幸福と日常
「うちの女の子がミスっちゃいまして。本当に申し訳ありません」
課長の猫なで声に、渚井倭子は腹わたが煮えくり返った。取引先への納品ミスを堂々と他人のせいにして逃げる男の本性を、会社も取引先も見抜けない。悔しくて涙がにじむ。
課長はこれまで、倭子のことを名前で呼んだことはなかった。外部に向けてはいつも「うちの女の子」だし、直接何かを頼むときにも「ねぇ」というのはまだマシで急ぎだと「おい」「君」となる。
課長は額を擦り付けんばかりにうやうやしく電話を切ると、
「おい大至急出荷指示出すから、書類揃えて」
と横柄に指示を出した。いくら倭子が決済が必要な書類をわかりやすく置いても、本人に整理する意思がないのだから無駄なのだ。書類箱、書類ケース、クリップ、付箋、いろいろと方法を提案し実行してきたけれど、机の上はいつもカオスで改善することはない。
そのカオスの山のどこかにあるだろう、倭子が丁寧に揃えた書類をなぜか一からもう一度作らねばならない。無駄な作業が多すぎる。
「相手は変わらないんだから、まずは自分の意識を変えるしかないんだよ。そうすればそこは君にふさわしい場所になっていく」
夕来はそう言ってくれるけれど、倭子はすぐにくじけそうになる。今となっては、この役立たず課長の本性がバレて、クビになるかどこかに飛ばされるかすればいいのに、と日々願うような有様だ。こんなこと、夕来には間違っても言えないけれど。
「ほんっと、あのカメ野郎。許せない」
嵐のような尻拭いが終わると、隣の課で同期の金澤美紅が、給湯室で出迎えてくれた。
「大変だったねぇ、カメ課長の相手できるの、倭子ちゃんしかいないよ」
おっとりと倭子の分のお茶まで淹れてくれる美紅の左手薬指には、指輪が光っている。お互い同期の独身で最後まで残った女性社員だったのに、美紅は婚活パーティーで知り合った男とスルッと半年前に結婚した。倭子の予定はすっかり狂ってしまった。常に彼がいる自分と、長く彼氏のいない美紅とは歴然とした差がついていると思ったのに、まさか結婚で先を越されるとは。
「カメの机の上のもの、いっそ野焼きにしてやりたいぐらいよ」
「ははは、それいいかも」
倭子の上司である亀井課長はその名前もさることながら、やせ細って首が長いところが本物の亀みたいで、女子社員はこぞって陰で「カメ」と呼んでいる。ただみんな所詮他人事だ。カメの下にいる事務員は倭子一人なので、直接被害を受けているのは自分だけだ。
倭子は最近自分でも起業家セミナーを受けに行っている。夕来は、起業や人生に悩む人へのアドバイスをするためにセミナーやセッションを企画しているのだけれど、まだ一人前ではない。倭子はこんな長年働いても評価すらされない会社はさっさと見限って、夕来のパートナーになって手伝いたい。それが一番、「一生の相手として選ばれる」近道だと信じていた。
「前の奥さんは理解がなくてね。あの人は自分を助けてくれる主夫が欲しかっただけなんだ。それは別に僕じゃなくてもいい」
あまり前の奥さんの事は聞きたくないけれど、一度ポロリとこぼしたこの言葉だけは深く心に刻まれた。自分は同じような女にはならない。そもそもバリバリのキャリアウーマンにはどう頑張ってもなれないけれど、だからこそ夕来は自分を選んでくれたのだ。そこには当然、自分の役割があるはずなのだ。
「ねぇ、実は私会社辞めようと思ってるの」
美紅が突然声をひそめる。
「えっ、なんで?旦那さん、続けていいって言ってたんでしょう」
「ん・・・まだ誰にも言わないで欲しいんだけど、同期の倭子には言っとく。妊娠、してるんだよね。実は」
ドキリ。胸が痛くて軋む音がする。ついに来たか。沈んでいく心とは裏腹に、口角は自然と吊りあがり、ひくつく頬を何とか抑えて「そうなんだ、よかったね。おめでとう」と常識的な言葉が口をついて出た。
「ありがとう。寂しくなるけど、産後すぐに復帰は難しいだろうから一旦仕事は辞める。でもうちに遊びには来てよね、話聞きたいし」
なぜ逆じゃないのだろう。本当なら先に結婚し、妊娠し、退職しているのは自分のはずだったのに。
「もう、同期で最後の女になっちゃったじゃない。どうしてくれるのよ」
自虐的に笑うけれど、ミシミシと顎や頬が悲鳴を上げている。美紅の家に心から行きたいと思えるには、自分にはまだ圧倒的に幸せが足りない。夕来といるだけでももちろん楽しいけれど、もっと確かなものが欲しいのだ。




