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 大地を泳ぐ澄んだ水は、思わず触れたくなる程愛しかった。しゃがみ込んで水の流れを目で追うと、自分の供が視界に入ってくる。煌めく水面だけを眺めていたいのに、これでは気分が台無しだ。行く先も知らされない水はただ与えられた道に沿って、前に続いて進むのみ。

「わたくしの人生みたい」

 呟いた言葉に、返答をしてくれる者はない。水は透明で、掬うと直ぐに形を変えて手の中から逃げ出してしまう。大地と溶け合って消えていく水は果たして死んでしまったのか、それとも本来有るべき場所に還っただけなのか、華漣には分からない。自然は決して侵される事なく本来の自身の姿を保ち、自由気儘に流れているように見える。でも、それは嘘だ。この川だって、人間の良いように造られた堀に沿って流されているだけに過ぎない。

「わたくし、もう少し先まで行ってみたいわ」

「恐れながら、それはなりません。この先は華家の領土外にございます」

 先程の言葉には全く反応をしなかった供が、即座に返事をしてくる。それが少し腹立たしい。これ以上進めない事を分かっていて、つい言葉が口を突いた自分にも腹がたつ。

 反対されると反抗したくなる。水は流れに逆らう事は出来ないけれど、自分は違う。自分の足でどこへでも行ける。川の源流方面には、鬱蒼とした森林地帯が広がっているという。天を突く味のない冷たい壁に視界を遮られ、まるで捕まって檻に入れられた鳥のように、外の世界を空想するだけだが、壁一枚隔てた先には、狩猟区がある。人間とは相容れない獣の住む危険地帯。危険、なんて胸躍る響きだろう。

 華漣は走った。供が慌てて追いかけてくるのを聴覚で捉えながら、ドレスに泥が跳ねるのもお構いなく、露に濡れた草原地を走る。

 華漣はドレスの裾を掴んだ。こんなに走ったのは何年ぶりだろう、胸が弾む。乱れる呼吸、早くなる鼓動、そのどれもが楽しい。石に滑って何度も転びそうになりながら川を渡った。膝まで濡れてしまったが、もうそんな事も気にならない。年老いた供を突き放すには、このくらいの荒療治は必要。自分よりも身体能力の高い兵士に追いつかれない為にも、多少の無茶は仕方ない。

 華漣は自分を閉じこめる壁の、ただ一枚の扉にしがみつく。水を含んで重くなったドレスの裾を絞り、素足を晒す事もお構いなく、足で蹴り開けた。

 この扉は外からは開かないが、内側からなら簡単に開けることが出来る。いつもは兵士が扉の前に立ちはだかっているが、今日は華漣の散策に目障りだと、少し離れた高台から監視をさせている。華漣の行動に驚いて、今頃慌ててこちらに向かっている事だろう。

 綺麗に研がれた爪の間に土が入ってくる。美しく束ね上げていた筈の髪を振り乱し、見るも無惨な状態になっているのもお構いなく、華漣は後方から来るお供の声を無視する。狩猟区をただ一目見たい、ただそれだけだ。人工的に造られていない、本当の自然を見たかった。

 華漣の目に、外の世界は飛び込んで来る。扉を隔てた向こう側、ただそれだけのものが、この上もなく見たかった。

 見渡す限りの木だった。全く手入れのされていない鬱蒼とした木々は、華漣の知っている鑑賞用の木とは根本から違った。見られる為にそこにあるのではない。ただ、堂々と生きているだけ。木とは、斯くも美しいものだっただろうか。人に手を加えられなくとも隣との兼ね合いを考えて枝を伸ばし、背を比べ合い、大地に根を張り逞しく生きるその神々しい姿。

「・・・素敵!!」

 何を為しているわけでも、目的があるわけでもない。ただ生を受け、それを受諾しているだけのその姿に、どうしようもなく惹かれた。初めて見た、これが自然体。

 華漣は、うっとりと吹き荒れる風に髪を遊ばせた。後ろを振り返ってみる。草原地帯を流れる川、風に揺れる花、川の先に見える街と城。昨日の雨のせいで、一際輝く美しい筈のその光景が、何故か暗い森林地帯に劣った。何もない、木だけが連立する場所がただ単に珍しかっただけなのかも知れない。だが、飽きない。

「・・・あら?」

 華漣は、少し先に、木以外の異物を見付けた。というより、それは木々の合間を縫うようにして、突然に華漣の視界に飛び込んできたのだ。狩猟区の終わりは、森林地帯の果てを意味する。木の絶えた、狩猟区と壁との間にある僅かな荒れ地に、それは倒れ込んだ。人に見える。否、人に相違ない。一人の男が、女性を背負った状態で倒れ込み、そのまま動かなくなってしまった。勿論、女性も動かない。獣にでも襲われたのか、酷い怪我をしているように見受けられた。

 晴れやかな気分が一転、途端に頭が真っ白になる。

 華漣は振り返った。やっと追ついてきた兵士の姿を認め、我知らず叫ぶ。

「ヒトが倒れているわ!早く、助けに行きなさい!」 

 急を悟ったのか、供の者達はさっと散った。華漣は自らも人影を確かめようと足を出しかけたが、兵士の一人に取り押さえられる。万が一にも獣が出てきたら、という恐怖もあり、ただ落ち着かない気持ちで二人の様子を見守った。

 刹那の後、男が足を失ってしまったように手の力だけで上体を起こし、背負っていた女性を降ろした。這うようにしてその女性の身体を見回し、最後に顔を何度か触って彼女が無事であることに安堵したのか、力尽きた。

 特に意味はない。

 狩猟区を見ることが出来て、機嫌が良かっただけなのかも知れない。二人を哀れんだのかも知れない。ただ何となく、城で手当をしてやってもいいかと思った。あの傷では、街の医者に見せたところで助かるまい。ちょっとした仏心だ。

 露美しく輝く雨上がりだった。


 華漣はこの日を、一生忘れない。

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