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翌日は朝から大忙しだった。華漣の婚約式とは言え、当然父である家主も、次期当主である華鳥も、挨拶の為の準備に忙しい。官吏達の手によって十分すぎる程の準備がなされてきた筈なのに、今になって慌てているように見えるのは彼らが浮き足立っているからに相違ない。華漣はと言えば朝も早くから昨日のドレスに身を包み、光輝を始め見たこともない女官までが集って身の回りの世話をする。髪を結うのに五人も人はいらないと不満に思いつつも、寝不足の疲れから余計な小言は避ける。光輝は華漣の目の下の隈を見て怒り狂った。いつもよりも濃い化粧を施され、華漣などは原型がなくなっているとさえ思った。少し微笑んだ程度では表情も分かり難い。
髪を結われている間、華漣は扉に視線を送っていた。扉の向こうに控えている筈の蓮を心の目で見る。退屈そうに、それでも真顔で立っている彼の姿が想像できて可笑しかった。
「いい方だと良いですね、姫様」
光輝が何を想像してか少し頬を染めて言う。結婚すればこの光輝だけは華漣に付いて武中家に従事する事になるだろうから、さぞ気になるであろう。
思えばこの光輝も可哀相ではある。住み慣れたこの華家を離れ、心細くも武中家に単身乗り込むことになるのだ。華漣は夫となる存在と確固たる地位を約束されているから良いようなものの、光輝は完全に一人だ。そう考えれば華漣よりも不幸である。それもこれも蓮が護衛武官として従事出来れば良いのだが、それが叶いそうもない以上、お付き女官として光輝が付く事は必至だ。仮に蓮が付いてきたとしても、光輝とは離れる事になる。それも辛い。誰よりも華漣を理解する、最高のパートナーであり、なくてはならない心の憩いである。どちらかを取れと言われても選ぶことは出来ないし、こればかりは考えても仕方がない。なるようになれ、である。
「そうねぇ・・・それより、蓮を呼んで頂戴」
光輝は溜息混じりに他の女官を下がらせ、華漣の前に膝を付いた。華漣を見上げる格好で、真剣な表情で言う。
「姫様。もう蓮の事はお忘れになって下さい」
「どうして?」
「姫様の蓮へのお気持ちは分かっているつもりです。ですが、姫様は本日ご婚約なさるのです。他の男性にそのような気持ちを持たれては、辛くなるのは姫様です」
華漣は苦笑した。真剣な顔で何を言い出すかと思えば。
「貴女の言っている事の方が良く分からないわよ、光輝」
「では申し上げましょう。初めて蓮を見た時から、姫様はご様子がおかしかった。お気づきですか、貴女様は二言目には蓮の名を口になさる。序々に蓮に惹かれていかれているのも分かっていました。ですが、鬱ぎ込まれていた姫様がお元気になられるならと見て見ぬふりをして参りましたが、これ以上はなりません。姫様は人妻になられるのです」
「おかしな事を言うわね。わたくしが蓮に惹かれていると?」
「その通りです。ご自覚がおありではない?」
華漣は口を閉ざした。ここまで真剣な瞳で表情一つ崩さずに言葉を紡ぐ光輝には正直覚えがない。小言は一日に数え切れないほど言うが、それでもこんなに真摯に華漣に忠告をする彼女の姿は知らない。
「そりゃ・・・側にいてくれると楽しいわ。出来れば手放したくはない。でも、わたくしが蓮を呼ぶのは、彼がいると楽しいからであって惹かれているという訳では」
「そういう気持ちを好きだと言うのですよ、姫様」
頭がその言葉を理解するまでに多分の時間を要した。光輝を見ていれば分かる。軽い意味で言っているのではない。
「冗談は止しなさい。何故わたくしが」
「そのお言葉に偽りはございませんか」
「ある筈もない。相応の地位もなければお金も城も持っていない、その上妻もいるわ」
