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 独身最後の一週間、目一杯やりたい事をしてやる。

 決意新たに、華漣は早朝から光輝を呼びつけ準備を整えていた。着慣れたドレスではなく、外出用の軽装を身に纏うのにそう時間はかからない。邪魔で目立つ装飾品は極力取り除き、見たこともないような簡易な髪留めをした自分の姿には失笑を禁じ得なかった。格好に合わせた化粧は薄く、どう贔屓目に見ても一城の姫には見えない。そう注文をつけたのだから文句はないが、やはり違和感があった。

 起床一時間の後、着替えが終わると同時に呼び寄せた蓮は、華漣の言った通り公服を着ていなかった。拾った時と同じような平民使用の簡易な服装が、彼に違った魅力を与える。正装をすると主子にも見える貴公子的風体をしているのに、平民の格好が妙にしっくりくる。どんな格好をしていても麗しい者ほど真に美しい者という事か、目が合った一瞬で心を奪う魅力がある。色の白い顔は不健康のようにも見えるが、体の細いラインは痩せているよりはしなやかさを強調し、男に色気を感じてしまう。しかも今日の蓮は鎖骨の見える服を着ていた。肩の大きく開いた大きめのインナーに長袖の上着を羽織っている。インナーの胸元には大きめの首飾りが垂れ、無地の服装に飾りっ気をもたらしていた。動きやすそうなパンツに靴底の平らな靴は商人を思わせたが、全体的には少し金銭的にゆとりのある平民といった風体だ。

「似合うじゃないの、どうしたの?その服」

「公服以外の服を持ち合わせておりませんでしたので、光輝さんに相談したら、」

「姫様が無茶な要求をなさるから、城下町で買ってこさせたんです」

 蓮の説明を光輝が受け継ぎ、二人は顔を見合わせて苦く笑いあった。その仲が良さそうな優しい雰囲気に、嫉妬する。

「わたくしに相談すれば良かったのに」

「蓮にそんな事、出来るはずございませんわ」

 光輝は肩を竦めて見せる。蓮が話を通せる人間は限られている。華鳥、桔医師、華漣、そして光輝だけだ。この中で最も話しかけやすい立場の人間が光輝である事は重々承知しているが、それでも自分に仕える者なのだから、自分に相談して欲しいと思う。

「まあいいわ。蓮、今日出掛ける先は貴方に任せます」

「は?」

「外出すると言っておいたわよね?行く当てはないの。貴方が決めて頂戴」

 蓮は、また光輝と顔を見合わせた。二人が目で会話をする度、自分の知らない蓮を光輝は知っている気がして苛立ってしまう。そんな自分に腹が立つ。

「ですが、私はこの華家の城下街については詳しくありませんし、姫様を満足させられるような場所に心当たりは」

「どこに連れて行かれても文句は言いません。貴方の知る最も楽しい場所に連れて行って頂戴。多少危険な場所でも結構よ」

 華漣は光輝を振り返る。

「聞いているとは思うけれど、蓮と二人で出掛けるの。一切の尾行は許さないわ」

「家主様の許可もおりております。仰せの通りに。蓮、姫様を呉々も宜しく頼みます」

「はあ・・・あまり、自信はありませんけど」

 光輝が小さく笑ったが、華漣は首を傾げた。

「わたくしを守りきる自信がないというの?」

「違いますよ。姫様のなさる事に付いていけるか不安だと蓮は言っているのですよ」

 蓮が顔を背けて忍び笑っている。つまりは華漣の我が儘ぶりに付き合いきる自信がないと、そう言っているのだ。侮辱されたとは思わないが、蓮の言葉の真意を瞬時に掴んだ光輝に比べ、自分は彼の言っている事の意味が分からなかったのだと思うと、切なくなった。

 華漣は無愛想にそっぽを向いて見せたが、二人は顔を見合わせて笑っている。無礼な事だと怒鳴るつもりが、声にならなかった。主に向かって冗談を言って笑えるのは、城内広しと言えどもこの二人くらいのものだ。他の者なら免職にしているところだが、生憎この二人がいなくなっては華漣の人生の花の半分が失われてしまう事になる。不思議なことに、自分に軽口を叩いてくれる存在が少し嬉しくもあった。

