18
華漣ははっとする。この一週間、平和すぎて忘れていたが、蓮は彼の妻の怪我が癒えるまでの仮の護衛武官である。妻の怪我がそうそう癒える事がないとはいえ、蓮を武中家に連れて行く事が出来なければ彼との別れは随分早くなる。
通常婚約をしてしまえば一ヶ月以内に夫の家に嫁ぐものであるからだ。おそらく、華漣とて例外ではない。護衛武官を連れて嫁ぐ事は可能だが、妻が男の護衛武官を連れて嫁ぐなどという話は聞かない。万一先方が認知してくれたとしても、蓮は受諾しないだろう。養生している妻の側を離れる筈もなければ、彼女に長い武中家への旅路を強いる訳にもいかない。蓮はこの城に残る。
華漣は振り返る。今は振り返れば側に控えて微笑みをくれる蓮が、いなくなる。何十年も側に仕えてくれた光輝と同じように、いなくなる事が考えられない存在。いつの間に、華漣の中で蓮の存在がこれ程までに大きくなってしまったのだろう。
最初はただの暇潰しだった。怪我人を放置する事も憚られたが、華漣の知らない外の世界を知る人間に興味を持った、それが切っ掛け。得体の知れない彼の出生に興味が沸き、調べ、推察するうちに蓮自身に興味を持つようになっていた。いつも側にいて華漣を見守り、知らない事を教え諭し、笑顔をくれる存在はあまりに心地良く、優しいものだった。決して逆らわないながらも、ちょっとした冗談で華漣をからかう。城の堅苦しい兵士達とは違う新鮮な対応、 引き際を心得て華漣を不快にさせないセンス、その全てが蓮に興味を持つには十分すぎた。だが、華漣はこの気持ちを何と呼ぶかを知らない。側にいて欲しくて、離れて欲しくないのに、それを素直に口にする事は出来ない。自分の弱みを見せてしまうような気がして憚られる。
言葉が出ない。蓮と話したいのに、話題が見つからない。何を言っても彼との別れを想起してしまいそうで、蓮の顔を見る事にすら恐怖を感じた。今すぐいなくなってしまう訳でもないのに、我ながら馬鹿らしい。
「蓮は、明日の婚約式の時も側に控えていてくれるのでしょう?」
蓮は優しく微笑んだだけで何も言わなかった。それが不安を誘う。
「聞かれたらちゃんと返事をなさい。いてくれるのでしょう?結婚までは、またどこかに連れて行ってくれるのよね?」
「姫様、それはなりません。婚約をしたら、結婚をしていないとは言え武中家主子の妻となられることになるのです。外出は、旦那様の許可がなければなさってはなりません。それに、婚約の場には私が控えます。蓮のような護衛武官を付けている事が分かれば、先方とて良い気はしないでしょう?」
言いたい事は分かる。蓮は顔立ち含め容姿が整っている。常に側に控える護衛武官が蓮のような者だと知れれば、男は皆良い気はしないだろう。
「そんな肝の小さな男とは結婚しないわ」
「姫様!冗談でもそのような事を仰ってはいけません!!」
胃が痛い。いなくなってしまうかも知れないという可能性を前に片時たりとも離れていたくはないというのに、これでは明日は一日中蓮と会う事は叶うまい。人妻になることは制限されること。だからこそ、暇を潰すだけの経済力ある夫が欲しかった。華漣の我が儘を聞いてくれる夫が欲しかった。条件さえ揃っていれば、妥協しようと思っていた。親の決めた事には結局、逆らえないのだから。
これ程までに結婚を嫌だと感じたことはない。
「・・・ねえ、蓮。ダンスの練習に付き合って下さらない?踊れるのでしょう?」
「姫様っ!!婚約前に・・・」
「異性と手を繋ぐなんて、でしょう?でもこのドレス動きにくくて敵わないわ。何事も練習しなければ上手く出来ない。明日恥をかいたら貴女のせいよ、光輝」
光輝は口籠もる。ダンスの先生だって男だったというのに、蓮は駄目だという理由が華漣には分からない。引き下がった光輝を見て、蓮が手を差し出した。向かい合い、息が止まりそうなほど近い距離。繋いだ手が熱くて、熱が頬まで伝染してくる。高鳴る心臓の音はきっと蓮にも聞こえている。上目遣いに蓮を見上げると、優しい瞳で自分を見下ろす蓮と視線が絡み合った。
「緊張なさってます?」
「ば、・・・そんな訳ないでしょう!?蓮こそ上手く踊れるのでしょうね?」
「それなりには」
にっこりと笑む蓮の表情は明るく、少年のよう。
「あ、あまりわたくしを見ないで下さる?」
「はあ・・・でもそっぽを向いてダンスは出来ませんが?」
「胸元が開いているんですもの、恥ずかしいじゃない」
蓮は吹き出すように笑った。声を殺す努力は認めるが、堪えきれていない。
「・・・な、なんです?」
