背徳と現実
倭子は結局、温真の言う「深刻ではない気分転換」をする気になった。
夕来を求めた声は軽くかわされ、その隙間を縫うように温真からメッセージをもらった。それがいやらしい誘い文句ではなかったことが、余計に倭子の気持ちに火をつけていた。自分に没頭しよう、そんな風に考えたのは今回が初めてだ。
温真の借りたレンタカーで海沿いのハンバーガーショップに行き、指に絡む甘辛いソースに吸いついた瞬間、このまま戻ったら何もなかったことにできるのかなとふと考えた。ただ、スーツではない温真は白いシャツにチノパン、カジュアルな時計に皮のブレスレットと、上質な罪の匂いがしてそれに強烈に魅せられた。
ホテルの閉め切った窓には時間などなくて、倭子はただ、流れていく気持ちに身を任せた。罪悪感と高揚感の間で、まるで自分ではない人生を生きているようだった。
「あ、この前のスーパー、来週も行くよ」
ことが終わった後、ベッドでまどろんでいると、温真がそう言って微笑んできた。
倭子はその無邪気な口元をじっと見つめる。ジワリと広がった胸のシミによって、倭子は一度きりと決めていた自分の決意が揺らぐのを感じる。
「意識すると案外会わないもんだけどね」
「今度会う時は偶然じゃないだろってね」
平坦な表情で、温真は立ち上がった。想像よりも平べったいお尻と、予想よりも濃いすね毛が見えて、思わず目を逸らす。
冷えた気持ちに覆われそうになって、倭子は布団を引き上げた。
こんなもんだろうか。
もっと熱くなって燃えて、すっかり気がすむのではないかと期待していたけれど、正直何も変わらない。ただ夕来に対してだけ消すことのできないシミがポツンと刻まれただけだった。
一番近くなりたいと願っていた相手に、一生言えない時間の流れがある。ただそれも容易に抱えていける予感がする。自分は実は図々しい女だったのだろうか。
「奥さんのこと好きなのに、何で遊んだりするのかなぁ。男がみんなあんなだったら困る」
眉間にシワを寄せた美紅の顔が浮かんだとき、そうか美紅はあっち側の人間なのだなと倭子は悟った。ほんのすこし先を行かれただけと思っていたけれど、決定的に川のこっちとあっちとで分かれていたのだ。そして倭子は自ら、もっと遠い岸まで来てしまった。
「これ、いりますか?要らないなら捨てましょう。どっちですか、見ますか、見ませんか」
中途入社の契約社員、麻生真湖が亀井課長のデスクに張り付いている。直属の部下は倭子なのだけれど、社内文書の管理をしている部署にいる真湖は、入るなり亀井課長のルーズさに呆れて何とかしようと奮闘している。
「いやぁ、とっときたいんだけどなぁ」
「先週もそう言ってましたよ。捨てましょう」
まいったなぁと頭をかくカメは、言葉とは裏腹にデレデレしている。
「出たね、真湖爆弾」
女子社員の中には、終始押し気味の真湖とのバトルを面白がる声も出てきた。
「おじさんは上から言う女に弱いから」
要るのか要らないのか。
そんな風に何でも白黒はっきりつけられたら、どんなに楽だろう。どっちつかずの荷物が増えれば増えるほど、重力に引っ張られて動けなくなる。たとえゴミに埋もれていても全然気づかない。
「周りは変わらないんだから、自分から変わればいいんだよ」
夕来の言葉が耳に蘇る。でも変われと言われると倭子は息苦しくなるのだ。
今の自分はそんなに価値がないのだろうか。変わらなければならないと思われるほどに、退屈な存在なのか。そもそも変わるというのは何なのだろう。自分は何も変わらなかった、傲慢な欲望に従ったというのに。
「もし後悔したんだったら、これきりでもいいよ。お互いつかの間の気分転換のつもりでいれば、ドロドロしないで済む」
淡々と予防線を張る男の横顔は、情けなくて案外好きだった。
「温真は、奥さんのことまだ愛してる?」
「それ聞く?」
弱った顔をすると、また意地悪したくなる。
「答えによっては幻滅する」
「正解は何なのかなぁ」
探るように瞳を覗き込む温真に、今の自分はどんな風に映っているのか、倭子は自信がない。さもしくて、欲求不満の40手前の女。
「夫婦って一言じゃ言い表せない、とだけ言っとく」
「こっちが知らないからって」
あの時、どうしようもない隙間を埋めるように倭子は温真にキスをしていた。