救済と同情
「粒来さんは仕事で嫌なことあったらどうするんですか?」
次の講演の資料作成の合間、気分転換に夕来は円花に話しかけた。
「嫌になったら辞めるけど、今のところは大丈夫。何、私のこと邪魔?」
「まさか。いや、女の人ってすごい愚痴るけど結局辞めないじゃないですか、仕事」
「もしかして彼女のこと?いや、女の愚痴なんて、挨拶みたいなもんだから」
「挨拶?」
「そう、こんにちは、天気いいわね、部長サイアク、課長セクハラみたいな」
「まさか」
思わず笑ってしまうけれど、あながち間違いでもないかもしれない。そう考えると、倭子の態度も理解できる。あまりにも課長がうざいと言うので、その上の上司に言ったら?ダメなら嫌なら異動願い出すとか、転職するとか、と言い連ねると、きょとんとした顔をして「そういうことじゃないの」と返される。やはり自分は島田のようにはなれないのではないか、と思う瞬間だった。
「彼女に相談されたの?」
円花のリズミカルなホッチキスの音が事務所に響く。
「いわゆる愚痴なんですけど、一番近い人のも丸く収められないなんて、完全にダメだ」
「一番近いからじゃない?他人だったらいくらでも無責任になれるじゃん」
「そうはいかないですよ、その人の人生がかかってるかもしれないし。めっなこと言えませんって」
「真面目ー、夕来。そりゃ難しいわけだ」
円花は書類をしつこくトントンして、神経質に角を揃えていた。
「真面目とかいう問題ですかね」
「島田は不真面目だよ。よく知ってると思うけど」
そう言って笑うと、円花はペットボトルに口をつけてゴクゴクと喉を鳴らした。その様子をじっと見ていると、ボトルの飲み口を向けてきて「飲む?」と聞いてくる。
それを苦笑いで制すると、するりと円花は言う。
「一度寝てみる?私たち」
本音だろうか。夕来にはわからない。
「いや、それは・・・」
「冗談よ、真面目すぎてつまんない。重たいのは趣味じゃないから、私。だから島田とうまくいってるわけだし」
いたずらっぼく笑う円花が、可愛らしく見える。
「そんなこと言われても反応に困ります」
「周知の事実ってことぐらい、いくら鈍感でもわかるし。そこで素知らぬ顔して図太く生きてるから面白いんじゃないの」
円花から再度差し出されたペットボトルを今度は受け取り、思わず中身を喉に流し込む。
「図太い、とは思いませんけど」
「あなたたち、倦怠期でしょ。私が絡んだら結構燃えると思うけどなぁ」
「悪い考えだなぁ、それ」
「でもコンサルタントってそんなもんでしょ。入り込んで、引っ掻き回して、よくなったら儲けもん、みたいな」
そんな無鉄砲な荒療治とは思わないけれど、もしそれが真実だとしたら、まちがいなく夕来は向いてないだろう。
「島田は誰か他の人の気持ちなんてまともに考えたことないんじゃないかな。ああいう人がたくさんの人生を救う。こぼれていくものを切れる人が。夕来には無理っぽい」
「じゃあどうすれば、いいんでしょうね」
胸の中に溜まるドス黒い嫌悪感が、円花が言ったことが的を得ていることを何よりも示していた。
「そんなの子供だましですよね。引っ掻き回して、ダメなら離れるだけなんて」
思わず手の中にあった書類をぐしゃりと握りつぶす。
「全部わかってるんでしょ。夕来はただ自分を救ってほしいだけ。救われていない奴は、他人にも馬鹿みたいに優しいから。でも優しさじゃないの、これって」
円花は淡々と作業に戻る。夕来はシワになったものがどうすればゴミにならずに済むかを考える。ただし、答えは分かっていた。捨てなければならない。戻らないとわかっているのなら尚更。
無性に倭子に会いたい。崩れた気持ちを立て直すのは、同情ではなくて、叱咤ではなくて、ただの救済だ。それは愛情があるからこそ、無償なのだ。
「彼女の方も苦しいんじゃない、今。その混乱を招いているのは彼女自身で、夕来じゃないとしたら、それは問題だよ」
円花の言葉は聞こえているようでまるで頭に入らない。ただとにかく倭子に会いたい。