取り消してください
予想もしてなかった事態に、私はぽかんと口を開け、固まってしまう。
あの温厚なフェリスが、こんなふうに誰かを睨みつけるなんて。
……目の錯覚だろうか?
フェリスの背後に、うっすらと黒い影のようなものが見える。
私は、軽く瞼を擦ってから視線を戻し、フェリスを凝視した。
もう、影は見えない。
やはり、目の錯覚だったらしい。
私がそんなことをやっているうちに、フェリスはさらに一歩、ならず者のおじさんへと歩みを進め、先程と全く同じ言葉を、もう一度言った。
「取り消してください」
ならず者のおじさんは、深い酔いのせいか一度しゃっくりをし、『目の前の少女が何をそんなに怒っているのか分からない』といった感じで、太い首を傾げた。
「取り消せって、何をだい?」
フェリスの唇は、わなわなと震えていた。
その震えが、酔っぱらった巨漢に意見する緊張からくるものなのか、こらえきれない怒りからくるものなのか、私にはわからなかった。
「今、ミリアムに対して述べた、侮辱のすべてについてです」
ならず者のおじさんは、爆笑した。
「なんだお前? ミリアムのファンなのか? あはははははっ! こりゃ傑作だ! 蓼食う虫も好き好きって言うが、あんなクズでも、好きになってくれる奴ってのはいるもんなんだな! いや、まいった! あははははっ!」
対するフェリスは、少しも笑わなかった。
いつもおっとりと下がっている目尻が、グッと吊り上がり、もの凄い目でならず者のおじさんを睨みつける。
その、あまりにも攻撃的な目つきに、今の今まで笑っていたならず者のおじさんも、さすがに不快感を覚えたらしく、小さく舌打ちして、吐き捨てるように言う。
「おい、なに睨んでんだよ、ウェイトレスさんよ。注文はねぇから、とっとと失せな。張っ倒すぞ」
巨漢が小柄な少女に発する台詞としてはあまりに大人げない、ドスの利いた、恐ろしい声だった。けれどフェリスは、まったく気圧されることなく、さらに一歩距離を詰め、三度同じ言葉を述べる。
「取り消してください」
それで、ならず者のおじさんがキレた。
彼は軽く右手を振り、フェリスの頬を叩いた。
パァンという乾いた音が、店内に木霊する。
私は慌てて、フェリスに駆け寄った。
今の張り手で倒れてしまうであろう彼女を、抱き留めなければならないと思ったからだ。
だが、それは無用の心配だった。
フェリスは、たった今巨漢に顔を張られたというのに、ぐらりともせず、その場にしっかりと立ち、さらに眼力を増した瞳で、ならず者のおじさんを見据えて、言う。
「取り消してください」
桜色の可憐な唇から、つぅっと赤い血が流れた。
叩かれた時に、口の中を切ったのだろう。
しかしそんなことは、全く意に介しておらず、フェリスはとうとう、ならず者のおじさんの眼前にまで顔を近づけ、またしても同じ言葉を述べた。
「取り消してください」
「な、なんだこいつ……っ」
異様な迫力に、ならず者のおじさんの方が、座っていた椅子を倒し、体を引いてしまう。しかし、彼にも荒くれものとしてのプライドがあるのだろう。小柄な女の子にこれ以上指図されるのは、我慢がならないようだ。分厚い右手を頭上にあげ、先程よりも強い勢いで、フェリスを張り倒そうとする。
止めなきゃ!