失望と期待
「ま、最初から期待なんかしてなかったけどね、あなたには」
桑田夕来は、元妻である乃梨子の言葉を今も忘れられない。
乃梨子はスーパーを展開する飲食関係の会社に勤め、嘱望されて営業の職を解かれないまま産後すぐに復帰した。当時の桑田夕来は地元誌のライターをしていて、細々と記事を書いていたけれど、乃梨子の妊娠がわかった時に、知り合いのツテをたどってちょこちょことウェブの商品紹介コラムなどの仕事をもらうようになった。
ただ、収入面では妻には到底かなわず、「家事育児はあなたが中心ね」と高らかに宣言されると、返す言葉はなかった。でも長女の夕里は父親に懐いて愛らしかったし、もともと乃梨子の生意気で強気なところが好きで結婚したのだ。夕来は家でできる仕事を増やし、家事育児をできるだけ負担した。
「あなたが食器洗うともう一度やらなきゃいけなくなるの、わかってる?」
「もうすこしシワにならないように干せない?すぐ着られないじゃない」
「これ、味付け薄すぎるわ。無理に手作りにしなくていいから、市販のソースでやってよ」
何だよ。少しぐらいねぎらいの言葉をかけてくれていいだろう。まるで暇な主婦が昼間の番組で吐くような言葉が脳内を走り回る。
けれど、愛らしい娘との生活を守るために夕来は耐えた。今は妻に頭が上がらないけれど、いつか自分の名前だけで勝負できる日がきっと来る。そしたら、立場は逆転する。
そんな時に乃梨子の第二子妊娠が判明した。長女の夕里も3歳になりそろそろ兄弟が欲しい頃だし、乃梨子自身も「ますますあなたに負担をかけることになるけど、いいかな」としおらしいセリフを向けてきたので、あまり深く考えずに夕来は了承した。ただ、今思えばそのあたりからすでに歯車が狂い始めていたのだ。もちろん、次女の美愛は可愛いし、何にも代えがたい存在だ。けれど、夕来はまだ自覚していなかった。自分は本当は、妻のサポートに甘んじていることにほとほと嫌気がさしていることに。
乃梨子はまたすぐ職場復帰をした。今度はエリアリーダーという職務を用意されてのことだ。彼女がどんなに忙しくても飲食業界の雑誌に目を通し、新聞も欠かさず見ていた (時には数日分まとめて)のは、昇進を打診されていたからに違いない。
夕来が追いつかないうちに、敵の背中はどんどん遠くなっていく。そしてついに、二人の間の亀裂が決定的になった。
その日、確かに娘2人はだるそうだった。ちょうどその日のうちに仕上げたい原稿があり、さっさと送り出して音楽プレーヤーを耳にぶち込んで集中したかったのだ。だから発熱した娘を迎えに来てという、小学校、幼稚園それぞれからの連絡に気づかなかった。気付いた時にはすでに遅く、ようやく取り次いでもらった妻の声には苛立ちが透けていた。
「大事な会議前だったからお母さんに行ってもらったわ。夕里は朝からだるかったって、気づかなかったの?もう、じゃあ何のために、」
言いかけた妻の声が電話の向こうで淀むのがわかった。
何のために家にいるのよ。役立たず。
被害妄想だとわかっていても、自分の中で糾弾の声が膨らんでいく。
ろくにお金にならない仕事のために、私を振り回さないで。何でもっと細かく子供の様子見ないのよ。外に出てるのは私なの。いろんな人に迷惑かけるのよ、あなたと違って。
結局一日休んだだけで娘二人はけろっとした顔で出かけたけれど、それから夕来は何をしても責められているような気持ちになるのを抑えられなくなった。
そんな時に島田祐に出会ったのだ。自分よりも10歳ほど年上で地元のイベントというと必ず顔を見る男だった。本人はコンサルタントを名乗り、「企画・アドバイス」を生業としていると言い、年齢に見合うお洒落と、飄々とした態度が魅力だった。美人の妻がいるのに、長年続く若い愛人もいると専らの噂だった。
「どう?夕来くん、ボクの仕事手伝う?」
誘われてワクワクした。こう言う男になれば、自信がどんどん溢れてくるのだろう。そして自分も勇気を与えられる立場になりたい。
起業を目標にし、島田についてアシスタントをする日々。ライターの仕事も必要最小限に抑え、島田に言われたように自分らしい講義のパッケージ作りに没頭した。夕来が家事・育児から離れていくと、自然と離婚という2文字が2人の間で出るようになる。そして妻が言ったのだ。
「しばらく再婚はしないで。かわりにその間は毎月の養育費は免除するから。どうせ今の収入じゃ払えないでしょ。ま、最初から期待なんかしてなかったけどね、あなたには」