③
華漣の合図で再び入室してきた光輝に蓮の移動を手伝わせ、一行は名も知らぬ女性の部屋へと向かった。
一般人が城内を歩く時、それは物珍しそうに辺りを窺うものであるが、蓮は違った。高価な絵画や燭台などには目もくれず、ただ真っ直ぐに前を見て歩く。
余程女性の事が気掛かりなのか、城内という異質の雰囲気に慣れているのか。閉鎖的で長い廊下、居並ぶ兵士に扉の数。多くの人間がいるというのに静まりかえり、誰もが他の存在に気付きながら気付かないふりをしている異質なこの空間。
城内に住まう者以外に、慣れる方法はない。外から来た者には、さぞ奇妙な感覚であろう。だが、蓮にはそれを気にする様子がない。
女性の部屋は中央階段を挟んで二つ目。部屋と部屋の間隔があるので、頭で把握している数字よりも遠く感じる。
部屋を守っている二人の兵士が同時に敬礼をし、その片方が一行、否、華漣の為に扉を開ける。開かれた視界に入ってくるのは蓮と同じ風体の部屋。ベッドにかかったレースと掛け布団の柄、カーテンや絨毯の色が女性らしく少し華やかなだけで、造りは全く同じだ。
ただ、ベッドに横になっている者の容態だけが大きく違う。女性の周りには仰々しく医療道具が並び、その中央に横たわる女性の顔色は優れない。開くことのない重い瞼、青白い顔、固く閉じられた唇には血の気がない。
蓮は直ぐにでも女性の元に走り寄りたかったのだろうが、華漣の手前、それを押さえているように見えた。華漣が中に招き入れる許可を出した瞬間に、頭を下げて女性に走り寄る。主治医と光輝は中に招き、兵士は外で待機させた。見張りの者も下がらせる。
蓮は女性に駆け寄り、彼女の頬を手で包み込んだ。女性の顔が小さいのか蓮の手が大きいのか、彼女の顔がすっぽりと蓮の手の中に収まる。愛おしそうに髪を掻き上げ、治療された細かな傷を優しく撫でながら蓮は目を伏せた。女性の熱を確かめるように、その手を握って離さない。やがて漸く納得がいったのか、蓮は彼女の手を放すことなくこちらを振り返った。その瞳が潤んで光っているのを華漣は見た。
「そんなに不安だったかね?ちゃんと言っただろう?意識はないがちゃんと生きている、と」
「ええ。本当に、有り難うございます」
華漣の主治医であり、蓮と女性の介抱に当たった桔医師は苦笑する。蓮は心の底から安堵したのか、今にも泣き出しそうな情けない顔をして女性の手を両手で包み、自らの手に額を当てた。神に祈っているように見える。彼女の無事を祈っているのか、生きていた事に対する感謝を述べているのかは分からないが、面食らったのは事実だ。
彼らがどういう関係なのかは知る由もないが、女は奴隷上がりだ。ここまで男が大事にしている事にも驚いたが、礼儀正しい彼がここまで取り乱す程の価値が、この女にあったのだという事実にも驚かされた。
「奥様ですのね」
「え?」
華漣の呟きに、蓮が反応した。先程は潤んでいた瞳に、紛れもない涙が浮かんでいる。その涙が、この上もなく美しい宝石のように見えた。
「奥様でしょう?ご安心なさい、子供も無事よ」
「こ、ども?え?彼女が、ですか?」
「何だ、聞いていなかったのかね?」
「子供、が・・・彼女に子供?」
蓮の頭の中が見える気がする。おそらく、呟いてはいるが何が起こっているのかを脳は理解していない。
蓮は何度も視線を泳がせ、女性で目を留めては頭を抱え、また視線を泳がせた。それを何度も繰り返し、暫くして漸く平静を取り戻した時にはその顔に優しい笑顔が称えられていた。
「そうですか。子供がいたんですね。守れて、良かった」
「うむ。お主はよく頑張ったよ。背と左足以外には特に際だって酷い怪我はない」
「どうですか、左足は。また歩けるようになりますよね?」
縋るような目。世の男性というものは普通、これほどまでに妻を愛しているものなのだろうか。政略結婚が日常茶飯事である華漣の身の回りの事例から考えて、目の前で起こっている男の行動には、理解が及ばない。
「大丈夫だよ、出血が酷かったみたいだが、傷自体は化膿もしていないし。背の方も、余程処置が良かったのだろう。傷は残るが、痛みはなくなるだろう」
「目覚めるんですね?そのうち、目覚めるんですよね?」
