21
蓮が身を挺して守り、華漣の護衛武官の座を蹴ってまで守ろうとした女が、罪人。それも、多くの民を巻き込み、死体の山を築いてのうのうと生き延びた、史上最低の女。
眠る時間を削って看病をし、自らを犠牲にして女が介護を受ける為に働き、命を賭けて狩猟区の獣達から守った健気な蓮を想起するだけで、女に対する怒りが込み上げてくる。どれだけの価値がある女かと思えば、なんてことはない、ただ仕えていた主子の妻というだけで、言い逃れの出来ない罪を侵した者。ヒトと定義するに値しない獣。
「どうして、それを」
武の主子が、眉根を顰めて華漣に問う。
正直に答えれば、華家の地位が揺らぐ。華漣はここに来て、妙に頭が冴えてくる自分に気付いていた。にっこりと微笑み、答える。
「以前、そういう女性にお会いした事があるもので。武の主子様におかれましては、鵡大家御子息の従弟であられるとの事、もしやと思ったまでですわ」
「ほう、彼女にお会いになった事がおありだと?」
「乗馬を嗜まれる姫は、そうはおりませんから」
間違いない。この男は、華漣の想定する鵡大家側室、先の乱を起こした張本人を念頭に置いて話をしている。予想が確信に変わっていく。
彼女が生きていると知っているか否かを確かめたかったが、あの女が死んだ事を嘆いて見せるべきか喜んでみせるべきか、目の前の男の立場が分かりかねて話題を避ける。
そんな事よりも。
鵡大家次男の側室と、次男の護衛武官の蓮。蓮は主の妻を必死に守り、この華家にやってきた。その一人娘、すなわち華漣が自らの兄と婚約をすると知った時、彼は一体どう考えるだろうか。
決まっている。蓮は政治に詳しく、その上、今置かれている身の上を考慮すれば当然、身を隠すべきだ。幸い、妻もとい主の妻のあの女の意識も戻り、順調に回復に向かっている。華漣の婚約の儀で城内が浮き足立っている今こそ、城を抜け出すには絶好の機会ではないか。
兄と顔を合わす心配もなく、悠々と城下町を抜けられる。広大な狩猟区に逃げ込んでしまえば、見つかる心配もない。
華漣は目を伏せた。舌打ちをしたかったが、流石に憚られる。父が光輝を華漣から引き離した事が、まさにその証拠。蓮が、父に別れの挨拶もせず黙って城を後にする筈がない。おそらくは、昨日及び更に前、既に城を出立する旨を父に伝えていたに違いない。だからこそ父は、華漣が光輝に蓮を見張るよう命令を下せないよう、引き離した。深々と華漣に向かって頭を下げた、あの時の蓮の顔が脳裏を過ぎる。あれこそが正に、別れの挨拶であったのだという、確信。
気が逸る。もしかすると、蓮は既に。
「・・・馬」
「はい?」
父と話していた男が、華漣の呟きに反応する。
「わたくし、馬に乗せて頂きたいわ」
「馬、ですか」
表情の乏しい男は、眉根を少し寄せただけで大した表情の変化も見せず、淡々と言う。
「生憎、姫をお乗せ出来るような上馬はご用意しておりませんが」
「お上手なのでしょう?わたくし、城下町を案内出来ますのよ」
父と大臣が強張った表情を凍り付かせ、目で何事かを訴えかけてくる。だが、そんな事を気にしている余裕はない。とにかく、こんな個室に閉じこめられていたのでは始まらない。部屋から、否、城から出てしまえばどうとでもなる。
「ほう、城下町を案内出来るとは素晴らしい。よく行かれるので?」
「ええ。民の状況は自らの目で確認しなくては、安心できなくて」
しゃあしゃあと言ってのける自分に呆れる。本当は、数える程しか行った事がない。蓮に会うまでは、認めて貰えなかった。
「あの姫が、そうであったように」
