ミリア
最初にその条件を聞いた時、私は『なんだ、そんなことでいいのか』と思った。
転生前の日本では、色々とアルバイトを掛け持ちしていたこともあるのだ。ちょっと働いて、メイドさんのお給料を稼ぐくらい、チョロいもんである。
そう、思っていた。
だがそれは、とんでもなく甘い考えであったと、すぐに思い知った。
名門貴族であるローゼン家――その召し使いたちを束ねるメイド長に支払われる給金は、決して安くない。ちょっとしたアルバイト感覚で、週に何回か、ちょいちょいっと働いた程度では、とても稼げる金額ではなかったのである。
おまけに、一般市民たちから評判の悪いミリアムに、まともな働き口など紹介してもらえるわけもなく、私一人では、仕事を見つけることすらできなかった。
しかし、そんなことでへこたれるわけにはいかない。
知恵を絞った結果、私は自分の名前と身分を隠すことにした。
ミリアムのトレードマークである長い金髪を、スッキリとしたポニーテールにし、平民の服を着用。そして偽名を使い、『ミリア』と名乗ると、拍子抜けするほど簡単に、酒場の仕事が見つかった。
そんな偽名で大丈夫かと思われるかもしれないが、『ミリア』は、この世界で非常によくある名前であり、店長さんも、お客さんも、誰一人として、私が悪名高い『ミリアム』だと気づく者はいなかった。
それも当然だろう。
公爵令嬢であり、望めば親からどんなものでも買い与えてもらえるミリアムが、偽名を使ってまで場末の酒場で働くなんて、本来ならまずありえないことだ。
お客さんの誰かが、『ミリア』と『ミリアム』って、よく似ているなって思っても、まさか同一人物だとは考えないだろう。もう一度言うが、本来ならありえないことなんだから。
とまあ、そう言うわけで、なんとか酒場の店員になれた私は、今日も今日とて、酔っ払いの皆様の給仕に精を出しているというわけである。
「ミリアちゃん! お肉焼けたから、三番テーブルさんに持っていって!」
酒場の店長さんが、景気の良い声を上げて、カウンターに焼き立てのTボーンステーキ二皿を置いた。
「はーい! ただいまー!」
私も、店長さんに負けないくらいの声を張り上げ、二つの皿を三番テーブルのお客さんに持っていく。
酒場の給仕という仕事は、とにかく体力勝負であり、正直言って、初めの一週間は、逃げ出したくなるほどきつかった。『自分で稼いだお金でヒルデガードにお給料を払う』という確固たる目的がなければ、とてもじゃないが続かなかっただろう。
しかし、私の順応性も案外捨てたものではないらしく、二週間、三週間と、必死になって働き続けるうち、だんだんと仕事にも慣れ、一ヶ月経った今では、常連のお客さんに、名前を覚えてもらえるほどになった。
ただ、名前を覚えてもらえただけ――
そんな何気ないことが、とても嬉しかった。
別に、昇給したわけでも、特別に褒めちぎられたわけでもない。
他人から見れば、なんてことない、些細なことだろう。
でも、私の働きぶりが、自分以外の『誰か』に認められた気がして、すっごく達成感があった。
……今だから言うけど、初めは、酔っ払いのおじさん・お兄さんだらけの酒場で働くことに、ほんの少し、抵抗があった。いや、今でも油断をすると、時々お尻を触られそうになるし、決して、心の底から好ましい職場というわけではない。
だけど、今の私は、この騒々しい酒場で働くことを、楽しいと感じ始めている。
「もしかしてヒルデガードは、一般社会で働くことを通して、私を成長させようとしてくれているのかな……まさかね」
洗い物をしながら、誰に言うでもなくそう呟くと、ちょうど、最後のお客さんが店を出て行った。私は慌てて「ありがとうございましたー!」と挨拶をすると、柱にかかった大時計を見る。
現在時刻、夜の9時50分。
酒場の店じまいとしてはかなり早いが、このお店『犬のしっぽ亭』は、日中は食堂として営業するので、夜は比較的早めに暖簾を下ろしてしまうのである。
店長さんや、おかみさんと一緒に、いそいそと閉店作業をおこなっていると、時刻はあっという間に夜10時20分になった。
はへぇ。
今日も疲れた……
もう誰もお客さんはいないのだ。気張る必要もない。
私は制服の首元をだらしなく緩め、座り、先程綺麗に拭いたばかりのテーブルへと顔を突っ伏した。
「おつかれさん」という、おかみさんの優しげな声が聞こえてくる。
この一ヶ月間で、店長さん、おかみさんとは、かなり打ち解けた仲になっていたので、私は少々、甘えた声を出す。
「ねえ、店長さーん、おかみさーん。このお店、すっごく繁盛してるのに、従業員が私だけって、ちょっと無理がないですかー? 誰か、新しい子、雇いましょうよー」
私自身が、一ヶ月前に来たばかりなのに、まるでベテランの従業員のような口をきいたのが面白かったのか、店長さんは軽く吹き出しながら、言う。
「それなんだけどね。実は、ミリアちゃん以外にも、この店で働きたいって子がいるんだよ。明日の朝に訪ねてくることになってるから、面接して、良さそうな子だったら、採用しようと思ってるんだ」




