⑥
華家は、剡という名の中家に属し、更に上は柘という大家に与している。
せいぜい小家に関わりがあるのは中家くらいのものだが、鵡の乱に際しては、些か事情が異なった。圭大家は鵡大家との親交厚く、鵡の要請に際して援軍を送った大家の一つである。当然、配下の家々からも兵士が集められた。
華家からは、総勢五十名近い兵士が送り出された。全軍合わせて千近い軍勢が送り込まれた事になる。五十名の中で、無事再び華家の地を踏んだのは僅か十数名、反乱の勢いを痛感するに易い数字だった。単純に計算すれば援軍の三分の二が戦死した事になる。
それ程の数の兵士が戦死したとなると、今年の官試の合格率は飛躍的に上がるに違いない。いなくなった数は、補強されなければ政務に支障が出ることにもなりかねない。何にせよ、これだけの規模の反乱となってしまった以上、ここから先は国の判断に委ねる事になるだろう。国王がどのような決断を下すか、見物だ。
華漣は、弟の部屋の前を彷徨いていた。
華漣の護衛武官となる為に父に挨拶に行くという蓮の身嗜みを整える任務を、弟に与えてもう一時間が経とうとしている。準備が整い次第連絡を入れるようにと言ってあったが、あまりにも遅いために、居ても立ってもいられず、こうして徘徊しているという次第である。顔や体型には何ら問題ない。言葉遣い、姿勢、何を取っても文句の付けようもない。後は服装である。きっちりと官服を着こなし、清潔に見える髪型。何事もまず見た目から、ここで手を抜いてはならない。
華漣や光輝では流石に男性の官服に関してまでは分からず、華鳥とその側近に全てを任せる運びとなって一時間と五分、とうとう弟の部屋の扉が開かれた。我先にと部屋に飛び込んだ華漣は、ある一点で視点を止めてからというもの、暫く瞬き一つ出来なかった。
綺麗に洗って櫛を通した髪は艶やかに光り、透けるように美しい。肩胛骨まで流れる細くしなやかな髪が揺れる度、室内に居ながらにして水の流れさえ感じる。薄鼠色の鍔襟の官服の胸元に落ち着きある金の刺繍が煌めき、袖口に添えられた金のカフスが慎ましげに輝く。官服に合わせた色のベレー帽が黒の波の中で映える子供らしさの中に、腰に帯びた剣が勇ましい。踵を合わせて姿勢良く佇む姿は、誰がどう見ても上級官吏そのものだ。
「素敵じゃない、蓮」
華漣は、素直に認めた。蓮は、慣れない格好なのか苦笑気味に自分の姿を鏡で見ている。
「父上との約束は取り付けてあるから、急ぎましょう」
華鳥は笑顔で自ら蓮に道を示した。青い顔をした兵士達が、慌てて扉を開け、道を作る。流石の蓮も、少し恐縮しているのか肩に力が入っている。
「あの、主子様にそこまでして頂いたのでは、家主様にお会いするまでに心労で倒れてしまいます。どうか、居ながらにして見送って下さいませ」
華鳥は物寂し気に口を尖らせたが、直ぐに笑顔に戻って言われたとおり椅子に腰を落とした。それを見て、蓮が優しい笑みを浮かべる。
「お手を煩わせた事、深くお詫び申し上げます。御前失礼致します」
「頑張ってね、蓮」
満面の笑顔と両手を左右に大きく振って蓮を見送った弟の姿が扉に遮断されると、華漣は我慢していたものを堪えきれずに吹き出した。
「おかしいの、蓮ったらよっぽど華鳥に気に入られたのね」
「からかわないで下さい、姫様」
蓮は少し頬を紅潮させて、前に向き直った。華漣に案内させる訳にはいかないとばかりに、お付きの光輝に言葉を掛ける彼の後ろ髪を軽く引っ張ってみる。
「何か?」
「別に、何でもないわよ」
ふい、とそっぽを向く仕草は、我ながら好きじゃない。気に入らないことがあると、直ぐに拗ねてしまう。こうすれば、全てが思い通りになる事を、華漣は知ってしまっている。だが、余所者の蓮には、それが通じなかった。
「そうですか?ならいいんですけど。行ってきますね」
優しい微笑みを残して、光輝に連れられて行く背中を見ている自分が、少し寂しい。道案内をしろと、光輝に命じたのは自分だというのに、華漣に比べれば身分近しい光輝と仲が良さそうに笑い合う二人の姿が、何となく癪に障った。遠ざかっていく背中、彼らは父に会うために、現在父が身を置いている彼の政務室へと進む。五階へ降りる事は禁じられている。だから華漣は蓮を見送れないのだと、そう自分に言い聞かせて、華漣は数人の兵士を引き連れて自室に戻った。後は、良い結果を待つほか無い。
する事もなく、小一時間は待たされた。仕事以外の話をする事を嫌う父が、彼と一時間も話をしていると思うと不安になった。二十分が過ぎた頃から募り始めた不安は時間を経る毎に大きく膨れあがり、今では胸が押し潰されそうだ。余程気に入られたのか、或いは父の八つ当たりを受けているのか。父が華漣の件で怒っているのは知っている。脱走と、下賤の男を拾ってきて看病しているという二重の隕石を堕としてしまった華漣に、父の怒りは凄まじく、こうして謹慎を食らっているわけだが、その元凶である蓮が顔を見せたとあらば、人目を憚って華漣にきつく当たれない蓄積された怒りの全てを彼に向けている可能性は高い。
