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19-3

 次の日も朝から雨だった。

 着替えている華漣の部屋の前に立ち、蓮はぼんやりと見慣れた六階の廊下を眺めていた。代わり映えしない城内も、一人娘の婚約式ともなれば流石に変化がある。花が飾られ、絨毯も新調されている。何人の女官が汗を流したのか壁はぴかぴか、兵士はいつにも増して背筋を正した緊張の面持ちで立っていた。自分が一番だらけた顔をしている事だろうと思う。

 部屋の中からは話し声と女官達が忙しなく走り回る足音が聞こえる。それ以外の物音は全く聞こえてこない筈なのに、浮き足立つ兵士や官吏が落ち着かないせいもあって何やら騒がしい気がする。

 武中家長男主子の到着時間ぎりぎりになって、漸く華漣が姿を見せた。言葉を交わす暇もなく、二言三言話してあっさりと華漣を見送った。湿っぽくなってはならない。式が終わって戻ってきたら自分が部屋で待っていると、華漣にはそう思わせておかなければならないのだ。蓮は気を配っていつも通りの態度を装い、彼女の姿が見えなくなるともう一度深々と礼をした。彼女にも、本当に感謝をしている。

「淋しい事だの。姫様がお泣きになるやも知れんな」

 顔を上げると、階下から桔医師が蓮を見上げていた。階段を数段下り、慌てて足を止める。

「高いところから失礼します。桔様にも、大変お世話になりました」

「気にせんでいい。仕事だからな。君は医学の見所もあったのに、惜しいな」

「光栄です」

「奥方を大事になされよ」

 そう言い残して視界から消えていく桔医師に向かって、蓮は再び頭を下げた。いざ離れる瞬間が来ると流石に物寂しく感じるが、ぐずぐずもしていられない。今のうちに裏門から城を出なければならない。蓮は踵を返し、メアリの部屋をノックする。返事よりも先にメアリ自らが顔を出した。持ち物など一切無い、身一つだ。蓮はマント姿のメアリに肩を貸し、階段を下り始めた。どの程度回復しているかと思ったが、殆ど右足だけで立っているような状態で、想像以上に痛みが残っているようだった。蓮はメアリの前にしゃがみ込み、背を向けた。早く城内を抜けなければならない現状では、背負って行く方が早かろう。この際、相手がメアリ姫だなどと言ってはいられない。

 何も言わずともメアリは蓮の行動の意味を察知し、体を預けてきた。背が温かくなる。

「ふふ、蓮はこういうときは簡単に私に触れてくれるのね。面倒くさくなくて助かるわ」

 姫君の、主人の奥方の体に触れる事には少し抵抗があるものの、躊躇っても仕方ないと割り切る事も必要だ。人目を気にする必要もなければ、体裁に捕らわれる事もない身であるし、なにより華家に到着するまでの間に、数えきれない程その体に触れてきた。姫君には口が裂けても言えないが、今更である。

「貴女の夫になったのですから。多少の我が儘は言わせて頂くことにします」

 背から姫の忍び笑いが聞こえてくる。鳥が囀っているような愛らしい声だ。

「我が儘を言って頂戴。本当に、気が休まるの」

「ライ様と同じように、接する事にします」

「この城に来て良かったわ」

 蓮は予め教わっていた裏門への抜け道を進みながら、メアリの話を聞いている。

「何故です?」

「貴方というヒトを、ほんの少しは知れたような気がするから」

 あれは華漣の為だけに作った人格だ。彼女の護衛武官である為に、機嫌を損ねない為だけに作り上げた偽りの自分。だが、メアリと同様に華漣も堅苦しい言葉を避けて欲しいと願い出た。そうして作り上げた人格は、不思議にも今の自分の一部となって確かに存在する。

「そうかも知れませんね」

 メアリは小さく頷きながら、その頬を蓮の背に埋めた。

「・・・あの時と同じだわ」

「あの時?」

「蓮が私を連れて狩猟区を逃げていてくれた時。あの時も背中が温かくて、心臓の音が心地良かったの。お陰で眠くて堪らなかったけれど。目を開ける事が億劫だったけれど、ずっと貴方の体温を感じていたような気がするわ」

 柔らかい髪のベッドに顔を埋め、定期的な振動に心地よさを感じながらメアリはただ眠っていれば良かった。きっと思っている以上に大変な思いをして懸命にメアリを助け、結果こうして命を救ってくれた。そして今またこうして彼に背負われていると、ずっとこうして彼の熱を感じていたいと思ってしまう。この年になって初めて、赤ん坊の気持ちを理解した。

「眠ってもいいですよ」

 メアリは蓮の肩に顔を預け、首に手を回して彼の胸元で手を組んだ。言い表せない安心感がある。

「起きているわ。この城下町は美しいのでしょう?私もそれを見たいから」

「式が始まってしまえば今日一日は絶対に姫には知られませんから、どこかで休息を取るのもいいですね」

 蓮は一階に辿り着く。裏門を守る兵士には話を通してある。無言で開かれた門を出ると、直ぐにそれは閉められた。もう、城内に戻ることは出来ない。

 蓮は城を仰ぎ見る。そこに暮らす人々の顔を思い浮かべると、自然と頭が下がった。誰に対してでもなく、蓮は深々と頭を下げて踵を返した。メアリを背負い直し、振り返る事なく狩猟区目指して歩き出す。あまり走ってメアリの赤ん坊に害となっては困る。城さえ出てしまえば時間は十二分にあるのだ、急ぐ必要など無い。

 黙ってしまったメアリに話しかけるでもなく、蓮は城下町の中央通りを下る。路肩に並ぶ店や風景の一つ一つに華漣との思い出が過ぎった。安い髪飾りのプレゼントを嬉しそうに受け取った華漣の笑顔を思い出すと、自然と微笑が漏れる。我が儘姫には慣れているので、さほど付き合いにくい姫でもなかった。過ぎ去ってしまえば良い思い出ばかりが浮かぶ。

「武のご長男が、あの城にいるのね」

 不意にメアリからの言葉がある。振り返ってみると、門前には大層な馬車の群れと兵士が所狭しと立ち並び、主が城から出てくるのを待っている。城内では、既に互いに顔を突き合わせた面々が応接間にて談笑をしている頃であろうか。

「・・・姫はさぞびっくりしたでしょうね」

 蓮は笑う。武の長男を見たときの面々の呆気に取られた表情が、ありありと想像できる。

「さ、行きましょう」

 メアリが元気よく前方を指さす。再び歩み始めた蓮の心の蟠りを吹き飛ばすように、風が強く吹いて髪を巻き上げた。

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