11
華漣は女の待つ部屋の前に立った。
決して開けてはならない扉を開ける感覚。不幸が待ち受けている事を知りながら、それを開けなければならない恐怖。それが華漣の動きを鈍らせる。
「蓮、わたくしが先に御挨拶をしてきてもいいかしら?」
返事を待たずして、華漣は続ける。
「蓮が来ると、二人の邪魔をしてしまうことになるでしょう?とにかくまず、二人で話してみたいの。ちょっとここで、待っていてくれない?」
蓮が断れる筈もないことは、分かっていた。案の定、彼は小さく頷くことでそれを許可した。
「代わりに桔医師をこちらに置いていきます。様子などを聞いて待っていて頂戴」
そう言い残して、華漣はお付きの者全てを廊下に残したまま、女の部屋に入った。中にいた二人の兵士も追い出し、とうとう開けてしまった禁断の扉の向こう側を見極めようと目を懲らした。瞬きをしては、ならない気がした。
天蓋の中に映る影が、ゆっくりとこちらを振り返った。兵士を追い出す態度から華漣の身分を悟ったのか、身を起こして布団を捲り上げる。天蓋の間から、しなやかな白い足が伸び、後からスカートの裾が付いてきて足を隠した。女は立ち上がる事なくそのまま膝を床に付き、そのまま低頭した。一瞬、天蓋から外に晒された女の顔は、女の自分が見てもはっとする美しさだった。直ぐに低頭して隠してしまったが、愛らしさの全てを身に纏ったような、白い肌に浮かぶ赤い唇が女性らしい、天使のような女だった。
「お初にお目に掛かります。姫様」
女は、低頭したまま言葉を紡いだ。蓮とはトーンが違うが、優しく親しみやすい、耳の落ち着く鳥が囀るような美しい声質は似ている。嫌味がなく、言葉尻まで丁寧で聞きやすい。
「ご無事でなにより、面を上げなさい」
華漣の言葉を受け、慎重に上げられた顔。直ぐに視線が重なった。
円らで大きな瞳だった。黄銅の髪が白い肌に馴染み、ウェーブがかったそれは女をより女性らしく見せている。細かな傷がまだ癒えきらずに跡が残っているというのに、それを感じさせないほど女個人の印象が強すぎた。
「兵士に聞いたかしら?蓮はわたくしの護衛武官として働いています。ご安心なさい」
女は首を傾げることこそしなかったが、その瞳には確かに不審の色が映っていた。
「レン、でございますか?」
「ああ、貴女の夫が名乗らなかったので、勝手にそう呼ばせて頂いているわ」
女は何を考えているのか、表情一つ崩さずに暫く沈黙を持った。刹那の後、女を見つめる華漣と再び視線を絡ませてくる。
「それでは、わたくしの夫は姫様の元で働かせて頂いているのですか?」
「そうよ」
「お命を救って頂き、ありがとうございました」
「貴女の治療費がわりですから、貴女はわたくしに礼を言う必要はありません」
素っ気なく言い放った華漣に、女は優しく微笑んだ。
「それでは、夫の御礼を言わせて下さい。彼の命を救って下さり、感謝します」
奴隷上がりとは思えなかった。上品な笑み、落ち着いた礼儀正しい言葉遣い、頭の回転も良い。品性に欠ける、頭の悪い女だと想像を巡らせていた華漣は、何をされたわけでもないのに劣等感に苛まれた。これでは、本当に蓮のいうような魅力ある女性として認めざるを得なくなる。何より、平然と蓮を夫扱いした彼女に腹が立った。彼女の口からはっきりとそう言われるまで、心のどこかで蓮の妻ではない事を期待していた。
「随分と眠っていましたわね。体の調子はどうかしら?」
「命を助けて頂いただけで勿体なく存じます」
「・・・子供もご無事のようでなにより」
沈黙が生まれる事を恐れて、言葉を繋げただけだった。それなのに意外にも、女の表情が変わった。みるみるうちに頬が紅潮し、見開かれた瞳までも照れる。
