選択と信頼
「もっと君は自分を信じてあげたほうがいいな。自分で自分の事信じてあげないで、誰が信じるの。もっと自信を持って」
夕来の言葉は今もはっきりと胸に残っている。男とは破局し結婚は儚く消え、仕事も単調、高い美顔器をついローンで買ってしまい、どっぷり落ち込んでいた時だった。
夕来は自分の社会的役割を考え、弱っている人、自信を失くした人の背中を押す仕事をしたい、と語っていた。口調は淡々としていたけれど、きっとこの人の中には熱いものがあるのだろうと、とワクワクしたのを覚えている。
「僕に一旦預けてくれたものを、軽くしてその人に戻す、そうできれば最高じゃない?」
倭子は夕来に救われた。自分のような不満を爆発させることすらままならない、不自由な人たちに、夕来の言葉がもっと届けばいいと思う。何なら今の仕事を捨ててもいい。
倭子は今の仕事は新卒からずっと勤めていて、決して高くはないけれどそれなりの給料はある。職場の雰囲気も良くはないけれど最悪とまではいかないし、少々の苛立ちは、時間と共に許容量が増えて、小出しに解消すれば持ちこたえられた。辞める理由も熱情も今の倭子にはない。
たった一つ、女性の独身社員の中で一番の年長者ということを除けば、居心地は悪くないし、だいたいのことは分かっているので楽なのだ。そもそも仕事にそこまでのやりがいは求めていない。
もしここを去るとしたら、その理由は結婚か出産になるだろう。その意識は常にあって、夕来への苛立ちにも一役買っている。その気持ちをよそに後輩たちが結婚、出産を報告するたびにひくつく頬を何とか抑え、笑顔満面でお祝い金を回収する。この参加できないループに割とうんざりしていた。
一体どうすれば、この停滞に風穴が空くのだろう。そう考え始めると、なぜかあの時の温真のキスが思い起こされてしまう。
倭子は久しぶりに「初めてのキス」というものをした。彼がいながら別の人とキスをするなんて一途な自分からしたら衝撃的だ。
キスをするとその人のことがわかる。
温真はそう言った。一体、自分の何がわかったと言うのだろうか。
もう一度会って話がしたいけれど、そんなことを自分から望む理由もないし、きっかけもわからない。何度かメッセージを送ろうとして、何を書けばいいのかわからず悶々としている。
そんな時にふっと温真に出会ったのだ。まるで自分の気持ちを見透かすように、突然目の前に現れた。
仕事の帰り道、最寄り駅近くのスーパーで何気なく惣菜を物色していたら、彼はそこにいた。吸い寄せられるように視線がフォーカスし、まるで狙いすましたかのように、温真だけが周囲からくっきり浮いて見えた。
「あ・・・」
声にならない声を上げると、ふっと向こうも顔を上げた。
「あ」
口の形がそう開いて、笑顔でこちらにやってくる。スーツに買い物かごという組み合わせが新鮮でドキドキした。
「あれー、渚井さん何してるの?」
「ここ家の最寄り駅なんです」
「そうなんだぁ。自分は取引先が近くて、時間潰しに。ここって調味料の品揃えいいでしょ。実は料理好きだったりするの、自分」
「へぇ料理されるんですね」
「それにしてもびっくりしたぁ。これまでも、もしかして会ってたかもねぇ」
温真のかごを覗くと、トマト缶にアンチョビ、バルサミコ酢にオリーブのピクルスが入っている。
「イタリアン、ですか?」
「そう、得意料理はパスタ。簡単だしね」
不思議と何のためらいもなく、普通に会話できている。倭子はここ数日のモヤモヤがくだらないことの様に思えてきた。
「いやそれにしても、ホッとした。もしかして嫌われたかなって思ってたんだよ、渚井さんいい子だからつい。って、自分こそそんな場合じゃないだろって?」
もう一度キスして欲しい、できればその肩に背中に触れてみたい。倭子はつい考えてしまう。この人はどんな風に口説いてくるのだろう。罪の意識を押しのけて、それでもなお自分には魅力があることを、どう囁いてくるのだろう。
薄く微笑む温真からは、上品な香水の香りが立ち上る。倭子は温真をちらりと観察した。上品なスーツと趣味のいいネクタイ。この人が選んだものはいつでも正解なのだろう。
ならば、そこに、自分も入れて欲しい。