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 一頭の馬が走ってくる。

 蹄の音をいち早く察知した蓮が、メアリに旅人用のマントを羽織らせた。自らも深くフードを被り、正に抜けようとしている鉄柵の前で立ち止まる。

「追っ手ね」

 メアリ姫が冷静に言う。

「そう、でしょうね。ですが、馬は一頭だけのようですよ。このまま抜けてしまいましょう」

 肩を借りていたメアリが、ゆっくりと自らの足だけで立つ。

「壁の向こうで、待っているわ。ちゃんと、話してらっしゃい」

「ですか、姫は足が」

「このくらいの距離、一人で行けるわ。こんなところまで追ってくるのよ、蓮。せめて、別れの言葉をかけてあげるべきだわ」

 口ごもる蓮に、メアリ姫は勝ち気な笑みを残し、直ぐに獣売屋用の門に向かって歩き始める。右足を怪我している事を忘れているのか、その傷を感じさせない軽やかな動きで歩いていくが、その足に血が滲んでいるのを蓮は見た。

 いつこけるのではないかと気が気ではなく、走っていって手を差し伸べたかったが、メアリは蓮の心の内を読んだかのように振り返り、小さく首を横に振った。

 気丈に振る舞っているが、みるみるうちに前屈みになっていく。身体を丸めて痛みを堪える姫の背を見ていると、決意が新たになる。彼女は、何があっても守らなければ。

 蓮はフードを被る。獣売屋のための扉に通じる道の前には鉄柵があって、そこの鍵は門兵が開けてくれた。蓮は施錠を頼み、柵の向こうから迫り来る二つの影を見遣る。鉄柵から扉までは、少し距離がある。不手際で鉄柵を越えられてしまった場合に、侵入者を捕まえるために用意されている距離なのだろうが、今のメアリには些か遠い。

 蓮は、柵の内側で華漣の到着を待つ。

 門兵は、以前華漣にこの柵を抜けられてしまい、余程のお叱りを受けたのだろう。鍵を固く握り締め、絶対に華漣にこの柵を越えさせないという強い意志が、その背からは滲み出ていた。

 蓮、と叫ぶ声には聞き覚えがあった。

 馬を飛び降りて分厚い鉄柵にしがみつく華漣を、兵士より先に男が制する。きっと彼は、蓮達の正体を聞かされていないのだろう。さもなくば、血相を変えて追いかけてくるはずだ。彼は、メアリ姫に懸想をしている節があったから。

 蓮は背後を振り返る。メアリは、扉まであと少し。

「お別れです、姫様」

 水の音が聞こえる。ここは、何て静かなんだろう。

 格子状の鉄柵は高く、華漣は登ろうと足をかけるが、蓮の兄がそれを必死で止めている。何が起きているのか分からないのだろう、とりあえず、といった感じだ。

 兄の姿は久々に見る。兄だと、思った事はないが。まさか華漣が兄を連れてここに来るとは、夢にも思わなかった。どういう経緯でこうなったにせよ、この実の兄とも、これが今生の別れとなるだろう。

「勝手は許さないわ、蓮!!私の命令は聞けと、言ったでしょう!?」

 蓮は苦笑した。この期に及んで普段と変わらない姫君が可笑しい。

「ダンスは上手く出来ても、それでは嫌われてしまいますよ」

 蓮は男の顔を見た。目を丸くした彼には、自分の口元しか見えていまい。

 華漣はひとしきり門兵に掛け合って揉めていたが、門兵は頑なに鉄柵の鍵を渡そうとはしない。今度華漣がここを抜けるようなことがあれば、この男もただでは済まないであろうから、必死だ。

 メアリは、扉を無事抜けたのが音で分かる。風のそよぐ音さえも聞こえるこの地で、扉の開く音が微かに聞こえた。このまま走ってメアリを追えば、もう華漣が追いついて来る事はない。もう華漣と、二度と会う事もない。

 だが、ここまで追ってきた姫君に、別れの挨拶くらいするのが道理かとも思う。この姫君のおかげで、メアリは助かったのだ。彼女にどんな思惑があったにせよ、それだけは変わらない。心から、感謝している。

 姫、と声をかけかけて、蓮は言葉を飲み込む。ずるり、と兄が地に倒れ込んだ。武の血を引く者に、力で華漣が敵うはずがない。手合わせをしたことがある蓮が、誰よりもよく知っている。

「貴方が、教えてくれたんでしょう」

 華漣の瞳が濡れていた。雨が降った日、退屈だと我が儘を言った姫君にちょっとした護身術を教えた事がある。うまくいけば大の男でも気絶させる事が出来るから、と教えた時には一度も決まらなかったのに。武術の才能は、はっきり言ってなかった。