「武中家の主子様もいらっしゃる」
「城を持っているわ!!二人目の女になるにしても、条件が違うでしょう!?」
口調が強くなった。声が上擦っていて、威厳もなにもあったものではない。ただ、躍起になって否定する自分を客観的に見て笑う自分が確かに存在した。何故こんなに興奮しているのだろう。
光輝は華漣の言葉を受け、目を伏せた。
「その御言葉、お忘れなきよう」
光輝の冷静な助言が辛辣な刃となって胸に突き刺さった。
自分が、蓮を好き。
考えたこともない言葉だった。いつでも側にいて欲しい存在。いつまでも側で笑っていて欲しい存在。それが好きだという事だなんて、誰も教えてくれなかった。好きになる人間は夫となる人間。それはイコールであり同義、それ以外に好きといえる人間などいる筈もない。
だが、同時に光輝の言葉は正しいと囁く声もあった。
蓮の妻に対する自分の嫉妬、それは即ち、蓮の妻が自分でありたいという願望。夫になって欲しいという願い、好きになる人間は夫となる人間。
「姫様、もうすぐお時間です」
いつの間にか、かなりの時間が経過していた。鏡に映った自分ではない自分の姿。華やかに着飾られた自分が滑稽で、まるで人形のよう。黄色のドレスに黄色の髪飾り、金と黄と緑を貴重としたきめ細かい彫刻のなされた首飾り。顔がよく見えるようにと前髪を上げ、おでこを出した姿は少し幼い。
到着する旦那を迎える為に、華漣は部屋を出る。ドレスの裾を踏まないようにゆっくりと歩く姿は、ちゃんとどこぞの姫に見えている事だろう。
部屋を出た所で控える男がいた。見慣れた護衛武官の制服に身を包む彼を、足下から順に上に向かって視線を上げていく。蓮と、目が合った。
「今日は一段とお綺麗ですね、姫様」
「・・・ありがと」
「行ってらっしゃいませ。ダンスが上手くいきますよう、祈っております」
蓮は深々と頭を下げた。今まで華漣の命令である礼禁止をしっかり守っていたというのに、今日は違う。下げた頭を中々上げない蓮が、別れの挨拶をしているような気がして背筋が寒くなった。
「礼はするなと言ったでしょう」
「そうでしたね」
蓮は悪びれもなく、いつも通りの笑顔で言った。その言葉と笑顔に安堵しつつ、華漣は小さく笑んだ。
「上手く踊ってみせるわよ。絶賛される程の踊りを踊れたら、蓮はわたくしに何をしてくれるのかしら?」
「お望みとあらば、なんなりと」
「言ったわね」
蓮は自分の言う事には決して逆らわない。褒美を貰わなくとも蓮には何だって命令できる立場に華漣はある。だが、玩具の一つでつられる子供のように、頑張ってやろうという気にさせられたのもまた事実だった。
「考えておくわ」
華漣は蓮に背を向けた。自分がいなくなるまで見送ってくれているだろう蓮の視線を背に感じながら、華漣は彼を六階に残したまま階段を下る。門前で、夫になる男を迎える為に。
蓮がいると楽しい。側にいて欲しい。でも、彼を好きだなんて認めない。気付かないふりをしている自分が一番よく分かっている。彼に好きだと言ってしまえば、華漣は自分の立場を落とすことになる。好きになって貰おうなんて無謀な挑戦、弱みを握られるなんて真っ平ご免。華漣は常に蓮を見下し、命令し、言うことを聞かせる立場にいなければならない。その為には、蓮を好きだと思う気持ちなどいらない。
命令できれば、蓮をいつまででも繋ぎ止めておく事が出来る。側に置いておく事が出来る。手に入れた玩具は逃がさない。そんな事は許さない。
華漣は顔を上げる。正装し、緊張した面持ちで門前に立っている華鳥の斜め後方で足を止める。身を固くしている官達の浮つきを尻目に、華漣だけは冷静に門が開くのを見ていた。
光の中に現れた人影に、蓮という護衛武官を認めさせるために。




