生涯する必要のない行為
「ああ、そういうこと。そりゃそうよ~、大変だったわよ~。うちのお店、食堂としても酒場としても、大忙しなんだから。この前なんて、冒険者の団体さんが一度にやって来て、私がいなきゃ、とても……」
『お店は回らなかった』と、自分の働きぶりを誇るように言おうとして、やめた。
一生懸命働いたが、結局のところ、ヒルデガードのお給料の、半分も稼ぐことができなかったんだから。
私は、なんだか急に惨めな気持ちになって、俯きながら、謝罪の言葉を述べる。
「ごめんなさい、ヒルデガード。私、これでも朝から晩まで精いっぱい働いて、できる限りのことはやったつもりだけど、これっぽっちしか稼げなかった……」
重たい沈黙が、地下室に流れる。
ペラ……ペラと、ヒルデガードが紙幣をめくる音だけが、耳に届いてきた。
そんな沈黙を打ち壊したのは、ヒルデガードだった。
「これっぽっち……ですか。確かに、ローゼン公爵閣下が、ミリアム様にお与えになるお小遣いと比べれば、微々たる金額かもしれません。しかし、この封筒の中に詰まっているお金は、決して少なくありませんよ」
ヒルデガードは、もう紙幣を数えていなかった。
彼女は、私の目を真っすぐ見て、言葉を続ける。
「そうですね……例えば、平民の夫婦なら、つつましくであれば、一ヶ月は生活していけるだけの金額です。パンを買い、魚を買い、たまには安い酒を飲むこともできるでしょう。もっとも、持ち家か借家かで、生活費は変わってきますから、一概には言えませんが」
「そ、そうなの……」
ヒルデガードがいったい何を言いたいのか分からず、私は曖昧な返事をした。
「逆に言えば、ほとんど一日中、朝から晩まで働いても、夫婦二人、つつましく生活していくのがやっとということです。これが、ほとんどの平民にとって『当たり前の生活』であり、一生のほとんどを費やしていく『労働』という行為です。高貴な生まれであるミリアム様にとっては、本来なら、生涯する必要のない行為ですね」
私は、やや自嘲的に笑う。
「そうね。あなたにお給料を払うって目的がなかったら、私、きっと、一生酒場で働くことなんて、無かったと思うわ。実際、最初は本当に大変で、逃げ出したくなったくらいだもの。でも、今では結構、楽しんで働いてるのよ。自分で言うのもなんだけど、店長さんやおかみさんにも、頼りにされてるんだから」
そこで、会話は途切れた。
またしても、静寂が地下室を支配する。
十秒ほど、ほぼ完全な無音が続いた後、ヒルデガードが口を開いた。
「……ミリアム様、本当にお変わりになられたのですね」
「えっ?」
「正直に申し上げますが、ミリアム様が『身分を隠して酒場に雇ってもらう』と言い出したとき、私は、せいぜい三日働くのが限界で、すぐに音を上げるだろうと思っていました」
「み、三日って、いくらなんでも、私のこと舐めすぎじゃない?」
「酒場仕事は、見た目以上の重労働ですからね。とてもではありませんが、今まで一度も働いたことなどない、蝶よ花よと育てられてきた『お嬢様』に務まる仕事ではありません。ふふっ、それについては、今日まで実際に働いてきたミリアム様の方が、私などよりよくご存じでしょう?」
「ま、まあね。でも私は、なんとか耐え抜いたわよ」
ふんすと胸を張ってそう言った私の姿がおかしかったのか、ヒルデガードはクスリと笑った。
「そうですね。ご立派ですよ、本当に」




