⑧
今日も大臣の髭は鬱陶しい。
華漣は苛々と貧乏揺すりをしながら、縷々として新しく見つけた婚約者の売り込みをする彼の話が終わるのをじっと待っていた。今は大臣の機嫌を損ねるわけにはいかない。
彼の無駄話を聞いている間、華漣はずっと例の女の事を考えていた。蓮が妻の元へ見舞いに行く際、華漣は後方で彼らの様子をじっと観察している。華漣にとっても彼女の元を訪れる事は日課になりつつある。今日は、大臣との約束の時間まで、つまりつい先程まで一人で女の元を訪れていた。蓮は男であるため、護衛武官とはいえ夜になると華漣の部屋を退出する。あとは見張りの兵士と光輝に任せ、自室に下がって休むのである。蓮を下がらせた後、光輝だけを連れて女を見舞った華漣は、ただ何をするでもなくじっとその寝顔を眺めていた。彼女のお腹に手を乗せてみると、気のせいだろうが、何かが息づいているのを感じた。それが蓮の子供だと思うと、何だか少し愛おしい。
女性は順調に回復に向かっているように思えた。ただ眠っているように見える。安らかな寝息、安定した呼吸音、少しずつではあるが頬に赤みが戻っているようにさえ感じた。手に目を落としてみる。最初は泥だらけだった腕も今は白い肌が覗き、きめ細やかでしなやかな指は長い。
彼女の体を拭いたのは、光輝及び華漣お付きの女官だった。助けてこのかた、彼女たちに毎日体を清めさせている為か、いつも肌が滑るように弾力がある。その手をとってみると、それはよりはっきりと分かった。華漣よりも手のひらが大きい。手首は細く、腕は折れそうな程に細い。だが女性らしい見目とは逆に、触れてみると意外と筋肉質だった。
この手を、蓮が握って泣いていた事を思い出す。思い起こしてみると、蓮が妻の手をとったのはあの日だけであった。毎日見舞いに来ているというのに、彼は優しく見守るだけで積極的に彼女の体に触れる事をしない。まるで触れると壊れてしまうガラス細工のように、恐る恐る髪を掻き上げてみたり、脈をとったりするだけで、手を握ったり、ましてやその唇に触れる事もなかった。心から愛おしんでいるのは十分すぎる程に伝わってくるのに、何故か切なく、いつも違和感を抱く。彼はあの女性を愛している。だが、妻ではないような。
「・・・という訳で、いかがです?考えて頂けませんか」
気が付くと、長い大臣の話も区切りを迎えていた。考えてみる、と適当な相槌を打ち、華漣はようやく自らの目的の為に大臣と向き合った。身を乗り出して、問う。
「どう、冰という大家の事は分かった?」
「まあ、最近よく耳にする大家ですからな。調べる事はそう難しくありませんよ」
「よろしい、話して頂戴」
大臣は、咳払いを一つして、ゆっくりと冰大家について話し始めた。
「花の咲き乱れる美しい城下町を持つ冰大家は、そのあまりの美しさ故に白花の都と称され、昨今一躍有名になった新規の大家です。民の信頼厚く、主子は三人。上二人は男で、末っ子が女。これが鵡大家に嫁いだ姫君ですな。長男、次男はそれぞれ幼くして国王直々のお言葉を頂戴した程の逸材だと言われていますが、まあ、次男は行方不明になり、長女があんな事になったとあっては、今後は期待できませんな」
「次男が行方不明。何故?」
「自発的にいなくなったようですが」
誘拐等の何らかの事件に巻き込まれている可能性も低くはなく、何らかの事情によって真実を隠していると考えられる。蓮が冰大家の次男坊である可能性はないか。憎まれる鵡家次男の側室の兄、追われる身としては十分すぎる理由だが、反乱軍が冰大家まで押し入ったという話は聞かない。それに、外出中に被害を受けたのだとしても実家に逃げ帰ればいいだけの事だし、何より大家の次男であって不自然なのは、やはりあの妻。大家の人間が奴隷上がりを妻にする筈がない。
華漣は、はたと思考を止めた。そう言えば、蓮は友人に連れられて行った街で偶々彼女に出会ったと言っていた。一目惚れだった、と。とすれば、身分の違いすぎる恋に反対を受け、二人で駆け落ちをしたのかも知れない。それ故、名を捨てた。女を諫めようとして痛めつけたところを、蓮が見付けて救い出したのかも知れない。蓮が一般人らしからぬ教養を身につけている事も説明が付き、一応の辻褄は通る。
「ねえ、冰大家の次男は、まだ見つかっていないの?いつからいないのかしら」
「確か四,五年くらい前でしたな、妻を探しに行ったんですよ。噂ですがね」
「妻を?」
「そうそう、ほら、姫様も噂を聞いて馬鹿らしいと散々仰っていたではありませんか。婚約者を誘拐されて、単身探しに行ったんですよ。今時そんな、ある筈がないとは思いますがねぇ・・・でも、婚約者が行方知れずになったのは本当なので、強ち間違っているとも言い切れないんですな」
