優しさと正直さ
「私、文章苦手だから、ライターとか本当尊敬します」
夕来は、乃梨子が言ったこの言葉を今でもはっきりと覚えている。まだ付き合っていない頃、乃梨子の会社が主催したイベントで、担当者と地元紙のライターという関係で向き合った時に言われたのだ。
これは、倭子から発せられる尊敬の念と少し違って、「認めてます」という自信のある女特有の匂いが込められている。
「ライターでいてくれたら、別に収入とか関係なく応援できたのに」
別れ話が持ち上がった時、ぽろっと漏らしたこの乃梨子の言葉を当時の夕来は、自分に主夫でいてほしいからだろう、とうがった見方しか出来なかった。でももしかして、本当にそのままの意味で言ってくれていたのか。
結婚の時も乃梨子の方が積極的だった。うじうじとしていた自分に「いつ両親に挨拶に来てくれるの」とにじり寄ってきて、量販店でスーツを新調させられた。あれよあれよと話が進み、いつの間にか夕来は式場予約までのレールをすっかり敷かれていた。思えばあの時も自分の中での決断はなかった。
今こうしてウジウジ悩んでいる状態に陥ると、乃梨子ぐらいの強引さがなければ、自分は一生決断というものをしないように思う。
乃梨子と夫婦としてヨリを戻す気はさらさらないけれど、気持ちの上で未練が全くないかと聞かれたら答えられない。
「やっぱりマゾなんじゃないの。今の彼女じゃ物足りないっていう」
円花とのランチで、今では割と深いところまで話をするようになった。と言ってもほとんど夕来のことになるのだけれど。
「比べるものでもないんだろうけど」
「今カノ可哀想だよ、そんなことで比較されちゃ。そういうとこ馬鹿正直って言うの」
ドリアを刺していたフォークを振り回す。
「思うんだけど、夕来がその彼女さんに言ったんじゃない?前の奥さんが、例えば家事に細かくてうるさいとか、料理が上手じゃないとか、洗濯物の干し方まで文句言うとか」
「えっ、僕そんなこと言いました?」
夕来は思わず身を乗り出す。
「え、ごめん。例え話だけと当たっちゃった?」
「なんだ、驚かさないでくださいよ」
「とにかく、そんな風に元カノとか前ヨメの話なんか聞かされたら、自分はそうしちゃいけないって思うでしょう。そういうのが多すぎて面倒なんじゃない。彼女さん真面目タイプそうだし」
向かい合って座るカフェのテーブルが低く、どうしても前かがみになるので、つい露わになった円花の胸元に目がいってしまった。華奢なわりには豊かな膨らみが見える。
「ん、真面目といえばそうかもしれない」
「なおさら考え込んじゃってるかもね。私の運命の人ってこの人なのかなぁって」
夕来は、円花の顔をじっと見た。今まさに自分が悶々としている原因だ。「運命の人ってこの人なのかな」ということ。そうか、自分が思っていて、倭子が思ってないわけがない。
「ねぇ、夕来って何で奥さんと別れたわけ?」
「そんなこと、一言で言えませんよ。んー、家族に対する価値観の違いってとこですか」
「格好つけちゃって。おおよそ、プライドかなんか?男のプライド」
夕来はじっと円花の顔を見る。この女は油断ならない。
「私さ、感度良すぎちゃって時々疲れるんだよ。これ。結構大変。あ、感度いいって言ったってヤラシイほうじゃないからね」
胸の奥でぎゅっと何かが疼く音がする。
「でも島田といると楽。あの人私より数倍感度いいんだもん。そういう人の近くにいるといいの。なんていうの。雷落ちる時には木の下に行け、みたいな感じ」
円花の胸の膨らみ、薄い唇、耳たぶのホクロ、順番に目線を送ると、何かしら自分の中で忘れていたものが目覚めるのを感じる。ゆっくりと目線があった。
「食べる?」
円花が、フォークに乗せたドリアをこちらに向ける。とろりとこぼれ落ちそうになるチーズを、身を乗り出して口で受け止めた。
「ナイス」
円花の瞳から目が離せない。
「夕来、迷うな。迷ったら負けなの。優しいとできないんだからね、これは警告」
何を言っているのだろう。夕来はいつまでも知らないふりを通そうと誓う。この女に腹の中まですっかりお見通しなのが悔しかった。
「あ、私です。乃梨子です。電話出ないから取り急ぎ次の会食の予定の連絡。来週土曜日に夕里希望のハンバーグのお店ね。場所はメールしとくから。で、その時にまた言うけど、うちの会社でコラム書く人探してる。もしその気があるんだったら、推薦してもいいよ。じゃあね」