華漣は、意味深に言葉を繋いだ。あの姫が誰であるのかは、この男なら直ぐに察する事が出来るだろう。鵡大家次男の側室が身分も気にせず、頻繁に城下町を訪れていた事は有名な話だ。特に、それを良しとしない頭の固い父親を持つ姫君には。
男は華漣の言葉の意味を理解したのか、微かに笑って言った。
「そうでしたね。いいでしょう、馬の保証は出来ませんが、ご案内頂こう」
「主子様!」
とうとう父と大臣が悲鳴を上げたが、それを華鳥が制する。
「良いではありませんか。お二人きりの方が、会話も弾むというもの」
「しかし」
「それ以上言われますな、父君。主子様に失礼です」
これ程までに弟を頼もしく思った事はない。堂々と父親に意見できるようになった弟に、敬愛と少しばかりの嫉妬を覚えたが、今は感謝で胸がいっぱいだ。
反対する事は武中家の主子の乗馬の腕を信じていない結果になる事を悟った父と大臣は、華鳥の言葉を受け入れて、渋々言う。
「それでは、馬を用意させましょう」
父の命令で、直ぐに兵士二人が部屋から退出した。華漣は待っていたと言わんばかりに席を立ち、微笑みと共に男に向かって礼をする。
「それでは、わたくし着替えて参ります。一足お先に退出するご無礼をお許し下さい」
男はそれに小さく頷く事で応え、華漣は名も知らぬ女官を引き連れて応接間を後にした。華鳥が残っていてくれれば安心だ。父達を残していても、華漣に悪いように事が運ぶことはないだろう。今日が終われば、数え切れない礼を言おう。
華漣は部屋を退出し、扉が閉まる音と同時に走り出した。後ろから、華漣を呼びながら走ってくる女官の声が追ってくる。武中家の兵士達が驚きの表情で華漣を見ているが、そんな事はどうでもいい。これで破談になっても、知ったことではない。
階段を駆け上り、自室の扉を思い切り開く。
「光輝、蓮!!」
部屋の中を歩き回りながら二人の姿を探すも、人っ子一人いなかった。
「二人はどこに行ったの!?外出するのよ、直ぐに呼びなさい!!」
華漣は息も絶え絶えに部屋の前で見張りをしている兵士に食ってかかる。二人の表情を隠す兜を叩き落とし、胸ぐらを掴まん勢いで突っかかる。
「どこに行ったの、言いなさい!!」
視線を泳がすばかりで言葉を発そうとしない二人の兵士を見限り、廊下に立ち並ぶ他の兵士達を振り返る。誰もが視線を反らし、素知らぬふりを決め込んでいる。
華漣は階下に聞こえる可能性に配慮せず、品なくもズカズカと大きな足音を立てながら進む。怒りと焦りで呼吸が上手く出来なかった。
まだ横になっている筈の女の部屋の前に、護衛がいない。守る人間がいなくなったと言わんばかり、何とも分かりやすい連中だと鼻で笑いながらも、その事実を信じたくなくて扉を開いた。明かりの灯されていない室内中央部、天蓋が外されたベッドには誰もいない。既に綺麗に片付けられて、誰かがいた気配すらなかった。
「彼女はどこに行ったの」
誰も、応えない。
「どこに行ったの!誰か、答えなさい!!」
華漣は蓮に宛がった部屋の扉を開く。いない。誰も、いない。
部屋というものは、住んでいる人間がいないと何と静かで虚しいものなのだろうか。冷たい空気、僅かに差し込む光、ふわふわと揺れるカーテンが切ない。
胸が苦しい。城にいないという事実を認める事が出来なくて、不安で不安で仕方がない。
「誰か、・・・誰かわたくしの前に光輝と蓮を連れていらっしゃい」
答えない。自分の命令が、届かない。
華漣は振り返る。そこに立ち並ぶ、素知らぬ顔をした兵士達に滞りない怒りを覚えながら、枯れんばかりの声を張り上げて、冀う。
「誰か―――っ」
「蓮なら出て行きましたよ。姫様」
自分以外の無音の世界に届いた声は、静かに宣う。
「出て行かれました。姫様に感謝の言葉を残して」
