正論と未来
「要するに、誰かの人生を受け止める覚悟がないんでしょ、あなたには」
夕来が起業したいと言い出した時に、乃梨子に言われた言葉だ。そんなつもりはない、自分は家族を養うために、堂々と仕事について語れる男になりたい。それだけなのに。
意思の疎通ができず、でも主張するだけの決定的な何かがなく、夕来はあの頃苦しくて仕方がなかった。そんな時島田の言葉には随分救われた。こんな自分だからこそ、島田の言葉を正確に伝えられると思った。
天つゆにぐっしょり浸かった生ぬるい天丼を平らげた午後、胸焼けと眠気に襲われて、度々意識を失いそうになる夕来は、円花と2人で作業中、気分転換に口を開いた。
「あの、図々しく聞いちゃいますけど、島田さんのどこがそんなにいいんですか」
開いてから、しまったと思うけれど発信した言葉は回収不可能だ。
「本当、随分と図々しい質問ね。夕来はそんなことで思い切らなくてもいいんだけど」
手元では、島田の講演内容が書かれた書類をワンセットにしてホッチキスで留めるという単調な作業を繰り返している。おかげであくびが止まらない。
「すみません。思いやりスイッチが錆び付いてて」
しばらくまた沈黙に満ちる。紙の音、ホッチキスのパチンという音が交互に響いて、夕来はその空気に押しつぶされた。
「飲み物買ってきます。一緒に買ってきますか?」
「ううん、そのぐらい自分で行く」
伏せられたまつげには、フェイクがたくさんひっついていて、彼女の心を映しているように儚げだった。
「もしかして同情してるの?30にもなって、誰かの一番でもなくて、二番目で、こんな寂しいビルの一室で報われない男のために単調な仕事してって」
「いや、同情は、していません」
「同情は、ね」
円花はこちらを見ようともしない。もしかして嫌われたかな、もしかしてアシスタントクビになるかもしれないな。
夕来は己の無邪気さを呪いながら部屋を出た。ビルの一室を借りている島田のオフィスは、無機質で愛想がない。「スタッフに媚びても仕方ないだろう」と言うけれど、もう少し配慮があってもいいとは思う。ただし、その感情の半分は先ほど円花が言ったように彼女への同情心からかもしれない。
「余計なお世話か」
廊下に続く、島田のポスターに見守られながら、夕来はポケットの小銭まさぐった。何度数えても、一人分しかない。その格好悪さに一人苦笑した。
「自分の事で精一杯だよなぁ、やっぱ」
エレベーターを待つ間、いつかの乃梨子の言葉が脳裏に蘇る。
「あなたは、責任を取りたくないのよ。楽な方に流れてそれでいつも言い訳してる。そんなに甘くないよ、男の人生って」
もう少し自覚持ってよ。そう言われても反発心しか浮かばなかった。勝手に仕事をして、夫に家事をやらせて、大黒柱の実感が湧いたら、そりゃあ自分は気持ちいいかもしれないけれど、こっちの身にもなってほしい。確かにライターでも半人前、起業してもうまくいくかわからない。でもそういう時に妻ぐらいは味方でいて欲しいものだろう。なのに人を馬鹿にすることしか考えてない女の隣にいてもちっとも未来が見えてこない。
さっき確認した乃梨子からの留守番電話をもう一度再生してみる。
畜生、この女はどうしていつまでも高飛車なのだ。推薦してもいい、なんて思い上がりもいいところだろう。自分はもうコラムの仕事など求めてはいない。確かに今は細々と頼まれた商品紹介記事などをこなしているけれど、それはあくまでも生活していく上の手段に過ぎない。
「あなたはもう少し自分をちゃんと見つめた方がいいわ。迷いすぎよ、いい年なのに」
乃梨子の言葉はいちいち正論すぎて逃げ場がない。だから変わりたかった。自信を取り戻すにはこの女ではダメなのだと嫌という程思い知らされた。
「勘違いしないでよ、娘のためで、あなたに未練があるわけじゃないの。養育費払えないような甲斐性なしに再婚なんて無理よ」
未来のあなたの恋人に警告してあげてるのよ、そうあいつは言って、「再婚しないでいてくれたら、その間は養育費免除してあげる」という約束を取り付けたのだ。確かに、提示された養育費は今の自分にはきつい。今の生活を維持しながら支払いも並行するとなるとそれこそなりふり構わず仕事を引き受けなければならない。それは自分の目指す理想の自分ではないのだ。