願望と軽蔑
「もしかして渚井さんは結婚願望ないの?」
偶然会ったスーパーに併設されたコーヒースタンドで、倭子と温真は並んでソイラテを飲んでいた。
「もしまだ時間大丈夫なら、ちょっとコーヒーでも飲まない?」
倭子の心を読んだように、温真がそう言ってくれた時、頷く以外の選択肢などなかった。
「結婚願望・・・ちょっと前はすごくあったけど」
今はもうわからない。自分がどうしたいのか、その相手は夕来なのか。
「彼がプロポーズしてくれない?」
「正直なところ・・・そうですね」
温真の声を聞いていると、途端に夕来の存在が遠のいていく。もっと彼から聞きたい言葉があるはずなのに、もどかしい会話にイライラする。
今目の前にいる温真は格好良くて、紳士で、手首に巻いた時計も、左手の指輪も、胸に刺したボールペンもなぜか全てがエロティックに見えた。倭子は、漏れ出てしまう期待感でつい温真の首筋を引き寄せたくなるけれど、必死で抵抗している。うつむいて、膝の上に置いた手を力を込めて握りしめていると、その鼻先にハンカチが差し出された。きちんとアイロンの効いた、清潔そうなブルーのチェックだった。
「いや、泣いてるのかなと思って」
温真の顔を見上げると、照れくさそうにハンカチを引っ込めた。倭子はその顔を見たらたまらなくなって、立ち上がって温真の首筋を引き寄せた。立ち上る香水が鼻腔をツンと刺激し、不意に意識が飛んでいく。
「渚井さん、自分はそろそろ帰らなきゃ」
くぐもったその声に首筋がひやりと冷やされ、弾けるように離れる。ごめんなさい、という言葉が喉元に絡まったままだ。
「渚井さん、正直に言うけど、自分は結構いい加減な奴だよ。適当に遊んでるし、魅力的な女性がいたら口説きたくなる。だから渚井さんにも色気出してる。軽蔑してくれていいよ」
そっと差し出された指で、倭子の髪を耳にかける。
「ただ、ほんの気分転換なら大歓迎。あんまり難しく、深刻に考えずに。お互いその方が楽でしょう」
そんなの、都合がいいってわかってるけどね。そう言って笑うと、かごを手に立ち上がって温真はレジの方へ歩いて行った。
しばらく動けない倭子は、温真が触れてくれた髪にそっと指先を置く。自分の心臓の音ばかりがどくどくと耳を覆った。
今温真に自分から近づいて行った。倭子はその恥ずかしさに今頃になって死にたいぐらい後悔した。
ただその余韻はいつまでも全身を麻痺させていて、倭子はレジを通った温真の姿が見えなくなるまで、じっと座ったままでいた。
夕来の事は好きだけれど、長い月日の中で最初の頃の熱は別の形に変化している。それを安心に変えてくれたらもっと近くで寄り添っている実感が湧くというのに、今となってはその距離をどう保っていいのかわからない。
温真ぐらい独りよがりで、自分勝手に気持ちを伝えてくれたら、自分にも自信が持てそうだった。
夕来はみんなを助けたいと言う。でも倭子の事を置き去りにしていたら、それはいつまで経っても夢でしかないのではないか。
だからと言って自分は別に、温真を略奪したいのではない。ただ、気持ちが勝手に温真に捉えられてしまう。あの人は上手だ。その気にさせて、さらっと気持ちを滑り込ませてくる。短絡的に不倫にのめり込むほど子供ではないけれど、でもその心地よさには言いようのない魔力がある。
「何やってんだろうなぁ、いい歳して」
さてと。倭子は荷物を手に立ち上がった。かごの中を半額シールの貼られた惣菜が滑っていく。女を安売りするつもりはないけれど、上手な男と一緒にいるとあんなにも楽なんだ、とじわりと感じた。下手に出ているわけではないのに、嫌らしくない。傲慢なのに、自慢げではない。何なのだ。あの男は。
急いで倭子はスマートフォンを取り出し、夕来の連絡先を呼び出す。どうしても会いたかった。
まとわりついている、温真の残り香を消すには、彼に会うのが一番だ。そして愛し、愛されている実感を嫌というほど自分に注いで、そして落ち着くのだ。
『次いつ会える?』
島田の講演が土日ごとに入っている最近はゆっくり休日を過ごすこともままならなくなっていた。彼の夢の邪魔をしたくないと抑えていた気持ちが一気に噴き出してくる。そう、彼の夢、その前に自分の希望だ。そうしなければ、いつか自分の方が食い尽くされる。