「・・・いつ?」
「婚約者殿がお付きになられる前に」
桔医師は、薄く笑む。
「そうお泣きになるものではありませんよ、姫様」
差し出された布を受け取る事を拒み、華漣は笑う。笑ったつもりだった。
「どうしてわたくしが泣くの。そう、蓮は出て行ったのね」
華漣は冷静に言ったつもりだった。本当は全身から力が抜けて、虚脱感に苛まれていたけれど、何とか自力で自室に戻った。ベッドに腰を下ろして、ぼんやりと部屋の一角を眺める。蓮が、立っていた場所。常にそこに居て、華漣を見守ってくれていた場所。そこにはもう、誰もいない。
視界がぼやけた。それが涙だと気付くには、時間がかかったように思う。
「わたくしだけ、置いて行くのね」
声になっていた事に、華漣は気付かない。彼は、手負いの罪人は連れ出しても、側にいろと命じた華漣の事は置いて行ってしまった。本当に蓮を側に置いておきたかったのは、華漣の方なのに。蓮の願いを叶えるだけの力があるのは、自分の方なのに。
華漣のあまりの迫力に怯えたのか、小さくなった女官がおずおずと部屋に入ってくる。乗馬の着替えを手伝いに来たのだろう彼女達を見て、城を出る機会がある事を思い出した。
まだ、終わりじゃない。
まだ蓮と再び相見える機会は残されている。婚約者を脅してでも、城下町中を探せばきっと見付けられる。そもそも、身分証も持たない彼らがそう簡単に城下町を抜け出せる筈がないのだ。行き先は間違いなく狩猟区、それならば蓮の辿る経路の予想は付く。
華漣は立ち上がった。おろおろと慣れない手付きの女官に苛立ちを覚えつつも、華漣は嘗て無いほど思考を巡らせる。
身分証を持たない蓮が、堂々と門を通り抜けようとするはずがない。彼の腕なら門兵を薙ぎ倒して強行突破も出来ようが、彼は頭の良い男だ。命よりも大切な怪我人を連れて、危険な手段をとるなど有り得ない。当然、門以外の場所から狩猟区に抜けようとするだろう。ただ、華家も阿呆ではない。
狩猟区と華家領土の間には高塀が聳え立ち、何人の侵入、脱走も拒む。塀の前には民家を建てず、広い観光用の空き地として解放し、見通しの良い平地が広がっているのみ。これも、侵入者や脱走者をいち早く発見するための策だ。塀を上ろうとしている者がいれば直ぐに目に付くし、逆に侵入してくる者も見付けやすい。どうにか狩猟区に行ってみたいと願い、逃走路を模索し続けてきた華漣だからこそ、 自信を持って言える。この華家から逃げるのは容易いことではない。
蓮一人ではない。それが何よりの救いだ。彼一人ならば、壁を上っているところを見られようとも、捕まる前に狩猟区の連立する木々に紛れて姿を隠してしまう事も出来ようが、彼には手負いの女の連れがいる。彼女に無茶をさせるような行動は慎むだろう事から、逃走路はたった一カ所に絞られる。華漣ですら逃走に成功した、獣売屋のために開門される、あの扉。
脱走者のないよう、門兵が常に見張っているのだが、そもそも父に暇を請うて出て行く蓮には、通行許可が父から下りている可能性がある。
初めて華漣が彼を見付けたあの場所に、おそらくは。
「武中家の主子様のご準備、整われました」
女官の声に、華漣は立ち上がる。逸る気持ちを抑え、父の機嫌を損ねないようにと出来うる限り姫らしく、ゆっくりと歩く。階段を下りたところで待っていた男の顔に、心を乱される。双子というものは本当によく似ている。痩せて、穏やかにさえ笑うことが出来たなら、彼はきっと蓮と瓜二つになる。
手を、重ねた。ごつごつして大きな、男の手だった。蓮の手はもっと、包み込むような優しさがあった。意外に骨張って大きな手だと驚いたものだったが、男の手は更に一回り大きくて肉厚く、華漣の手が爪の欠片も見えない。不思議な事に、蓮と同じ顔をした男に手を取られても、心臓の鼓動が早くなる事はなかった。
