16-3
蓮は想起する。二人が出会った日の事を、こうして目を閉じると昨日のことのように瞼の裏に浮かべる事が出来る。何事にも興味を示さず、興味を持つ事を諦めていた主が、心を開いた瞬間を、覚えている。あの日確かにライの人生も変わったが、同時にこのメアリの人生も変わった。大家という恵まれた環境の中で二人の兄に愛されて育った可憐な姫君が、反乱に巻き込まれて命を失いかける程の恐怖を味わったのだ。
彼女は、ライに出会った事すら後悔してしまうだろうか。その大きな手で主を包み、優しく抱きしめてくれた彼女だからこそ、主の事を忘れてもらいたくはない。こんな事になっても主を愛し、慈しんで貰いたいと思うのは、彼女にとっては重荷にしか成り得ないだろう。壊れてしまっ た大家を背負わせるには若い、しかも何と言っても女性だ。危険な鵡大家に戻って欲しいとは、口が裂けても言えない。彼女が生きていると知れば、鵡家主は再び彼女を殺そうとするだろう。
「心の傷は、いつかきっと時間が癒してくれる。その時ライの隣にいるべきなのは私ではなく、家主様に認められた正室の方だと思わない?」
蓮は答える事が出来ない。メアリが処刑される時、無我夢中で彼女を助けた。だが、彼女の命を救ったとしても、ライに会わせる事が出来なければ意味がない。ライの為にメアリを助けても、二人が再び会う事は叶わないのだ。
「ライ様がお慕いしておられた方は私の知る限り六人しかおられません。冰家の家主様、奥方様、メアリ姫とお二人のお兄様方、そして実のお兄様です。ですがメアリ様は元より、貴女様を死なせてしまったとあっては、ライ様の性格から考えて冰家の方々とお目通りは叶わないでしょう。そしてお兄様はお亡くなりになった。もう、ライ様のお側には誰もいないのです」
「ライのお兄様、お亡くなりになったの?」
蓮は頷く。メアリは理由こそ聞かなかったが、その訳を薄々感じているに違いない。
「腹心の部下である蓮までいなくなったのでは、ライは」
誰もいない。メアリ姫に出会って変わった主だが、何もかもを失ってしまった彼は殻を自身の力で破る事は出来ないだろう。自分の殻に閉じこもり、取り戻した筈の笑顔も忘れ、生きる価値を見いだせない地獄を永遠に生きる事になる。愛する妻を守れなかった自責の念から、自らの死を望む可能性すらある。彼はメアリなくしては生きられないほど、彼女がいなければ儚く脆い。
「今、私の中には二つの案があるの」
蓮は顔を上げる。メアリ姫は両足を立てて揃え、膝の上に乗せた両手に顔を埋める。目だけが、蓮を見ていた。
「一つは、烽火を上げること」
闘志と共に煌めく、悪戯を思いついた時の子供の瞳。結局、蓮はメアリのこの瞳の色が一番好きだ。この眼には、敵わない。
「私は冰大家の長女メアリ。生憎、泣き寝入りは趣味じゃないから、私は生きているぞって世間に知らしめてやるの。格好良いと思わない?」
「いいですね」
蓮は我知らず微笑んでいた。多くの命を犠牲にしてしまったと嘆き涙に暮れていたメアリに戻った、この強い瞳。力強く周りを巻き込んで光へと導く逞しくも細い腕が、新たな夢を掴むために拳を振り上げてくれる日が再び来ると願っていた。
「それでこそ鵡大家の、メアリ姫です」
「その名を捨てるのも惜しいし、私は欲深いから、自分のものは何一つ捨てるつもりはないの。だから、ライの耳に届くくらい大きな烽火を上げて、彼に生きる気力を与えられるなら、って思ったの。それが一つ目の案」
一時は完全に失われていた姫の闘志が、体全体を包んでいく。彼女は墜ちるところまで墜ち、枯れる程の涙を流して後悔し、その全てを昇華して再び立ち上がった。勇ましく自らの足で立ち上がる勝手気ままな姫君に、いつの間にか惹かれていた事を思い出した。やはりこの姫君には、大人しくお茶を飲んでいるよりも満面の笑顔を振りまきながら大地を自由に駆ける方が似合う。
「ふふ、そんな乗り気な顔をしないで頂戴。二つ目の案もあるのよ?」
「一つ目の案が良過ぎて、あまり聞きたいとは思いませんね」
姫は愛らしく笑う。
「まあ、そう言わないで聞いて頂戴。二つ目の案は、やはり名を捨てて生きる案よ」
蓮は消沈する。どう考えても、一つ目の案の方が姫らしい。
「どうしてそんな事を、と貴方は不満でしょうね。でも、私の中では、今のところこちらの方が有力」
「・・・何故です?」
メアリ姫の笑顔が、先程とは打って変わって儚い。今にも消えてしまいそうな不安に駆られる。そう言えば、主が良くこう漏らしていた。
メアリは手に入れた瞬間に指の隙間から零れて消えてしまう、水のようだと。
あの時は分からなかったが、今、唐突にその意味を理解した。
「さっきも言ったでしょう?心の傷は、時間が必ず癒してくれる。今はどれだけ辛くても、ライに時間が与えられる限り、彼はいつか私を過去の人間にする事が出来る。今の奥様が、ライの傷を懸命に癒して下さるでしょう。自然に愛着が沸いて、いずれ主子も生まれるでしょう。そうしてささやかな幸せを掴んでいくライの邪魔を、私はしたくはないの」