一時間十五分経過。これならば華鳥の部屋の前で彷徨きながら着替えを待っている時間の方が良かった。不安は形を変え、のし掛かる。父の怒りのままに追い出されて、二度と蓮に会えなかったら。
さっと、血の気が引くのが分かった。そうなるような事があれば、光輝が連絡をしてくる筈である。何かあれば知らせるようにと、部屋の前での盗み聞きを命じている。大丈夫、蓮の事だ、きっと気に入られて話し込んでいるに違いない。
一時間三十分、とうとう華漣は立ち上がった。悠長に座ってなどいられない。無意識のうちに両手の平を合わせて指を組み合わせ、祈るように胸の前に当てて室内を右往左往する。早く、早く、早く。
不意に、足音が聞こえた。
慌てている様子はない。ゆっくりと、しかし確かな足取りで複数の足音が華漣の部屋に近づいて来る。扉が、叩かれる。
「・・・どうぞ」
声が震えた。
「失礼します」
声は蓮のものだと瞬時に理解できたのに、その顔を見るまで安心できない自分がいた。顔を見せる前に深々と礼をする彼を目の前にして、これほどまでに礼を憎んだ事はない。彼が顔を上げた瞬間、漸く安堵の溜息を漏らした。
「遅いじゃないの、結果は?」
「はい。姫様の御意志にお任せすると」
「そ、そう・・・父が本当にそう言ったの?」
「ええ」
足の力が抜けて座り込みそうになるのを耐え、華漣は椅子に腰を下ろした。父が、認めた。この素性も知れぬ蓮を、父が。
「じゃあ、これからお前は、わたくしの護衛武官よ。常にわたくしに付き従い、命令には決して逆らわず、側に控えている事」
「はい」
小さく頭を下げた蓮を見咎めて、華漣は言葉を足す。
「それと、わたくしの前で礼をするのは、今後一切止めて頂戴」
「は?いえ、私は護衛武官に任じて頂いたとは言え、姫様の家臣である事に変わりなく・・・」
「言ったでしょう、命令には決して逆らうなと」
蓮は困ったように肩を竦め、光輝を見遣った。仕方がないと言わんばかりの光輝を見て、苦笑混じりにそれを承諾した。ただし、人前ではきちんと礼を尽くさせてくれという条件付きで。
「あとは、そうね。姫様って言うの、堅苦しいから止めてくれない?名前で呼んでくれない?」
蓮が、目を見開いた。華漣と目が合うと、慌てて目を伏せてしまう。彼が目を伏せる時は、何か華漣の前言に思うところある時だ。疚しいことがあるのか、本人が良いと言っているものを呼べない理由などある筈がない。
「どうしたの」
「・・・いえ、何でも。仮にも姫様の御名を私が口にするのは憚られます」
確かに、通常身分の低い者が高い者を名で呼ぶことはない。
「わたくしが良いと言っているのに、呼べないの?」
「いつ何時誰に聞き咎められるやも知れません。そうなると処罰されるのは蓮ですよ、姫様」
光輝が口を挟む。確かに、そんな事で蓮が辞めさせられては元も子もない。ここは、仕方なく引き下がる事にする。
「それじゃあ、早速仕事を始めて貰いましょうか」
「姫様、一つだけ、宜しいでしょうか」
「あら、何?」
「一日に一度、彼女の容態を見に行く時間を頂けないでしょうか」
閉口する。直ぐには言葉が出てこなかった。そう、忘れていた。この男が、華漣の護衛武官になる事を承知したのはあの女あってこそ。彼女を心配し、胸を痛めていた蓮の様子を思い出す。
「折角だから、今から行きましょうか。わたくしも気になっていたところなの」
「有り難うございます」
蓮が嬉しそうに笑った。瞳が、喜びに染まる。
何だろう、もやもやとした、変な気分。出来ればあの女には会わせたくないという、何とも奇妙な感覚。
どうやって女の部屋に辿り着いたのかは覚えていない。気が付いた時には部屋の中にいて、愛おしそうに女の様子を見守る蓮がいた。この前のように触れる事はなかったが、ただ鬱陶しそうな前髪を優しく掻き上げた事が、逆に彼女に対する優しさを垣間見る結果となった。蓮はものの五分もしないうちに、もう十分だと言った。本当は、ずっと側に付いていたいのかも知れない。ずっと手を握って、朝まで彼女の無事を祈りたいに違いない。
厭だ。
二人きりになど、してやる義理はない。今彼女の身を預かっているのは他ならぬ華漣だ。蓮は決して自分には逆らわず、決して自分の側を離れない。
(でも、この女が目覚めたら?)
華漣は、背を向けた蓮の後ろで頑なに目を開ける事を拒む、女の顔を見た。眠っていればいい。永遠に、眠っていればいいのだ。