強引と感覚
「まだうじうじしてるの。なかなか養育費払うって言い出さないから、プレッシャーかけたのに」
乃梨子の声が受話器を通して耳に刺さる。この高慢ではっきりとした物言いは、昔から変わらない。別れた今でもその厳しさには惚れ惚れする。
「払わないとは言ってないよ。もうすこし待ってて欲しいんだ」
「あのね、いい歳した男が自分が成功するまで待てとか図々しいの。夢も賞味期限があるの。女の方だって、もう一緒に夢なんて見てないって。現実見て、仕事して、指輪買って幸せにしろって思ってるよ、内心」
いや、いるんだよ。そういう女。夕来は倭子の顔を思い浮かべる。
「女は迷うのよ。今頃若い男としれっと浮気して天秤にかけてるんだから、知らないから」
ドキリ。乃梨子は時々的外れのようで妙に鋭いことを言い出す。そう言えば倭子とは最近ろくに会っていないし、いつ会えるかというメッセージにまだ返信できないでいる。
「しれっとじゃないだろう、比べられないよ、それは」
「何言ってんの、そういうところだけ図々しいんだから。とにかく愛想尽かされないうちに、真っ当に生きること考えなさいよ」
「真っ当だよ、失礼だな、お前」
「腐ってもかわいい娘の父親なんだから、もうちょっと自覚持ってもらわないと。かわいそう、夕里と美愛が」
娘の名前を出されると、夕来も弱い。それにしても腐っても、か。刺されまくって穴だらけのハートはもう感覚が麻痺して痛みすら感じない。
「別に経済的には困ってないけど、あの子たちの父親だからちゃんとして欲しいの、私は。それとさ、私のことお前って言うのやめてよね。偉そうに」
ぷつっと通話が途切れて、呆然とする。本当、あいつは自分勝手で人を傷つけることを屁とも思っていない氷のような女だ。だから倭子といることが安らぎなのだ。自分に何も求めてこないし、自分の理想や願望を押し付けたりしない。
「別れた奥さんに電話?大変ね」
こそこそ電話をしてセミナー会場に戻ると、円花が平坦な口調で話しかけてくる。この前のやり取りから気まずいのだけれど、さすが円花は大人で、いつもの変わらない態度で接してきた。
「すみません、電源切ります」
今日の円花はぴったりとしたスーツ姿で、ブラウスのボタンを押し上げる胸の膨らみに、つい視線が吸い寄せられる。
「何か揉め事?」
「いえ、養育費のことでちょっと」
「まさか督促?信じられない」
まさかこれまで払ったことがない、とは口が裂けても言えない。
「うちの父親は払ってくれてたよ。母親に毎月。そういうの子供って案外わかってるわよ」
「円花さんの両親って離婚してるんですか」
「ええ、母親、シングルマザー」
円花はからりと言い放って、ダンボールをよいしょと持ち上げ控え室に向かう。夕来が慌てて「持ちます」と申し出ると「あと二つあるんで、そっちを」と冷静に返された。
もしかして円花が愛人などという立場に甘んじているのは、ことさら結婚に魅力を感じていないからだろうか。どう言う事情があったにせよ、父親不在で青春時代を過ごしたという事実は、結婚観に暗い影を落としているだろう。
夕来は倭子から結婚したいと言われたことはない。けれどしたいのはひしひしと伝わってくるし、昔は時折探りを入れるようなセリフを定期的に吐いたりもしていた。その都度適当にやり過ごしていたら、そのうち倭子の方から何も言わなくなった。自分の決意を隣でじっと待っていると思うと、さすがにプレッシャーがかかるけれど、まだその時ではない。いつと言われてもわからない。
もうちょっと倭子が強引に迫ってきたら、もしかして何もかも捨てて自分はあの傲慢な乃梨子に頭を下げて仕事をもらうような男になるのだろうか。
でもそんな風に平凡な暮らしに埋没していくのも本当は悪くない選択なのかもしれない。
夕来は男としての自覚が欲しい。島田のようにしれっと結婚をして、恋愛をして、多くの人を感動させてスタイリッシュな格好をしたい。子供じみた夢かもしれないけれど、それすらなくて、日々散漫と生きている男たちがいくらでもいる。自分の選択を変える気など毛頭ないのに、島田の本を崇めて大切に読み返したりするのだ。
島田のようになりたい自分と、倭子と穏やかに暮らす自分。それがまだ夕来の中でうまく折りあっていない。