊たち――つまり、その場にいるものすべての体をたちまちのうちに包み込み、全員の視界を奪った。
どうよ。
頼りない魔法だけど、こういう使い方だってできるのよ。
言うなれば、『緑の煙幕』ってところね。
盗賊たちの中には、いまだにこの緑色の気体を、本物の毒ガスと信じている純粋な殿方もいらっしゃるようで、悲鳴に近い声がいくつか聞こえた。
私はエッダの手を引き、先程確認しておいた包囲網の穴めがけて、全力で走り続ける。私もエッダも、意外と足は速い方だったらしく、ラッキーなことに、草に足を取られたりもしなかったので、なんとか盗賊たちの包囲から抜け出せたようだ。
背後から、リーダー格の男の、怒りに満ちた声が聞こえてくる。
「てめぇら! いつまでも慌てふためいてんじゃねぇ! こいつは、毒ガスでも何でもねぇ! ただの色つきの煙だ! 小娘どもを逃がすな! 追うぞ!」
そのすぐ後に、盗賊たちは正気を取り戻し、一斉に雄たけびを上げた。
「おおおおおおおおおおおっ!!」
凄まじい声量で、鼓膜がビリビリと震える。
まるで猛獣の咆哮だ。
あんなケダモノたちを相手に、先程まで話をしていたと思うと、恐怖で背筋が寒くなってくる。私とエッダは強く手を握り、お互いを励まし合うようにしながら、暗い森の中を必死で走り続けた。
しかし……
「はぁ、はぁ、はぁっ、この、クソ女っ、手間かけさせやがって。この森はなぁ、俺たちのホームグラウンドだぞ? ちょいと小細工をしたくらいでよぉ、俺の俊足から逃げられるとでも思ったのか? 女のとろい足でよぉ」
真っ先に追いついて来たのは、あのベンだった。
私とエッダは、大樹の幹を背に、追い詰められている。
ベンは、額から汗を垂らしながら、もの凄い目つきで私を睨んだ。
正直、怖くて怖くて泣きだしたかったが、私が泣いてしまったら、ますますエッダを怖がらせてしまう気がして、あえて私は、精いっぱいの悪態をつく。
「その、『女のとろい足』を追いかけるのに、有利なホームグラウンドで十五分以上もかかったんだから、あなたのご自慢の『俊足』とやらも、大したことないわね」
「なんだと!?」
ベンは、激昂した。
怒りの波動が、ビシビシ伝わってきて、腰が抜けそうになる。
しかし、怯えて倒れ込むわけにはいかない。
背後で震えるエッダの弱々しい姿が、倒れることを許してくれない。
こうなったら、ヤケだ。
実は、逃げる最中に、先端が鋭く尖った木の枝を拾い、背中に隠してある。
ベンが不用意に近づいてきたところを、不意を突いて襲えば、私の細腕でも大怪我をさせることができるかもしれない。
やってやるわ。
追い詰められたことで、逆に闘志が湧いてきた。
私は、背後に隠した枝を強く握りしめる。
その手に、エッダの手が重ねられた。
振り返ると、エッダはポロポロと涙をこぼしながら、首を左右に振る。
「いけません、ミリアム様。相手は、プロの犯罪者です。こんな木の枝で、太刀打ちできるとは思えません。ミリアム様は大事な人質なのですから、これ以上抵抗しなければ、向こうも酷いことはしてこないはず……私のことはお気になさらずに、投降しましょう……」
そんなこと、できるはずがない。
奴らは、このエッダを慰み者にすると、公言しているのだ。
エッダが私のことを思って言ってくれているのは重々理解しているが、それでも、断固拒否させてもらう。
「いやよ。あんな下劣な奴らに、あなたを好き放題にさせるなんて、絶対にお断り」
「し、しかし、ミリアム様、それでは……」
「ねえ、覚えてる? ここに来る前に、馬車の中で言ったでしょ? 『あなたが思う通りの、公爵令嬢に相応しい人間になってみせる』って」
「…………」
「私が思う『公爵令嬢に相応しい人間』は、自分の保身のために、大切なメイドを見捨てたりしないわ。お願い、私を嘘つきにさせないで」
エッダはもう、何も言わなかった。
私の手を引き留めていた手をどけ、代わりに、私の背中に手を置くと、小さく「ご武運を」とだけ、囁いた。
ありがとう、エッダ。
さあ来い、クソ男。
史上最低のクソ女が相手よ。