「あ、あの・・・夫も知っているのですか?」
「驚いていたわよ」
きまり悪そうに視線を泳がせる女を、華漣は訝しむ。隠し事がばれてしまったからだろうか、そもそも子供の存在を隠す理由が分からない。
「蓮に会うといいわ。少しだけ、時間を与えましょう。まだ目覚めたばかりで傷も癒えきっていないはず。ゆっくりお休みなさい」
「お心遣い、感謝致します」
丁寧に頭を下げた女に背を向け、華漣は自らの手で扉を開けた。緊張した面持ちの蓮と目が合ったが、そんな彼の様子を見ている事も苛立たしく、直ぐに室内への道を示してやった。蓮は禁止されていた事も忘れたのか丁寧に頭を下げ、小走り気味に部屋へと駆け込んだ。扉を半分だけ閉め、そっと中を伺った事を華漣は深く後悔する。
刹那、視線を絡ませて動きを止めた二人だったが、直ぐに女が動いた。嬉しそうな笑顔で、左足を引き摺るようにして蓮に駆け寄る彼女を、ぎこちない動きで蓮が支えた。差し出された左手にしがみつき、女は蓮に抱きついた。その狭いはずの背に隠れて、女の表情が見えなくなる。蓮の背に回された両手がきつく彼の服を掴み、絞め殺さんばかりに強く抱きしめる。
蓮の表情は、華漣の位置からは見ることが出来なかった。不幸中の幸いだったのかも知れない。あれほど心配していたというのに、妻に抱きつかれた蓮は両手を泳がせ、狼狽えているように見えた。妻を抱きしめるべきか、迷っているような。
華漣はもう半分扉を閉める。二人しか入らないような狭い視界を確保して、そのまま様子を伺ってしまう自分が情けない。
「ありがとう、助けてくれてありがとう、――」
華漣は眉を顰めた。語尾まで聞き取りやすかった筈なのに、女の言葉が聞き取れない。おそらく、意識して声を顰めたのだろう。もしかすると、蓮の本名なのかも知れなかった。自然と、耳に意識が集中する。
「ご無事で、なによりでした・・・本当に、ご無事で」
「やだ、泣いているの?」
女が手を緩めた。胸に納めていた顔を上げて、蓮の頬を両手で包み込む。
「もう大丈夫だから。心配かけてご免なさい」
二人の体が丁度重なって、蓮の背中しか見えない。
「どこか痛いところはありませんか?お腹の・・・」
「言わないで。私、生むから」
蓮は何も語らない。それ以上言わずに、ただじっと妻を見つめているように見えた。
「ふふ、それにしても貴方がそんな顔するなんてね。ずっとむっつりとした顔しか見たことなかったのに」
「茶化さないで下さい」
「やだ、茶化してなんていないわよ。笑った顔も素敵よ。因みに、泣いている顔も」
「茶化さないで下さい!!」
想像できる。きっと、蓮は真っ赤になって妻に抗議しているのだろう。明るい女の声から、そんな蓮を見て愉快そうに笑う女が脳裏に浮かんでくる。
女が再び蓮の背に手を回した。蓮は相変わらず、両手を遊ばせている。きっと、彼は困った顔をしている。
「感動の生還を祝って抱きしめてはくれないの?旦那様」
「!?め、め・」
「し」
女が蓮の言葉を遮って、口止めをする。
「私はその名を捨てて、蓮という名の貴方の妻になったのだから」
そう言って今度はゆっくりと蓮を抱きしめた女を、今度は優しく抱き留めた蓮を、それ以上見ている事が出来なくて華漣は扉を完全に閉めた。音がしないように細心の注意を払って。
扉の前に佇んで、華漣は天上を見つめていた。何も考えられない。
「・・・ねえ、桔医師」
側に控えていた十年来の供が、華漣の前で頭を下げる事で応じる。
「あの女性は、いつ頃全快するかしら」
「最も時間を有するのは左足の刺し傷でしょう。普通に歩けるように訓練をする時間を合わせれば、まだ一、二ヶ月はかかると思われますが」