「考えすぎです、姫様。直ぐに烽火を上げれば、」
メアリは頭を振ることで蓮の言葉を遮った。
「もう賽は投げられてしまった。奥様は、もう迎えられてしまったの。奥様はきっと、ライの心を得ようと必死になる」
「何故です」
「知らない男の所に嫁いだ女が頼るべきものは、夫しかいないからよ」
蓮は口ごもる。
「過去の女を必死で忘れようとしている時に、甲斐甲斐しく世話をしてくれる女。愛さなくても、ライはきっと心を許していく。私よりもいいに決まっているわ。お義父様のお気に召す奥様なんですもの、何の心配もない。やがて子供が生まれて、育て、時代は流れて国は再建されていく。お義父様に嫌われている私が現れて一悶着起こすよりも、穏やかで優しい時間が保証されるとは思わなくて?」
蓮は目を伏せた。時間は残酷なもの。メアリ姫を愛したライしか知らない蓮の預かり知らぬところで、彼は他の誰かを愛していく。時間には、そうさせるだけの力がある。
「時は移ろい、人の感情もまた、移ろい逝くもの。何故泣くの、蓮」
「泣いていません」
メアリ姫が優しく、目元を掬った。濡れた瞳に、視界がぼやけた。
「私は不幸だとは思っていないのよ、蓮。ライに愛して貰ったこと、不幸だなんて思ったことないもの。それとも貴方は、私の未来を案じてくれているのかしら?」
「一人忘れられた存在となって、身を引いて、貴女の幸せはどうなるのです。この世に人は五万といて、もしかするとライ様とて他の女性を愛するかもしれない。でも今、あの方は命を賭けて貴女様を愛しておられるから、私は貴女様を守ったのです。その姫が、不幸になどと・・・」
ライは、何よりもメアリ姫の幸福を願っていたはずなのに。
メアリ姫が床に座り込み、蓮を見上げた。反射的に立ち上がろうとした蓮を制し、姫は優しく両の手で蓮の手を包み込む。あまりにも穏やかで、優しい笑顔だった。
「私は、私の未来が不幸だなどと思った事はないわ」
メアリ姫が瞼を上げると、宝石のような瞳に自分の顔が映った。
「貴方がいるんですもの」
大きく瞳を見開いた蓮を、不意に姫が抱きしめた。振り払って良いものか考えている間に強く強く抱き竦められて、身を預けてしまうと、何も考えなくても良いのだという安心感があった。
「私は幸せ者だわ、蓮。多くの人に命を守られて、こうして生きている事が出来るんですもの。貴方と私はライで繋がっている。貴方はライの一番の理解者、私はライの元妻。だから、一緒に考えて生きていきましょう?どうしたらライが幸せになれるのか」
「・・・いいですね」
「そうでしょう?影からライを支えていくの。格好良い響きじゃなくて?歴史は私の行動を、善とするかしら?悪とするかしら?」
メアリ姫が少し身体を引くと、その表情が良く見えるようになった。城に居た時と同じ女性のはずなのに、何と身近に感じられる事だろう。
「歴史は大きな流れです。その中の小さな一つが、歴史全体にどのような影響を与えるのか、私には分かりません。でも、一つだけ確かなことがある」
無言で、メアリが言葉の続きを待つ。
「貴女様が、確かに生きていたという事です」
メアリ姫が、破顔した。姫が嬉しそうに笑うと、こちらまで嬉しくなる。
「蓮、貴方は私の夫という名をした、目下唯一の味方よ」
「この命にかえて、どこまでもお供しますよ、姫」
「この子がライの子供だとばれない為にも、貴方には本当に私の夫を名乗ってもらうことになるけれど」
「もう元の名では生きられぬ身ですから。貴女様が活き活きと笑ってさえいて下さるなら、私は何にでもなりましょう」
「凶悪な台詞だわ」
姫が笑う。その笑顔が見たいのだと常々言っていた主の言葉を思い出し、微笑みを禁じ得なかった。確かに、この姫の笑顔には自らを捧げてしまうような価値がある。人を惹きつけて止まない、その魅力を知らない彼女こそ凶悪だと蓮などは思う。
不意に、蓮の冷えた頬を温かい人肌が包み込んだ。彼女の行動にも流石に慣れてきた。慌てず、今度は抱きしめられる前にメアリの体を引き離そうと肩を掴む。
「姫様、」
「何故なのでしょうね、蓮。悪巧みを企んでいるというのに、今はまだ切ないわ」
ぎゅっと、蓮の身体を抱きしめたメアリの細さに居たたまれなくなる。まだ愛している夫との永遠の別れを決意した彼女が、失意を感じないはずがないのだ。気丈でも、逞しくても、彼女は哀しみを知るただの一人の若い女性だ。
彼女は、寂しいに違いない。
「私を支えていて、蓮。壊れてしまわないように」
人肌の温もりに彼女の命の音を感じながら蓮は黙ってメアリに身を任せた。二度と会うことが叶わない夫を想って泣く彼女が、これ程までに主を愛してくれていたのだと思うと嬉しかった。
一人の女の希望という名の野望をのせて、暗は更けていく。




