⑨
華漣は明け方早くに目が覚めた。光輝が着替えを整えてやってくるまでにあと一時間、蓮が護衛の任務に就くまでにはまだ二時間もあるというのにこれ以上眠れる気がしない。暫く目を閉じていたが、やはり夢の世界へ旅立つことは難しかった。
華漣は真っ白の寝着の上にピンクのカーディガンを羽織り、長く伸びた前髪を掻き上げる。寝癖がついて毛先の跳ねた髪を背に流し、室内履きを履く。空は白く色を帯び始めているとはいえ、まだ薄暗い。感覚を頼りに机を避け、音を立てないように扉を開けた。
部屋の前には兵士が二人暇そうに立っていたが、華漣の姿を見て慌てて欠伸を噛みしめた。姿勢を正して胸を張ったが、後の祭りである。
「どうかなさいましたか、姫様」
「あの女性の見舞いに行きます。付いてきたければ付いていらっしゃい」
「何もこのような時間に行かずとも・・・」
「いつ行こうと、わたくしの勝手でしょう。見張りを怠っていたと思われたくなければ、付いていらっしゃい!」
華漣は声を荒げて、彼らに二の句を継がせなかった。父側の人間に、とやかく小言を言われるのはもううんざり、一日の始まりだというのに気分が悪い。
廊下に灯る燭台の光は頼りなく、煌々と燃える火の影が壁に幻想的な絵を造る。一筋の煙が揺らめきながら天に向かって昇り、やがて形を失って大気に還る。女の部屋の前に佇む兵士のうちの一人が、偶々火を替えようとしていた。華漣の姿を認めて慌てて動作を一時停止し、深々と頭を下げる。手に持たれたままの燭台の火は消え、彼女の部屋の一帯だけが急に暗い闇に沈んだ。
「扉を開けなさい」
華漣の命令に、燭台を手にしていない方の兵士が、ゆっくりと頭を上げてから答える。
「先客がおられますが」
「先客ですって?こんな時間に?」
人の事は言えないが、見舞いに行くような時間では断じてない。まだ活動を開始するには早すぎる、華漣とて普段ならばまだ夢の中を彷徨っている時間だ。
「誰なの」
「姫様がお連れになられた、蓮でございます」
華漣の思考が、停止する。華漣の側に控えている時間、即ち護衛武官としての任務にあてられている時間であるが、それ以外の主に闇の蔓延る時間帯は、何をしようと彼の自由が認められている。とは言え、一応客人としての礼節ある蓮が城外を彷徨き回る筈もなく、大人しく宛がわれた部屋で休息を取っているものとばかり思っていた。華漣といる時間にも一度、機嫌が良ければ二度、彼女の見舞いに行くことを許可している。それ以外の時間までも彼女の為に割いているとは、思ってもみなかった。
「いつからいるの?」
「二時間ほど、前でしょうか」
「毎日来てるの?」
「・・・はい、いつも同じ時間に」
今から二時間前と言うことは、身支度の時間を考慮しても少なくとも三時間は彼女の部屋で過ごしている事になる。それが、毎日。
華漣は部屋の扉を蹴り開けてやりたいのを必至に堪え、中の様子を伺おうと、音を立てないようにそっと扉を開けさせた。優秀な武官はどんなに熟睡していても人の気配を察知して飛び起きると言う。蓮も、扉の向こうの気配を察する能力には長けていた。いつも客の来訪を感じ取るとノックよりも先に扉を開けて客人を招き入れていた。だが、今は違う。
ゆっくりと体を滑り込ませ、燭台を一つ自ら手に持って室内を照らした。蓮は、眠っていた。丁度彼の妻の顔の真横あたりに突っ伏して、座ったまま眠っている。安心しきった、穏やかな寝顔だと思った。彼は何も語りはしないというのに、ここだけが安心して眠れる唯一の場所なのだと言われている気がした。
華漣は冷水をかけられたように、急に頭が冴えてきた。筋肉痛になるような激しい運動をした覚えはないのに、指先が、腕が、痙攣している。燭台を取り落としそうになったのを慌てて持ち直し、兵士を置き去りに扉を閉めた。流石の蓮も、これには反応した。