その話なら記憶にある。鰻登りに名を上げる大家の次男が、たかだか婚約者の為に自ら当てもない旅に出るなど馬鹿げている、と確かに華漣は罵った。部下にでも任せて、とりあえず側室でも迎えれば良いものを、と理解に苦しんだものだ。
「確か、婚約者の方は鈴大家のご息女だったわよね」
「いかにも。未だに行方は知れず」
婚約者は大家のご令嬢。間違っても奴隷上がりである筈がない。旅の途中で、あの奴隷上がりの女に出会ったというのも考えられなくはないが、四、五年前に旅だったとなれば辻褄が合わない。蓮が女に出会ったのは、少なく見積もっても八年前の筈である。流石に大家の次男などと考えるのは無理があったのだ。そうであれば良いという願望からそんな事を考えてしまったのかも知れない。
「それで、冰大家の家主の性格は分かったの?」
「お会いした事がないので、流石にそれは無茶なご依頼でしたな。ただ、街の者や配下の者達からは、家主並びに主子に至るまで好かれており、温厚にして寛仁だと言われていますな。一代であれほどの都と信頼を打ち立てるような家主ですから、それなりに頭も良く冷静な男だとは思いますがね」
寛容で冷静な男。
この前、華鳥と蓮が食事の席で話していた事を思い出す。華鳥は、鵡家の長男が冰大家に首を差し出したと言っていた。冰大家の者達の長女を殺された事への怒りが冷めず、冰大家との戦争を避ける為に先手をとって自ら死への旅路を歩んだと。しかし、蓮は冷静な判断が出来る家主ならば戦争は自ら避けるだろうと、そう言った。華漣もそう思う。冰大家の家主及び残された長男が冷静に物事を考えられたとしたら、蓮の言ったように戦争を避けたのではないだろうか。すると、鵡家の長男の死に疑問が浮上する。彼は何故死んだのだろう。本当は戦乱に巻き込まれて死んだのか、それとも何か別の理由があって自ら命を絶ったのか。
「鵡家のご長男は、本当に亡くなられたの?」
「ええ。それは確かなようですよ」
考えろ。華漣は昨晩、今現在怒りを感じているのは民だと考えた。それ故、蓮は鵡大家側の人間である可能性が高いと、そう思ったのだが、長男の死が冰家との交渉の為でなかったとするなら、別の考え方をする事も出来る。
鵡家次男の側室が処刑されてから四日も反乱が続いた事により、民の不満は鵡家そのものにも向けられていたと推察できる。ずばり長男の死は、鎮圧された民の怒りが鵡大家そのものに向けられたままであった事に由るのだ。冰家の家主にではなく民の怒りを静める為に差し出された命、そう考えると辻褄も合う。そうだとすれば、民の怒りは一通りの収束をみた事になる。
では、今現状で最も怒りを覚えているのは誰か。それは鵡家の内部の人間。次男は側室に刺されて重体、その敵を正室が追っているかも知れない。だが、彼らの怒りの矛先となるべき次男の側室はもういない。では、家主の怒りか。家主は長男を失い、さぞ怒りに震えている事だろう。長男が殺された直接の原因は側室にあるとは言え、反乱を起こした首謀者が捕まっていないとすれば血眼になって探すのは自明の理。蓮が大家を打倒しようと反乱を引き起こした張本人、これは可能性がある。名がばれれば、その身内が捕まって居場所を聞き出されるのは当然。あの女性は捕まり、拷問された。その時の傷が背中や足の傷。蓮は彼女を命からがら救い出し、身を隠すようにして狩猟区に逃れた。
この推理はいける。
「反乱を起こした首謀者はどうしたの?もう捕まった?」
「いや、首謀者と呼ぶべき首謀者もいなかったみたいですな。反乱軍と鵡家軍との闘いで反乱に参加した殆どの民が命を落としたそうで、反乱側の事情はあまり詳しく伝わっていないようですから何とも」
ロイは言葉尻を濁した。
可能性はある。鵡家の反乱に携わっていた事は間違いないのだ。官らしき知識を披露する事から考えて、もと官であったにも関わらず鵡大家を裏切っての反乱だったとしたら。反乱を起こす引き金をひいたのだとしたら。
華漣は行儀良く膝に乗せた手を机の下に隠したまま、小さく拳を握りしめた。ぞくぞくと、自らの推理がうまく規定の枠に填っていく快感が背筋を走り抜ける。蓮はその口を固く閉じ、何も語ってはくれない。それならば、自分で推測するしかないではないか。こうして試行錯誤を繰り返し、蓮の本当の姿に少しでも近づいていきたい。
「今日はもう結構よ。また、機会があれば尋ねる事があるかも知れないわ」
「お待ちしています」
大臣は嬉しそうに顎髭を撫でた。