 青くなった門兵が、兄に駆け寄る。よほど綺麗に当て身が入ったのだろう。火事場の馬鹿力とでも言うのか、蓮は思わず笑ってしまった。華漣にそんなことが出来るとは、目の前で起こった事とはいえ、信じがたい。

 門兵に技が決まったのでなくて良かった。鍵が奪われてしまっては、ここまで来られてしまう。

 蓮はフードをとった。兄に見られる心配がないのなら、顔を見せてもいいだろう。最後の敬意、最期の別れ。

「まさか、旦那様にお使いになるとは。私が怒られてしまうのでしょうか?」

「蓮」

 冗談を言った蓮に、華漣は格子に手をかけたまま声をかけて来る。手を必死で伸ばす様が、親を求める幼い子供のようで、少し哀れに映る。頬に光った涙を、確かに見た。

「そんなに、その女が大事なの?反逆者よ!!」

「私もですよ、姫様。反逆者を助けたのですから」

「今なら戻れる、わたくしなら匿う事が出来るわ!」

 蓮は微笑む。華漣の知る蓮という男を、最期まで演じきる事がせめてもの償いだ。蓮は、優しく微笑んで見せる。

「戻ってきて、蓮。行かないで」

 切実な叫びにも、今の蓮は応える事が出来ない。考える余地などなく、彼女と共に戻る選択肢は有り得ないのだから。

「姫様とは、戻れません」

「どうして!!」

「貴女様には一生を共にされる旦那様も、信頼できるお付き女官もいらっしゃる。でも、彼女には私しかいないのですよ」

 姫が黙り込んだ。

「心から感謝しています、姫様」

「やめて!お願いだから、蓮!わたくしには、わたくしには貴方が必要なのに」

「いいえ。私が必要なのは、姫様ではなく、あの方なのです」

「あの女は、貴方の妻ではないでしょう?愛しているですって?いいえ、違うわ!主人と同じ、貴方は仕えているだけよ。貴方の気持ちは、ただの敬意でしょう?そんな気持ちだけで、狩猟区に飛び込むの?死んでしまうかもしれないのよ!」

「その気持ちでは、いけませんか?」

 子供のように泣く華漣に、蓮は努めて優しく言う。

「姫様。私は自分の意思で、あの方に仕えていくと決めたのです。それは、愛である必要があるでしょうか?敬愛する方の奥方、その子供。それは、命を懸けて守るに値しませんか?私は、そうしたいのです」

「では、わたくしの気持ちは?わたくしのこの気持ちの方が、ずっと、ずっと」

 メアリの言ったことは、おそらく正しい。この姫君がいつの間にか抱いた気持ちを、華漣は言葉にしない。蓮も、聞かない。この姫君にとってその気持ちは、プライドよりも勝るものではない。

 だからこそ、華漣は分かっているはずだ。プライドを捨てられない華漣は、このままメアリの元へ行く蓮を、止められるはずもないことに。気づいているはずだ。

「行かないで、蓮。わたくしには、貴方が必要なのよ」

 そう繰り返す華漣を見ているのが忍びなくて、蓮は踵を返す。最後にもう一度、彼女に微笑んで言う。

「―――――――――、」

 突風に乗って、果たして蓮の最期の言葉が華漣に届いたのかどうかは分からない。蓮はそれきり振り返らず、一気に扉への道を駆けた。

 華漣の悲痛な叫び声が、背後から追って来る。扉を抜けると、壁に阻まれてそれは次第に小さくなっていき、やがて聞こえなくなった。痛嘆の声が耳の中で谺し、涙に歪んだ表情を頭で反芻する度やるせなくなる。大分、情が沸いてしまったらしい。

 メアリは壁にもたれて蹲っていた。姫に手を差し伸べると、よろけるように蓮にもたれかかってくる。自分の手の中にすっぽりと収まった姫君が、額の汗を拭いながら笑う。ついで蓮の頬に垂れた髪を掻き上げ、首に手を回してきた。両手で彼女を抱える蓮に、払う術はない。

「私にも貴方が必要だから、彼女の元に行かせてあげられなくて、なんて謝らないわ。その代わり、私も彼女を見習って一つ、我が儘を言ってもいいかしら?」

 頷く前に、姫が耳元で囁く。

「貴方が私と赤ん坊を守って」

 蓮はメアリを抱きかかえ直した。こんなに嬉しい我が儘は、ない。自然と口元が綻んだ。

「それは、我が儘とは言いません」

 薄く照れ笑いを浮かべ、ありがとうと呟いた姫君を抱え、蓮は狩猟区へと踏み込んだ。

 たった一つの我が儘を、命を賭けて叶えてあげようと心から思った。

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