思い出話
私は、沈痛な面持ちで顎を引く。
「私もショックだったわ。クリステルお母様がとりなしてくれなかったらどうなっていたか、想像するだけで寒気がするわ。……お父様は、まだ国王陛下のところから、お戻りになっていないみたいね。もう遅いのに」
ちらりと時計を見る。
現在時刻、夜10時2分。
こんな時間まで帰ってこないということは、お父様はきっと、今日は屋敷に戻らないつもりなのだろう。私は時計から視線を戻し、ヒルデガードに問いかける。
「ねえ、ヒルデガード。お父様って、最近、外に出かけて、そのまま帰らないことが増えたわよね。いったい何をしているのかしら?」
「私にわかるはずもありません。最近……と言うより、ここ数年、閣下はあまり、使用人と無駄な話をしなくなりましたから。以前は、私にもよく話しかけてくれたのに、寂しいことです」
ヒルデガードは「ふぅ」と息を吐いて、私の後ろにある壁を見つめながら言葉を続ける。
「もうずっと昔、ローゼン家のメイドになったばかりの私に、閣下はよく声をかけてくれました。『仕事にはもう慣れたか』『無理をするんじゃないぞ』『困ったことがあったら、何でも言いなさい』と。その、実父のように優しい言葉と穏やかな笑顔に、随分と励まされたものです」
その語り口は、遠い昔を懐かしんでいるようだった。何の変哲もないクリーム色の壁紙には、お父様との良い思い出が映っているのだろう。
そこで私は、ふと気になって、尋ねる。
「あなた、うちのメイドになる前は、なにしてたの?」
「あら、話したこと、ありませんでしたっけ?」
「えーっと、たぶん、そうだと思う」
「たぶんとはまた、明瞭さに欠ける、ぼんやりとした言葉ですね……」
「じゃああなたは、ハッキリ覚えてるの? メイドになる前のことを、私に話したかどうかを」
「言われてみれば、ハッキリしませんね。話した気もするし、話していない気もします」
「ほら、あなただって、ぼんやりしてるじゃない。ふふ、私たち、ぼんやり同士ね」
「はいはい、そうですね。では、話しましょうか。私も、思い出話をするのは、嫌いではありませんからね」
ヒルデガードはそう言うと、自分の前に置いてあったカップを丁寧に持ち上げ、少しの音もたてずにアップルティーを一口飲んだ。その上品で優美な仕草は、高級貴族の使用人を束ねるメイド長に相応しいものだった。




