唯一の才能
私は、エッダに小声で「ちょっと待ってて」と囁くと、馬車の中に駆け込んだ。途端に、盗賊たちの大爆笑が聞こえてくる。
ついさっきまで、高潔なご主人様を気取ってメイドの助命を嘆願していたのに、いよいよとなったら馬車の中に引っ込んでしまった私を、嘲笑っているのだろう。
好きなだけ笑えばいい。
好きなだけ馬鹿にすればいい。
そうやって私を侮れば侮るほど、今から起こることに驚いて、盗賊たちの足並みが乱れるはず。もしかしたら、私もエッダも、無事逃げられるかも……
「えっと、必要なのは水よね……水……水……あった!」
私は馬車内に備え付けられている小さな戸棚を開けると、中から水差しを取り出した。これは長旅の際に、水分補給をするためのものだ。北の辺境である『アリセン』までは時間がかかるので、エッダがわざわざ入れておいてくれたのである。
緊張した状況の連続で喉がカラカラだから、この水差しで渇きを潤し、それからよいアイディアを考える……というわけでは、もちろんない。
水差し――というより『水』を探していたのは、ミリアムの唯一の才能とでも言うべき、『煙魔法』を使うためだ。
この世界の住人のほとんどは、なんらかの魔法の才能を持っている。
ある者は『火』の魔法を使う才能。
またある者は『氷』の魔法を使う才能。
またまたある者は『風』の魔法を使う才能。
という具合に、それぞれが、どんな魔法を使用できるかは、先天性の素質で決まり、自分の使える系統の魔法以外は、どんなに努力しても覚えることはできない。また、どれだけのレベルにまで成長できるかも、生まれついての素質で限界があり、つまるところ、才能がなければ、血の滲むような努力をしても、まったく無駄なのである。
何故いきなりそんな話をするのかと言うと、この私――ミリアムに、まったく魔法の才能がないからだ。
代々に渡り、優れた魔法の才を持つ者ばかりを輩出している名門貴族『ローゼン家』において、ミリアムという存在は、例外中の例外だった。
なんせ、彼女の使える魔法は、『水』を原料にして、無味無臭無害の煙を発生させるだけという、何の役にも立たない代物だったからだ。
父も、母も、兄も、他の家族は皆、国中から一目置かれるほどの、豊かな魔法の才能があるというのに、自分にできるのは、何の意味もない煙を、モクモクと立ち上らせることだけ。
もしかしたら、そのコンプレックスのせいで、ミリアムは陰湿で攻撃的な、歪んだお嬢様になっちゃったのかな……
おっとっと、今はそんなこと、考えてる場合じゃなかった。
現在の窮地を脱するため、私はさらに戸棚を漁り続ける。
あの盗賊たちに一泡吹かせてやるには、『水』だけじゃ足りないのだ。
……あった!
香水と、緊急時の応急治療用の薬草!
えっとえっと……まずは香水をさっきの水にだばーっと追加して……うわ、すっごい甘ったるい匂い……これ、きっとお母様の香水ね……それから、薬草をめちゃくちゃにすり潰して、これも追加っと……うん、いい感じに緑色の、あやしい液体になってきたわ。
……さて、準備は整った。
私の考えた作戦がうまくいくか、あとはどれだけハッタリを利かせられるかにかかってるわね。
心を落ち着かせるために深呼吸をしようかとも思ったが、やめた。
落ち着いていない方が、切羽詰まった感が出て、盗賊たちをビビらせることができるかもしれない。
よし、いちかばちか、行くわよ!
私は自身に気合を入れ、あやしい液体の入った水差しを持ち、馬車の外に出た。
盗賊たちは、さっき以上の下卑た笑いで、私を出迎える。
ビビッて引っ込んじゃったお嬢様がまた出てきたのが、よほど面白いらしい。
「くく……ひひひっ、どうしました、ミリアムお嬢様? いきなり馬車の中に入って、トイレでもしてたんですか?」
うるさいなぁ。
なんて嫌な奴。
すぐに黙らせてやる。
私はスゥッと息を吸い込んで、なるべく低い声を出した。
「ねえ、ベン。あなた、うちで御者の仕事をして、どれくらいになるの?」
「なんだい、いきなり。……確か、三ヶ月くらいかな?」
「そう。じゃあ、私が魔法を使うところ、見たことないわよね。ここ数年は、一度も使ってないから」
魔法という単語が出た途端、盗賊たちの間に緊張が走るのが、私にも分かった。教養のなさそうな彼らでも知っているのだ。ローゼン家の者が皆、優れた魔法の才を持っていることを。
私にとって幸運だったのは、ミリアムが9歳の時に『煙魔法』を使って以来、この、何の役にも立たない魔法を恥じて、人前で一切『煙魔法』を使ったりしなくなったことだ。
だから、世間の人々は、ローゼン家の人間は皆恐るべき魔法使いだと考えており、普段から威張り散らしているミリアムだけが、まさか凡庸以下の魔法しか使えないなどとは、夢にも思っていないだろう。
強気な態度でうまくハッタリを利かせて、絶妙なタイミングでさっき作った『あやしい液体』を使えば、たぶん、逃げるチャンスくらいは作りだせるはず。