「姫様、失礼ながら気になるようでしたらドレスを代えた方が良いのでは?どうやっても姫様を見ると視界に入ってしまいますから」
今度こそ華漣は真っ赤になった。
「見たわね、蓮!?」
「このくらい胸元の開いたドレスは今や一般的ですよ、姫様。お気になさるからいけないのです。未来の旦那様へのサービスだと思って我慢なさっては?」
「蓮!!」
鏡を見なくても、絵の具を塗りたくったように真っ赤な顔をしているに違いない。蓮の手を放して胸元を隠す華漣に、蓮が可笑しそうに言う。
「そんな事では明日恥をかいてしまいますよ?胸元を見られたくなければ、一つ良い事をお教えしましょうか」
華漣は無言で蓮を睨め付け、彼の言葉の続きを待つことで無言のうちに肯定を示した。
「踊るお相手の方の目を見て、視線を反らさないことです。見つめ合っているうちは、胸元には目がいかないでしょう?」
再び手を差し出した蓮の手を迷った末にとり、彼の瞳で目を留めた。じっと視線を絡ませているのは、思った以上に照れくさく、結局反らしてしまう。
「とにかく踊ってみましょうか、姫様。ダンスを楽しめば気になりませんよ」
最終的には打つ術なしとの判断を蓮によって下され、華漣はささやかな抵抗の意を込めて一歩蓮に近づいた。蓮の肩に頬が付きそうなほどの距離、恥ずかしいがこれならば視線を合わせる事も胸元を見られる事もない。
「姫様、」
「言いたいことは分かっているわ。始まるまではいいでしょ、このままで」
踊り始めてしまえばステップに気がいって気にならなくなるだろう。それまで恥を凌げればそれでいいのだ。そんな華漣の気持ちを蓮は察してくれたようだった。
音楽は流れないけれど、拍子をとって踊り出す。蓮の口ずさむメロディーが美しく綺麗で、直ぐに彼とのダンスに熱中した。軽い足取りで部屋全体を使って体を動かす事はこの上なく楽しかった。次第に蓮の呼吸を肌で感じるようになっていく。ぴったりと呼吸を合わせてのびのびと、それでいて華麗に踊る。弧を描き、時には髪を宙で遊ばせながら回るように踊る。夢の世界にいるようだった。息が弾むのと同時に踊る心臓の音が心地良く、自然と表情が綻んでくるのを止められない。
優雅とは言い難かったかも知れない。自分達の好きなように、華麗な音楽も流れない狭い部屋で踊る姿は、滑稽だったかも知れない。型に捕らわれず、優雅とはほど遠い激しい動きで汗を流す姿を父が見たら怒鳴るだろう。だが、こんなにもダンスを続けたいと思ったことはない。華漣がどんな動きをしようとも上手くエスコートをしてくれる蓮は本当にダンスの嗜みにも優れ、適当に踊っていたというのに終わってみれば珍しく光輝が拍手をくれた。
「これでは、きっと恥をかきますね」
蓮は可笑しそうに、少し息を弾ませながら言った。やはり音楽を鳴らすための道具を持ってくると言って退出していった光輝を尻目に、華漣は汗を拭いながら言う。
「蓮、その歌は草笛で吹いていた曲ね?本当に気に入ったわ、教えて頂戴」
「はい」
メロディーを口ずさむ蓮の姿が綺麗で、耳から入ってくる音が可憐で、華漣は目を閉じたまま美しい旋律に聞き入った。歌い終わった蓮に、人差し指を立てて見せる。
「もう一回」
仕方なく歌い出す蓮に、光輝を待たせて更に三回も歌わせた。練習しなくとも何度か聞いただけでその全てが頭の中で回り出す。歌詞がないのが残念だが、この優しく美しい旋律に自分で勝手に歌詞を付けてみても面白い。
その後踊ったダンスや教わって始めたカードゲームがあまりにも楽しくて、貴重な一日を全てそれに費やした。蓮がいなくなってしまうかも知れないなどと、全く頭を過ぎらない。楽しくて楽しくて、今を笑うのに精一杯ですっかり失念していたとも言える。元来単純な性格だ。
だが、何事にも終わりはやってくる。
笑い声の絶えなかった部屋に自分一人が残されると、灯が消えてしまったように静かになった。静寂が暗い闇に沈み、同時に気分まで滅入ってくる。一人になると考えたくない事ばかり考えてしまう。明日婚約者に会う事を憂鬱に感じながら、良い事を考えようと努める。
明日うまく踊れたなら蓮に自慢しよう。光輝を証人にするといい。明日起こる全てを覚えておいて、その全てを蓮に報告しよう。彼の反応を想像するだけで、気分が晴れた。
まだ見ぬ夫への不安よりも、それをネタに蓮と話す明後日の事を想起するだけで、顔がにやけて華漣は中々眠れなかった。蓮の言葉を反芻し、顔を布団に埋める。
(早く明後日が来ないかしら)
華漣は一人幸せな夢に浸る。
これが、最後の夢となった。