桔医師が大きく頷いて見せると、今度こそ本当に蓮は座り込んだ。そして、床に倒れ込む。余程気を張りつめていたのか、緊張の糸が切れたらしい。再び意識を失った男の瞼の下から、大粒の涙が一粒、流れた。
華漣は女性を見た。長いウェーブがかった髪の、美しい寝顔の女性。傷を見れば分かる。相当苦労してきたのだろう。それなのに、何と美しく見える事か。
「光輝、兵士を呼んで蓮をベッドに運ばせて」
「蓮?あ、ああ。この男ですね。心得ました」
光輝が落ち着いた所作で踵を返し、兵士を呼びに行く。倒れた蓮の脈を取る桔を見下ろし、尋ねた。
「本当に、この女性は助かるの?」
「おそらくは。この男の処置が良かったのでしょう。ここまでの傷を処置できたとなると、この男、もしかすると医術の心得があるやも知れませんね」
「医術?では、官吏だと言うの?」
官試、というものがある。国の行っている試験で、これに合格すれば国お抱えの官吏として、高給と将来を約束された身分となる。一生門兵で終わる者もいれば、小家の家主になる者もいる。王都に仕える事だって夢ではない。
官試にはそれぞれジャンルがあり、その中の一つに医術がある。千を超える種族が住むと言われているこの世界で、医者は何人いても足りない。ある種族には通用する対処法も、他の種族では全く役に立たないこともある。
一つの種族に対して精通した者、それが医者である。種族が違えば輸血も不可能。試験に通った者は、ある一つの種族の身体について徹底的に学ぶ。そして、その種族にのみ通用する医学を習得した者が、その種族の専門医となって派遣されていく。複数の種族 に精通した者が小家に招かれ、多くの種族に精通した者が大家のお抱えとなる。どれだけ多くの種族の身体に精通しているか、それで医者の価値が決まるのである。当然、一つの種族について知る事も難しいものを多く習得出来る者は極めて少なく、極めて優秀である。王都に仕える医者の頭がどうなっているのか、華漣などでは千分の一も理解できないだろう。
だが、それは内臓類や目に見えない菌類の病気に限る。外傷に関しては処置の仕方はどの種族も大体同じ、それを知らない者は医者を名乗る事すら烏滸がましい。医者と名の付く官吏ならば、誰でも出来る処置が外傷の処置である。ただし、これは医術を学んだ官吏にとっては当たり前の事項でも、習っていない者にとっては到底理解の及ぶ範疇ではない。
外傷の処置を出来たなら、官吏の可能性がある。だが、どれほどの医者かは分からない。蓮が官吏だとすると、益々理解できないのがこの女性の存在である。
官吏ともなれば引く手あまた、おまけに蓮のように容姿に長けた者ならば尚更、奴隷上がりの女性を妻に娶る必要はない。確かに魅力的な美しい女性だが、官吏の中にも美しい女性など山のようにいるだろう。何故、この女を。
「外傷処置は、習えば誰にでも出来る事。だが、ここまでの傷を手当てしたとなれば、かなりの知識を持っていると考えるべきでしょうな」
「確かに、一般人にしては丁寧な言葉を使うとは思ったのよ。立ち振る舞いも綺麗だし、それなりの教育は受けていそうね」
頷いた桔医師を横目に、華漣は運ばれていく蓮を見ていた。
何者なのだろう、あの男。
華漣は夢を見た。
辺り一面緑色に輝く野原に、ただ一人。誰にも邪魔されない、一人だけの世界。
狩猟区への道が見える。緑の道を抜け、咲き乱れる花に祝福されながら進む足が軽い。目の前に聳え立っていた筈の壁が、近づく度に低くなっていく。飛び越えられる、そう思った華漣の前に、一人の男が立ち塞がった。父のようにも弟のようにも、桔医師のようにも見える。誰だろう、自分を取り押さえに来た兵士かも知れない。
いや、違う。人影は華漣を追いかけるでもなく、自分も狩猟区に向かって歩き出した。どこへ行くのか気になって、追いかける。近かった筈の壁がどんどん遠ざかっていき、人影も小さくなっていく。飛び越えられそうな程低かった壁が、今は天よりも高い。
待って。
華漣は声を絞り出した。息が上がって、一言紡ぐだけで呼吸が大きく乱れる。
わたくしもそっちへ行きたいの。
今度は声にならなかった。掴もうと手を伸ばしてみても、影は深く落ちていくのみ。
その後、出来うる限りの力で何かを叫んだ気もするが、目が覚めると覚えていなかった。