門前に用意された馬は、真っ黒な鬣を靡かせた立派な雄馬だった。二人乗り用の鞍が掛けられ、男の手を借りて跨る。がっちりとした馬の筋肉が、足の速さを期待させた。
「それでは、行って参ります」
華漣の後ろに跨った男の声が、背中から直接聞こえてくる。綱を引く太い手だけがどこに目を向けても視界に入り、目のやり場に困った。
「華漣、しっかりご案内するのだぞ」
父と大臣が、心底不安だと言わんばかりにら眉根を寄せた顔で華漣を見ている。父が心配しているのは華漣の身の安全ではなく、華漣が粗相を働かないかという一点に尽きるのだろうが。強ち間違ってもいない父の勘に、華漣は薄くほくそ笑んだ。これから、婚約を破談にする以上に大きな罪になる可能性もある、粗相を働く。夫になるべく人間に、男を追わせるのだ。主子でなくても怒り心頭だろう。
男が馬の腹を蹴った。普通なら数人の共が付いてくるはずなのだが、誰一人として華漣達の後を追ってくる様子はなかった。男の胸に背を預けたまま振り返ると、華鳥が薄く微笑んで手を振っていた。彼が采配してくれたに違いない。蓮に懐いていた彼も、さぞ後を追いたいことだろう。最愛の弟の為にも、華漣はなんとしても蓮を取り戻さなければならない。
「それで、どちらに案内して下さるのです?」
背後から、声。馬を軽やかに操る男は、町中である事も相成って気を遣っているのか、あまりスピードを出さずにメイン通りを下る。馬を見て頭を下げる民間人の好奇の目が恥ずかしい。一刻も早くそれから逃れる為にも、スピードは上げてもらわなければならない。
「華家の守り神のところへ」
「ほう。それは何です?」
「木です。領土の外れにありますの」
遠い事をアピールしてみる。男は、少しスピードを上げた。
「木には不思議な力が宿る。古き木の数多生息する狩猟区が神聖だと言われる所以の一つですな。木を奉っているとは、素晴らしい」
華漣は視線を上げてみた。息遣いが聞こえてしまいそうな距離に、男の顔がある。
「言う事まで、似ているんですね」
「は?ああ、例の男ですか」
華漣は小さく頷く事で応じる。蓮は、もっと優しい声で、耳に優しい、流れるような言葉を紡いで華漣に知識を与えてくれた。蓮と同じような事を、同じ声で言われると彼への愛慕が益々増してくる。蓮と同じ顔の、同じ声の男。言っている事まで似ているのに、何故だろう、魅力を感じない。むしろ、中途半端に似ているだけに悪寒が走る。
「ええ。蓮と言うのです。顔も声も、主子様にそっくりな男ですわ」
「そこまで言われると、見てみたいものですな」
男が、小さく笑った。まだ、名前も知らない男の言葉に、華漣は苦笑する。
「きっと、会えますわ」
「はい?」
男は不思議そうに言ったが、風の音に聞こえなかった振りをした。彼は、存在さえも知らなかった双子の弟を目にしたら、何を思うだろうか。密かに憧れていた、死んでしまったと思い込んでいる女性と再会できたなら、何と思うのだろう。その女性が、弟の妻と名乗っている事を知れば、彼は―――。
華漣は頭を振る。他人の事など知らない。ただ、華漣の元に蓮が帰ってくればいいだけのこと。双子の弟に殺意を抱いたその時は、この男を殺してでも手に入れる。気に入らないものは全て目の前から消してきた。いらないものは捨て、欲しい物は何でも手に入れてきた。人間だって一緒。気に入らないお付き女官は余所に回して、結局残ったのは光輝だけ。あと、欲しいものはただ一つ。中家の主子だろうと、華漣の邪魔をする者は、決して許さない。




