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洗練された蓮の目から、目が離せない。そんな華漣の言葉を待たず、蓮は続ける。
「身分は関係ないんですよ。私が崇拝し、尊敬できるだけの女性であっただけの事。それに護衛武官になったとはいえ、私は元々の身分が低いものですから」
蓮は言葉を切り、華漣に向き直った。今は全てを失った貴公子は、それでも尚美しく笑う。
「妻への責め苦の後、私達は追放された。もう戻れないのですよ」
淋しそうに空を見る蓮は、故郷を追われた事への寂寥を感じているのか、はたまた妻への陳謝か、酷く頼りなく見えた。このまま空気に溶けて消えてしまうのではないかと疑う程、存在感の欠如した風景に染まるその姿に恐怖する。思わず手を伸ばして、その頬に触れた。
何も言わずに振り返る蓮と目が合った。蓮は驚くでも笑うでもなく、ただ虚ろな瞳を華漣から反らしはしない。このまま抱きしめたいと思った。同情だったのかも知れない。彼を憐れに思ったことは確かだから。ほんの少しだけ距離を詰める。蓮は瞬き一つせず、じっと華漣を見ていた。宝石のような心を掻き乱す輝きを帯びた瞳から目を離せない。
「・・・れ、」
名を呼びかけて、止めた。彼が目を伏せ、頬に当てた華漣の手首を優しく掴んだからだ。
「姫様。鵡大家はその後、どうなったのでしょう。特に、次男主子様は」
次男。確か華漣は、次男に関する情報を持っていた。そう、昨晩弟に聞いた。
「正室を娶られたらしいわよ。だから、お元気なのではないの?」
「正室、ですか」
蓮は俯いた。嘲るように笑っているのに、泣いているように見える。後悔の念に苛まれ、蓮は狂ったように笑った。次男が無事だったというのに、彼はどうしてこんなに悲愴な顔をするのか理解できない。ただ、慰めたかった。
華漣は蓮を抱きしめた。今にも壊れてしまいそうな蓮を、可能な限り優しく。
手が震えた。自分が何を怖がっているのか分からないまま、震えを押し隠す為に少し手に力を込める。蓮が腕の中で小さく藻掻いた。彼が息をすると、肩下が熱くなる。心臓が狂ったように跳ねるのを止められず、だからといって蓮を離すことも出来なかった。他人を慰めた事なんてない。誰かを抱きしめたいと思った事もない。本当は恥ずかしくて堪らないのに、その手を放すことが出来なかった。
「姫様」
「え、な、なに?」
自分の胸元から聞こえてくる籠もった声に反射的に返事をすると、声が震えていた。自分が何をしているのか脳が正確に理解し始めると、急に頭に血が上ってくる。目の前が真っ白になり、耳が熱くなってきた。生唾を飲み込み、一刻も早い蓮の次の言葉を待ち望む。
「姫様の心臓の音を聞いたとあってはまた職を失ってしまいそうですから、もし寒くないと仰るなら離して頂けます?」
「え、あ、わっ!!」
言葉通り、豪快に突き放した。支えとバランスを失った蓮が、悲鳴の代わりにけたたましい水音を立てながら川に落ちた。目を丸くして自分の状況を把握しようとする蓮があまりにも可愛くて、華漣は笑った。つられてか、蓮も吹き出すように笑う。
「あははは、蓮!!護衛武官がそんなに間抜けでいいの?」
「水も滴るいい男でしょう?」
「やめて頂戴、自分で言わないで」
腹を抱えて暫く笑っていた華漣を、大量の水を滴らせながら立ち上がった蓮の冷たい手が掴んだ。予期せぬままに、抱き上げられる。あまりに近い蓮の顔と、細腕で軽々と華漣を持ち上げた事に驚き、同時にその茶目っ気溢れる悪戯な瞳に身を固くした。蓮が少し屈む。
「え、ちょ!?」
――――落とされた。
ささやかな抵抗空しく、華漣の体はお尻から川の中へと転落した。蓮が手加減をしてくれたお陰で顔から落ちる醜態を晒さずに済んだが、軽く川底にぶつけたお尻が痛い。
