甘い夜
彼の唇がうっすらと開くのを、男はうっとりと見つめていた。
舌が別の生き物のように動き、とろりとしたミルク色の液体を舐め取る様を。
おそらくは無意識にだろう、貴重な雫を一滴も残すまいとするかのように唇を舐め回している。
その姿がどれほど男の本能を刺激するものか、知りもしない様子で。
今、ミラーグラスの奥で、彼の瞳は深い悦楽に翳っているのだろう。
やがてその唇から、満足しきった呻き声が漏れる――
「うめえ!」
「……良かった」
両の拳を握り、感極まった口調で唸るギアに、カースは、にっこりと微笑みかけた。
「君に喜んでもらえて嬉しいよ、ギア」
「おお」
ヴァニラアイスを掬った金色のスプーンをくわえ、ギアは頷いた。
真っ白な四角いプレートに盛られた、芸術品のような氷菓子たち。
小さなテーブルにはキャンドルが灯され、繊細なレースにも似た飴細工を魔法のようにきらめかせている。
「《ミスターサプライズ》のアイスもいいが……たまには、こういうのも悪くねえな」
言って、ギアはミラーグラスの向こうからカースを見つめる。
彼は今、いつもの装甲ジャケット姿ではなかった。
細身の黒いディナージャケットをはおり、シャツの襟元をくつろげている。
「いいね、そのジャケット」
「あ? ……ああ、俺の一張羅さ。今夜に備えて、昨日からロッカーに吊るしといた」
「昨日から?」
「ああ」
二週間前に予約を入れ、ギアに知らせたのが三日前。
その時は、特に喜んでいる様子もなかったが――
彼も今夜を楽しみにしていてくれたのだと思うと、深い満足が湧き上がった。
この夜に出動が入らなかったのは奇跡のようなものだ。
「しかし、おまえがこんな店を予約するとはな。甘いもん、苦手だろ」
高級住宅街の一角の、小さな店だ。
決して有名な店ではないが、菓子職人の夫婦が作り出す魔法のようなドルチェの数々にはファンが多いという。
「ギアに喜んでもらいたくてさ」
「殊勝な心がけだな」
尊大に言って、ヴァニラアイスを口に運ぶ。
カースは自分のために注文した苦味の強いホットチョコレートを口に運びながら、小さく笑った。
「こんなふうに二人でゆっくりできる機会も、滅多にないからね」
「普段は……屋台で飲み物と食い物買って、立ったまま食って、次の現場……だもんな」
「座って食事ができるとしても、仕事が山積みのデスクで」
「激務だよな」
「そうだね」
深い内容などない、何ということもない会話。
細い金色のスプーンが、白いプレートの上で、苺のアイスとヴァニラアイスを混ぜ合わせている。
その指先、金色の髪、色の違う虹彩、肉体の生身の部分、機械の部分――
全てを自分のものにしたいけれど、今はまだ、これが最高の幸せ。
彼と同じ時間を共有できることが。
なぜだろう、とカースは思った。
目の前にいる若者に、なぜ、こんなにも自分は惹かれているのだろう。
彼よりも美しく、彼よりも従順で、彼よりも自分を愛する相手をいくらでも見つけることができるというのに……なぜ?
合成香料ではない、本物のカカオから作られた飲み物のように、恋の味わいは複雑で、芳醇だ。
カースはすっと指を伸ばしてギアの唇を撫で、ぎょっとしてスプーンを取り落としかけたギアの目の前で、その指を舐めた。
「アイスが付いてたから」
「このヤロ……」
反射的にホルスターを探ろうとした手をジャケットに阻まれて、ギアは心から無念そうな顔をした。
銃を抜いて暴れ回るには、この店は手狭すぎるし、雰囲気が良すぎる。
「このアイスがお前の奢りじゃなけりゃ、今頃、消し炭にしてやってるところだぜ」
ギアはぶつぶつ言いながら、口の周りをこすった。
カースは何も言わず、もう一口、ホットチョコレートを飲んだ。
そんな相棒の様子をミラーグラス越しに睨みながら、ギアは、なぜだろう、と思った。
今夜、なぜ、自分はこの男の誘いに応じた?
もちろん、滅多に口にすることもない上物のスイーツを見逃せなかったからだ。
そう……ただ、それだけのこと……
今夜が特別な夜だということには、気が付かないふりをしている。
カースもまた、そのことを意識していないはずがないのに、口に出しては何も言ってこない。
二月十四日。
恋人たちが、想いを伝え合う日――
(……食ったら、さっさと帰ろう)
ややこしいことになる前に。
「そういえばギア、ラヴィ・バーナード監督の最新作が気になるって言ってたよね?」
「あ? ああ……今度のやつは、バトルもんの歴史スペクタクルムービーだってよ。『スパルティアタイ』ってやつだ」
にっこりと笑って、カースが二人分のチケットを取り出す。
「ちょうど、人から貰ったんだ」
(……嘘つけ)
思わず引きつった表情を無理に笑みのかたちに直して、アイスを口に運ぶ。
さあ、どうする?
本物のヴァニラエッセンスの香りのように、心惑わす、繊細な駆け引き。
甘い夜は、まだ、始まったばかり――
【終】