体が軽く揺れたかと思うと、次の瞬間にはゆっくりと目を開き、上体を起こしてこちらを見ていた。華漣の姿を認め、慌てて立ち上がる。
「姫様・・・どうしてこちらに?」
蓮は何の悪びれもなくそう言った。それもそのはず、蓮は華漣が怒っているとは思ってはいまい。自分が妻の元にいた事実は彼にとって後ろめたいものなどではなく、慌てて取り繕う必要も、言い訳を考える意味もないのだ。その堂々とした態度が、逆に華漣の神経に障る。何故自分だけがこんなに腹を立てているのか、自分でも理解しがたい。
「言い訳の一つもないの?」
「はい?あ・・・ご来訪に気付かず、とんだ失礼を」
違う。謝って欲しいのは、そんな事ではない。頭を下げる蓮に、思わず怒鳴った。
「頭を下げるなと言ったでしょう!!」
蓮は少し驚いたようだったが、華漣につられて声を荒げるでもなく、穏やかな口調のまま今度は目だけを伏せた。
「申し訳ありません」
どうして、彼が謝るのだろう。彼は何一つ間違ったことはしていないのに。華漣は燭台を近くの台に乗せ、再び蓮に視線を戻した。笑うでもなく、怒るでもなく、ただ真顔でじっと華漣を見返している瞳があまりにも無機質で、結局先に視線を反らす。
蓮に、目を伏せさせているのは自分だ。その姿を嫌う自分が、彼をそうさせている。そんなつもりは、ないのに。
「毎日ここで寝泊まりしているのですってね」
蓮は答えない。その間が、肯定を意味する。
「わたくしが宛がった部屋では不満かしら?」
「とんでもありません」
「それでは、何故ここで?ベッドもないのよ、十分に体を休ませる事が出来ないでしょう?」
怒りは抑えたつもりだが、声が震えた。自分では気付いていなかったが、彼の事を睨んでいたかも知れない。
蓮は例の困った顔を見せなかった。穏やかに、それでもはっきりと照れもせずに言い放つ。
「彼女の無事を側にいて確認していないと、眠れないのです」
今日の蓮は、いつもと少し違った。大人びた声質、静かな瞳、決して慌てふためくことのない、全く年下には見えない落ち着きのあるオーラ。
華漣は一歩、近づいた。何食わぬ顔で寝ている女性が憎らしく、腹立たしさが募る。
「本当に、愛していらっしゃるのね、奥様の事」
「愛してる、ですか」
蓮は自嘲気味に笑った。その瞳は氷のように冷たく鋭い光を放っていたというのに、女性に目を落とした後の彼の瞳は、春の囀りよりも穏やかだった。
「そんな言葉では、足りないのですよ」
「それ以上の言葉があって?」
「この気持ちには、名前がないのです。だから、お伝えする事が出来ない」
華漣は一気に間を詰めた。ベッドを挟んだ向こう側にいる蓮を、睨み付ける。
「言葉に出来ない事などこの世にはない!おっしゃい、この女がなんだというの!!」
蓮は妻を見下ろしたまま、言葉を紡いだ。
「・・・守らなければならない方です。この命を幾つ賭けても足りない、この賤しい命を賭ける事すら烏滸がましいほど美しく輝く、宝石なんですよ」
「分からないわ、賤しいのはこの女でしょう。奴隷上がりなのよ!?」
怒鳴ってしまったのは認める。配慮に欠けていた事も認める。自分の言葉の全てを打ち消してしまいたいほど、華漣は自分の言葉を呪った。蓮が、硬直する。呆然とした意志のない瞳、今にも体の力が全て抜け落ちてしまいそうな程弱々しい瞳。大きな眼に後悔の色を宿し、彼は目を伏せた。顔を隠すようにその大きな手で目頭を覆う。
華漣は後悔した。ショックに立ちつくす蓮の蒼白な顔が瞼の裏に焼き付いて離れず、胸が締め付けられる。言葉が出ない。直ぐに謝ればよいものを、意志とは裏腹の言葉が口を突いて溢れ出る。
「貴方の命を賭けるような、女なの?」
