成功と理解
「まぁ離婚した直後は、本気で再婚してほしくないって思ってたけど、今はね、子供も大きくなってきたし、いいのよ。別に」
電話の向こうの声は明るく、張りがあった。この女はやはり、仕事がうまくいっている時が一番輝くのだ。
エリアリーダーとして実績を上げ、今度はネットスーパー立ち上げの責任者として課長の職に就くことになった乃梨子の声は、自慢げというよりは、充足感に満ちている。今では、心置きなく昇進の報告ができる相手として、夕来は便利な相手なのだろう。
「ま、父親として自覚は持って欲しいから、離婚した時の約束は譲れないけどね。彼女がいて、結婚したいって思うんだったら、甲斐性出して毎月養育費払うって言いなさいよ」
本当にこの女は傲慢で高飛車だ。でもそういうところに触れると、夕来はホッとする。だからこそ自分たちはうまくいかなかったのであって、今は一定の距離があるから気の置けない間柄になれている。思えば今ぐらいが一番心地よい関係かもしれない。
「もしかしてまだあの怪しいアドバイザーとかやってるわけ?いい加減目を覚ませば?あんなのごく一部の口のうまい人だけが儲けてるだけのイメージ商法よ。もっと真面目にライターの仕事受けるとか、あるでしょう」
乃梨子は最初から否定的だった。一度だけ食事を一緒にした島田のことも「胡散臭いオヤジねぇ」と一蹴した。
「女は現実的なの。もしまだ結婚したいって思ってるんだったら、ちゃんとしなきゃ。ふわふわしてたら女なんてすぐ逃げちゃうわよ」
乃梨子の自信たっぷりな言葉を聞き流しながら、夕来は倭子のことを思い出していた。いや、世の中にはいるんだぞ。男を見守って、愛情を差し出してくれる女が。
倭子の好意は最初から感じていた。夕来は自分の発言した言葉をこんなにも目を輝かせて聞いてくれる女がいるのだ、と誇らしい気持ちになった。新卒で入った会社にずっといる独身の女。身につけているものはブランドまみれでもないし、たまの旅行が楽しみという堅実なタイプだろう。最初は、もしかしていい客になるかもしれないぐらいの気持ちだった。
正直、これまで付き合って来た女とは明らかに違う、静かだけれど確かな意思を感じるアプローチに最初は戸惑った。けれど、離婚や乃梨子の厳しい言葉、まだ軌道に乗っていない仕事などが積み重なって弱った心に、妙に響いてきたのだ。
もともと乃梨子のような気が強くて、はっきりと物を言う女の方が好みだ。これまでの彼女もそういうタイプだったし、そこに垣間見えるほのかな愛情に興奮した。けれど。
だからうまくいかなかったのだ。
自分が好きなものと、自分に向いているものとは必ずしも一致しない。
これは自分も再三主張していることだ。仕事だろうが、恋愛だろうが、これが変わらない真実だ。これは日頃の考えを実践する、いいチャンスかもしれない。倭子を遣って、神様がそう言ってくれているのだ。
夕来は、倭子を受け入れた。いつもみんなで集まる居酒屋のトイレで、出会い頭に腕を掴んでキスをしたら、とろんとした目で見返してきたから、その赤く染まった頬を両手で挟んだ。いささかロマンティックに浸りすぎているなと思いながらも、自分の手の中ではっきりと倭子を堕とした感触があった。
それから4年。来年で倭子も40歳だ。友達に言わせれば「その年の女を4年も引っ張るなんて、かわいそすぎるぞ」となるのだけれど、どうしても夕来には踏ん切りがつかない。
乃梨子を交えた食事会で二ヶ月に一度しか会えない娘2人のことはもちろん気がかりではある。乃梨子の言うように大きくなったとは言え、下の子はまだ8歳だ。父親に新しい恋人ができて、その人と結婚するとなったら少なからずショックではないのか。乃梨子にすら、その存在をはっきりと公言したことはない。
倭子のことは愛しているし、今となっては彼女がいない生活は考えられない。夕来の仕事に理解があるし、時には助けようとすらしてくれる。健気で控えめででも決して消極的ではない。これまでと違うタイプの女に興味は尽きないし、彼女と一緒なら自分はもっと生き生きと仕事ができる気がする。けれど。
本当に自分の運命の相手はこの人だったのか。
迷いがしつこくつきまとって離れない。頭で考えれば、乃梨子よりもよほどか自分にとっていい相手であるとわかるのに、気持ちや心がブレーキをかけてくる。それは決して強くなく、とてもソフトにゆっくりと夕来の中に染み付いていた。