「いったぁい!!何すんのよ!?」
華漣が水に浮かぶスカートを手で押さえて視線を蓮に向けると、彼は声を殺して忍び笑っていた。
「姫様、水遊びとはこうするのです」
蓮が、川の水を掬って華漣にかけた。
「あ、あんたねぇ、こんな事してただで済むと思って!?」
「黙っていてあげますよ」
「何をよ?それはわたくしの台詞」
「婚礼前の姫が他の男を抱きしめた事を」
人差し指を口に当てウインクをして微笑んでみせた蓮に、情けなくも言葉を失った。情けない、誠に情けないが、かっこいい。
華漣は言うべき言葉が浮かばず暫く四苦八苦したが、漸く苦し紛れに言葉を紡いだ。
「蓮って、実は結構鬼畜だったのね」
「姫様も、案外庶民的だったのですね。お似合いですよ、水の滴る良い女」
「蓮!!」
華漣は両手一杯に水を掬って、蓮の顔を目掛けて発砲した。既にずぶ濡れの蓮の顔に直撃すると、意外にも何とも言いしれぬ興奮が沸き起こってきて、華漣は続いて二打目に手を掛けた。蓮が子供のように笑って反抗する。時には顔を守ったり、攻撃を受けるのを覚悟の上で攻撃に徹したり、全身が濡れていく度に開放感が増していく。これ以上濡れる事がないと思うと、多少の無茶もする。自分の格好を客観的に見ることも忘れて、水を掬う事に躍起になる自分に呆れながらも、どんどん自分を好きになっていく。
「蓮!」
蓮が顔を守りながら、視線だけで応じる。華漣は額から水を滴らせながら、満面の笑顔を彼に向けた。
「水遊びっていうのも、中々楽しいものね」
蓮が小さく笑う。彼は、なんて優しい表情をするのだろう。全てを許してしまえるような子供の笑顔の効力を持ちながら、見守っていてくれるような大人の包容力をも併せ持つ。自分が、蓮に合わせて変わっていっている気がする。変えられている気がする。それを苦痛に感じない事が嬉しい。
「姫様」
「ん、なあに?」
「本当によくして頂いて、ありがとうございました」
蓮が手を止めると、自然と攻撃をする華漣の手も止まった。髪から滴る水が川に還る音だけが残り、風が濡れた体を冷やす。
「別れの挨拶のようで、嫌だわ」
「いえ、そんなつもりは。ですが、いつでも言えるとは限りませんから」
「そんな言葉、別れの時で結構よ」
蓮は薄く笑う。
「こんな身の上ですから、いつお別れする日が来るとも限りません。姫様、貴女様の御身の為には私を追い出すのは当然の事、決してお恨み申し上げませんから、いつでも追い出して下さって結構です。それが今日でも明日でも、妻が回復していなくとも、私は貴女に感謝しています。本当に、感謝しているんです。言葉以外の方法を持ち合わせていないので心苦しいのですが」
風向きが変わった。華漣の背から吹く風が髪を浚い、顔に掛かって蓮の顔が見辛くなる。今、蓮がどんな顔をしているのか分からない事が怖い。表情が見えないと不安になる。
「わたくしは、決して貴方を追い出したりはしません」
一歩、蓮に近寄った。髪を掻き上げても、再び風が視界を遮ってしまう。掴んでいないと蓮をこの風に浚われてしまいそうで、華漣は手を伸ばした。差し出した手を優しく握ってくれた時、華漣は手の先にある筈の蓮に向かって飛びついていた。一定の間隔でリズムを打つ心臓の音が心地良くて、ゆっくりと目を閉じる。
「寒いですか?」
蓮が優しくかけてくれる言葉が、耳をつけた彼の体から直接聞こえた。蓮を失う恐怖に怯える自分に気付かれたくなくて、華漣はそっと彼の背に手を回す。
「ええ、寒いわ。貴方のせいよ」
蓮は笑って謝り、そっと抱きしめてくれた。濡れて冷たい蓮の服に顔を埋めているのに、体が内から暖かくなる。
このまま時が止まれば良いのにと、心からそう思った。