何も、考えられなくなった。自分の口から出た言葉だとは思いたくなくて、精一杯の力を込めて漸く一歩退いた。長い時間が流れた。いつもならどんな我が儘も笑って流してくれる蓮が、今日は言葉を、笑顔を返してくれない。ただ黙って俯く蓮の姿に堪えられなくなって、沈黙を切ろうと更に言葉を繋げようとすると、墓穴が増えていく。
怒っている。その沈黙から滲み出る怒りが伝わってくる。蓮は、怒ってる。
それが分かっているのに、ごめんなさいの一言がどうしても出てこない自分に呆れた。蓮が言葉を返してくれない事がこんなにも苦しいのに、息が詰まって、呼吸の仕方を忘れてしまったのかと訝しむほど体が痺れるのに、どうしても謝罪の言葉が出ない。
「あれは、確かに奴隷烙印です」
蓮のものとは思えないほど沈んだ声だった。顔を上げた華漣の眼に、怒りを抑えた無表情の彼が映る。
「彼女を賤しいと思う者がいる限り、私は決して心の底から笑うことは出来ない。呪われた烙印を押されてしまった彼女の子供は、やはり呪われてしまう」
自分の子供を、呪われていると言わざるを得ない蓮に、言葉を返せない。彼女だけではなく、血の繋がった蓮の子供までも侮辱してしまった事に、初めて気が付いた。
「この呪われた呪縛を解き放たない限り、私に幸福は訪れない。彼女に填められた巨大な鎖を外せるその日まで、私はどんな事があっても彼女から離れません」
蓮はきっと、今までにも命を賭けてこの女を守ってきたのだろう。華漣が蓮を見付けた日の彼の姿は、今でもはっきりと覚えている。風が吹けば飛んでいってしまいそうな華奢な肩に、命が助かるとも思えない大きな荷物を背負って、彼女の無事を確かめて漸く意識を失った。狩猟区の獣と対峙しても、どんなに不利な状況でも、彼は彼女を見捨てずにその命を背負い続け、助けた。きっと彼は、華漣が何を企もうと身を呈して彼女を守るだろう。
「貴方は、どうしてこの女を選んだの」
酷く、落ち着いている自分に気が付いた。先程までは体が痙攣して言うことを聞かなかったというのに、いつの間にか心拍数は通常通り、穏やかな気分だ。
「答えて、どうして貴方は選んだの。奴隷上がりの女との間に子供が出来れば、その子供にもその血が続いていく事は分かっていた筈。責任を感じるくらいなら、どうしてこの女を選んだの。おかしいじゃない。まさか、この女が奴隷だったと気付かなかったなんて馬鹿なこと、言わないんでしょう?」
蓮は小さく頭を振る。
「彼女が奴隷だなんて、今でも思っていませんよ。皆が私のように、彼女を奴隷だと思わない日が来る事を願ってやみません」
「・・・馬鹿じゃないの。奴隷烙印がその背にある限り、決してそんな日は来ないわ」
「そうでしょうね。ヒトは、自分よりも弱い者を見て安堵する」
心臓が、高鳴った。
「これは願望なのでしょうね。そんな日が来ない事は、分かっているのかも知れない」
それならば、何故。
「だからなのでしょう。私が彼女の側から離れられないのは。私は一生をかけて、彼女に償いをする。片時も離れず、彼女を守っていく。でも、彼女の心に一生消えることのない傷を負わせてしまった事実は消えないから、これは自分への罰なのですよ」
罰?
「彼女が蔑まれ、悪意に満ちた言葉を浴びせられ、見下される度に、私は自分の罪を思い出して胸を痛めるのです。それで彼女が救われる事はないけれど、自分の罪を彼女が許してしまわないように、私はずっと彼女の側で苦しんでいくのです」
「・・・意味、分からないわ」
蓮は、苦く笑った。棘の消えた瞳を見て肩の力が抜けて初めて、ずっと体に力が入っていたことを知る。
「では、こうしましょうか」
蓮の怒りが解けた事に安堵していた華漣は、撫で下ろしていた胸を張り、彼に視線を送った。優しい笑顔で、蓮は華漣の胸を締め上げた。錆びた鎖が、胸に食い込む。
「彼女を愛しているということに」
台に乗せた燭台の光が消え、辺りには闇と白煙だけが残った。