それだけの時間が流れれば、蓮は姿を消してしまう。否、左足が全快するまでここに留まるとは限らない。名を隠す程の身の上なら、早々に立ち去ることも考え得る。
「光輝」
「はい、姫様」
華漣は扉の側にある燭台に視線を移し、その炎の揺らめきを眺めながら呟く。
「わたくしが今自殺行為を働けば、父上は閉じこめたことを後悔してくれるかしら?」
「どういう、意味です?」
「外に出たいのよ」
燭台に手を伸ばし掛けた華漣の動作を、光輝が言葉で以て制す。
「姫様には今、護衛武官がいらっしゃる。姫が怪我をする事は即ち、彼の解雇を意味します」
「つまり、・・・・蓮が解雇になるのね」
無言で頷く腹心を見て、華漣は自嘲した。それでは、外に出る意味もない。
「そんなに外に出たいのか」
全員が、肩を振るわせた。兵士が慌てて居直り、光輝と桔医師が華漣に背を向けて深々と頭を下げる。華漣の視界を阻む者がなくなると、久しぶりに見る顔が目に飛び込んできた。痩せこけた頬、ロイよりも手入れされた薄い顎鬚は白く、白髪を耳元で一つに束ねて胸元に垂らしている。鋭く細い全てを覆い隠すような深い緑の目が華漣は嫌いだ。
「ご無沙汰しておりますわ、父上」
華漣の父、華家の家主は兵士の間を滑り抜けるように、穏やかな足取りで近づいて来た。華漣より二十センチ以上高いところか見下ろされるのは気分が悪い。
「そんなに出たければ、出してやってもいい」
「本当?」
「ああ。蓮を護衛武官にしたのは、奴の身元や経歴が不明だという事が気にならない程の能力を見たからだ。奴が付いている以上、身に危険はあるまい」
全くの無表情で、口先だけの言葉なのか本心なのか、いまいち掴みきれない。
「それでは、今すぐにでも」
「ただ、蓮をお前の夫にするつもりはない」
華漣は少なからず驚いた。父は自分の瞳に何を見ているのか、指先が震えてくる。
「何をおっしゃっているのか分かりませんわ。蓮は護衛武官です」
「ならば良い。その言葉、決して忘れるな。これから蓮を雇っている間の外出を許可するが、条件がある」
「なんでしょう」
おかしいと思った。父が、何の見返りもなくこんな話を持ち出してくる筈がない。平伏している者達は全く動くことなく、父と自分の間でだけ時間が流れていく。大勢の人間がいるのに誰も動かないこの光景にはもう慣れたが、気味が悪いことに変わりはない。
「武中家との婚約話を受けてもらう。拒否権はない」
とうとう来た。遂に痺れを切らした父が自ら、命令という形でそれを押しつけにやって来る日が。拒否を続ければ、いつかこうなる事は分かっていた。こうなっては絶対に断る事は出来ない。反抗してみせるよりは、外出という小さな見返りだけでも得ておく方がこの場合得策、相手が二十二という若い主子である事に感謝する他ない。今までの婚約者の中では一番まし、側室という点を除けば華漣のプライドを満たす一応の条件は揃っている。会ってみなければ性格までは分からないが、鵡族は戦闘能力に長けた一族。何となく亭主関白を強いるような印象がある。
「・・・いつ」
「一週間後にお越しになる。それまでは好きに外出しても良い」
「急な話ですのね」
華漣は諾とは言わなかった。だが、これだけで承諾した事は父に通じる。彼は蓮の妻の部屋を見遣り、声を掛ける事も中に入る事もせずに、さっさとその場から立ち去った。久々に顔を見た父の背が遠ざかっていくのを眺めながら、華漣は再び天上を見上げた。
婚約をする。
顔も知らない、性格も声も、笑い方も知らない男と、華漣は一週間後に婚約をする。
何故か、しきりに蓮の顔が頭を過ぎった。




