依存と中毒
「こういうのって、まぁ麻薬みたいなもんで、一度ハマると次々に欲しくなるんだよね」
温真の声が耳元で鳴り、ふっと我に帰るとアパートの天井があった。
あの講演の日、夕来が離れた後で温真は後方にいた倭子を認めると微笑みながら近づいてきた。距離があってもその顔には上品な香りが立ちのぼるのがわかる。「びっくりしたよ、本当」と温真が受付の時と同じトーンで話しかけてきた。
「島田さんと知り合いなんですね」
「まあね。スカッシュやってる時はただの負けず嫌いのおじさんだけどね」
それと、と温真は口元を近づけてきて、
「講演の内容自体はあんまり好みじゃないんだけど、来てって言われるから仕方なく」
と付け加えて苦笑いをする。
「そうなんですか」
「こういうのって、まぁ麻薬みたいなもんで、一度ハマると次々に欲しくなるんだよね」
倭子には、温真が口にした「麻薬」という言葉がシンと残った。それは鼻腔に残る彼の香水とともに、倭子の記憶の中に仕舞われる。
何も変わらない。変わりようがない。
そう思っていたけれど、体に絡まる温真の感触を忘れられない自分がいた。
会社でもカメ課長は相変わらずだし、スーパー派遣社員真湖は懲りもせずに職場環境を良くしようと奮闘していて、倭子にも「亀井課長は言えばわかってくれる人だと思うんです」とその思想を広げようと躍起になってくる。正直言って気が重い。やりたければ勝手にやればいい。
「あんまり熱くならないで、ちょっと乗っかってみたらどうかな」
夕来にはそう言われたけれど、気が進まない。これで自分がその気になったら、真湖に触発されたみたいで癪だし、徐々に女子社員は真湖と一定の距離を置くようになっていた。倭子自身も、事務員同士が集まって愚痴を言い合い発散していれば毎日は過ぎる。仕事など、職場など、そんなものではないのか。
倭子は夕来と結婚し、寿退社するのが自分の幸せなのだと信じていた。もし仕事を続けるにしても、家庭があり生活の基盤が男性にも支えられているという事実は、自分に余裕をもたらすだろう。そうなれば仕事上の悩みなど些細に感じられるに違いない。
ただし、今となっては、本当にそれが自分のしたいことなのかわからない。そしてもっと怖いのは、夕来は結婚など全く考えてなくて、このまま面白おかしくふわふわと恋愛を楽しめればいいと思っているのではないかということだ。このまま一緒にいる意味が、だんだんわからなくなっていた。夢を手伝うと言っても、何の繋がりもないまま隣にいるというだけで幸せを感じられるほど、倭子は自信も余裕もない。
『彼は島田さんに師事してるのかぁ。知ってればこの前もっと話ししたのにな。残念』
不安定な気持ちをごまかすように、倭子は温真に連絡をしてしまった。温真は決して拒否しないだろうことはわかっていたけど、返事がすぐに来た時にはホッとした。
『彼はそのうち独り立ちする予定なの。私も手伝いたいって思う』
『本当真面目だなぁ、渚井さん』
渚井さん、という呼び名が一線を引かれているようで少し寂しく感じられる。
『それって本当に自分のしたいこと?彼じゃなくて、自分がしたいことだよ。自分のことはまず自分が大事にしなきゃ』
温真の文字が気持ちに沁みてくる。疲れているのか、訳も分からず涙がジワリと滲んでくるのを止められない。
『正直に言うけど、島田のおっさんのことは自分には全然ぐっとこないよ。当たり前のこと抑揚つけて言ってるだけだし、あの人。でも結構人気あるんだよねぇ、ああいう自信満々の人って見ててスカッとするんだろうね』
もしかして、夕来が心酔している世界は、温真から見たら取るに足らない、退屈な世界なのかもしれない。急激に、島田という人物が色褪せてくる。
『でもあの人、めちゃくちゃモテるし、お金もある。そういうのは憧れる。自分には出来ないからなぁ。あんな風に言い切れない、仕事とか人生とか恋愛とか』
倭子はわからない。島田は夕来が素晴らしいと言うからそう思ってきたけれど、自分の中で一旦咀嚼して判断することができない。それができる温真が羨ましい。
『彼の気持ちはよくわからない。わかってるのは、今の私には彼しかない。だから彼にとってもそうでありたいってこと』
大事にしまってあった言葉が引きずり出される。倭子はもうわからなかった。いつから好きという言葉では表せなくなったのだろう。
『それは恋愛じゃない、依存だよ』
温真の言葉がポツンと倭子に石を投げた。