「姫様、それでは取り敢えず外に出てみましょうか。何か面白いものがあるかも知れません」

「今日は一日帰ってこないわよ。奥方に会っておいた方が良いのではなくて?」

 蓮は優しく微笑む。あの女が目覚めるまでは見られなかった笑顔だ。

「平気です、彼女は姫様のお陰で回復に向かっていますから。早朝から起こすのも気が引けますし」

「自分の妻なのに、やけに気を遣うわね」

「自分の命よりも大切なヒトですから」

「言ってくれるじゃない」

 蓮は恥ずかしげもなく言う。

「彼女の機嫌を損ねる事が、世界で二番目に怖いことですから」

「あら、じゃあ一番はなんなの?」

 華漣が聞きたかった事を、先に光輝が問う。蓮は麗しい瞳に憂いを描き、その口元に微笑を称えながら真剣な顔で、彼にとって一番大切な事を口にした。

「彼女の命が失われてしまうことです」

 聞かなくても少し考えれば分かった筈なのに、不用意にそれを聞いてしまった事を華漣は後悔した。光輝は華漣と蓮の顔を見比べ、気を利かせたのか話題を変えた。

「姫様の旦那様も蓮のように姫様を愛して下さるといいですね」

「側室なのよ、そんな筈無いじゃない」

 沈黙が落ちた。華漣の機嫌が徐々に悪くなっていく事を悟ってか、蓮が動いた。

「姫様は、平民のような遊びをご所望ですか?」

「気を遣われて楽しいはずがないでしょう。だから蓮と二人で行くのよ」

「では」

 蓮は、薄く笑んで華漣の前に右手を差し出した。何も持っていないその右手を凝視した後、意外にも大きなその手と蓮の顔を見比べる。

「宜しければ、お手を拝借できますか?姫様」

 おそらく、その時の自分の顔は間抜けだったと思う。口を半開きにして、呆気にとられた顔で蓮を見ていたと思う。そっと蓮の手を取ると、冷たい指先が熱を帯びた。華漣の手がすっぽりと収まってしまう程の大きな手は思っていたよりも骨張って固く、握ると優しく握りかえしてくれた。途端に蓮の熱が全身に伝わり、体が熱くなる。繋いでいない反対の手まで熱くなって、何故か頬が火照る。指先が震えて、息が詰まった。

「行きましょうか」

 それに、なんとか頷くことで応じる。喉も詰まって声が出ない。呼吸困難にでも陥ったのかと自身を心配してしまう程の目眩が華漣を襲い、意識が遠くなってくる。立っている事が辛いと感じたのは初めてだった。

 光輝の横を擦り抜ける時、満面の笑顔で頑張って下さいと口を動かして見せた彼女を、何故か愛しく思った。何も、頑張ることなんてないのに。ただ護衛と一緒に、姫だとばれないように平民を装って出掛けるだけのこと。初めての試みで胸が躍り、ばれやしないかという緊張感を楽しんでいるだけのこと。そう、蓮は関係ない。

「姫様」

 初めて見る、自分の前を行く蓮の背中。振り返った彼の笑顔は晴れやかで美しく、この上もなく眩しかった。華奢なはずの背が、大きく見える。

「楽しい一日になるといいですね」

 華漣は大きく目を見開いた。急で我が儘な命令なのに、蓮は本当に華漣を楽しませてくれようとしている。その広い心で華漣の幼い言葉の全てを包み込んでくれる。

 華漣は手に力を込めた。握り潰さんとばかりに強く握ると、蓮が戸惑いがちに振り返った。その瞳に吸い込まれるようにじっと見つめると、蓮は可笑しそうに破顔する。

「人混みでは手を放さないで下さいね。迷子になったら大変ですから」

「ば、馬鹿にしないで。わたくしは貴方よりも長年この地に住んでいるのよ?」

 真っ赤な顔で子供のように反論する華漣を茶化すように蓮は言う。

「お一人で本当に帰って来られますか?誰にも命令は出来ませんよ」

「か、帰れるわよ。城下町の中ならどこでも城が見えるもの」

 閉鎖されていた六階の階段を下る。久しぶりに見る、六階以外の城。室内の明るさは同じ筈なのに、視界が明るい気がした。狭い廊下だけの世界から抜け出し、自由に走り回れる広い踊り場に階段を駆ける。前には、蓮。手を引かれながら軽い足取りで階段を下っている時の気分はさながら、蓮とダンスをしているようだった。

 楽しい。何も考える事なくこうしてただ無心で走る事が、堪らなく心弾ませた。

「れ、蓮」

「はい?」

 擦れ違う誰もが振り返る。本来ならば予め華漣が通る事を告げられて誰もが低頭する廊下を、はしたなくも顔を晒しながら駆けている自分が少し恥ずかしくて顔を伏せた。姫がただの官に顔を晒すなど、あってはならない。

 不意に、手が放された。蓮の手の温もりを求めて顔を上げると、頭に何か柔らかいものが被せられた。それが蓮の上着だと気付くのに、多少の時間を要した。

「顔を見られないように、一気に駆け抜けますよ」

 まるで、子供のような笑顔だった。茶目っ気たっぷりにウインクをしてみせた蓮に、華漣は自分でも信じられないほど顔を綻ばせて笑っていた。何がそんなに楽しいのか、嬉しいのか、理由を聞かれたら分からないと答える他ない。それでも華漣には、その時ほど幸せを感じた記憶がない。当たり前のように手を繋ぎ、姫である事も忘れてスカートの裾を撥ねながら走る自分が、愛おしく思えた。

 華漣は蓮の手を取った。何も怖い事などない。後で大臣にこっぴどく叱られるかも知れないけれど、蓮と共にいる今を楽しめればそれだけでいい。

「行きましょう、蓮」

「仰せのままに」

 階段の下に広がる世界が光に包まれた。蓮が何者かなんて、この際どうでもいい。華漣を楽しませ、側にいて優しく笑ってくれる蓮が今の彼のままでいてくれるなら、彼の過去なんて知りたくもない。不変のものはつまらないと言うけれど、華漣の側にいる蓮だけは不変であって欲しい。決して姿を消す事も華漣に背を向ける事もなく、ずっとこうして手を握っていて欲しい。たったそれだけの事に喜びを感じるなんて、思ってもみなかった。

 

 この気持ちの名にこの時気付いていたならば、華漣は後悔しなくてすんだのかも知れない。

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