恐ろしい世界
「えっ……そっそれは……!?」
私が無理だと答えようとしたのを察したようにコーデリア姫が遮る。
「できないとか、無理とか言う言葉はいっさい聞きたくないわ。
やれるかどうかじゃない、やるのよ!
差し当たっては、エルファンスに相談してみてちょうだい。
こうなったのは、元々二人のせいでもあるんだから」
強く私に言い含めるようにしてから、コーデリア姫は人を呼ぶためにベルを鳴らした。
一時間後、部屋に備えつけのお風呂に入ってすっきりした私は、下着姿でベッドに座り、じっとエルファンス兄様の様子を伺っていた。
お兄様に相談してみろってコーデリア姫は言っていたけど、口に出したとたん怒られそう。
そんなことを考えながらじっと見つめていると、服をたたみ終わったお兄様は、いきなり私に抱きついてベッドに倒れ込んだ。
「きゃっ」
ランプの灯りを受けて銀髪が煌き、深い青の瞳から熱っぽい眼差しが降ってくる。
「そんな可愛い顔でずっと見つめて、俺を誘っていたんだろう?」
「違っ……んっ、んっ……」
否定の言葉を言いかけたとたん、唇を熱い唇で塞がれ、濃厚なキスをされてしまう。
これまでの経験によると、こういう状態になったエルファンス兄様と、一度として会話が成り立ったことがない。
私はいったん相談を諦め、目を瞑り、素直に身を任せることにした。
幸い激しいキスと愛撫に、あっという間に頭の芯が痺れて来て、憂鬱な役目のこともどこかへと飛んでいった……。
ふっと意識を浮かび上がらせると――ランプは消されていて、部屋の中は月明かりで青白く照らされていた。
優しい手つきで髪を撫でられている気配に、エルファンス兄様が起きていることが分かる。
「……お兄……様?」
身じろぎしながら呼んでみると、
「目を覚ましたのか? ……フィー」
いかにも満足そうな穏やかなエルファンス兄様の声が返ってきた。
かなり機嫌が良さそうだ。
ひょっとしてこの様子なら、今なら怒らないで話を聞いてくれるかもしれない。
甘い期待を抱きつつ、話すだけ話して楽になりたかった私は、ゴクリと唾を飲み込み、口を開いた。
「……あのね……リナリー姫の手紙に書いてあったんだけど……、今の彼女は私の遺体を発見して、相当ショックを受けているみたいなの……」
「ああ、ブロリーの姫か……そういえばなぜか現場にいたな」
お兄様の指は会話しながらも絶え間なく私の髪を撫で続けている。
ここから上手く怒らせないように話を繋げていくしかない。
「そ、それでね……コーデリア姫に頼みごとをされてしまって……」
問い返すまでに少し間があった。
「……どんな頼みだ?」
「ガウス帝国に行って、リナリー姫を慰めて来て欲しいって」
思い切って言うと、ぴくりと反応して、髪を撫でるお兄様の手が止まった。
その時、開いていた窓からスーっと夜明けの明かりが差し込んでくる。
「ガウス帝国に?」
「うん……勿論私は断ったんだけど……お兄様に相談だけでもしてみてくれって……コーデリア姫が……!」
「……」
話しているうちに薄闇の中に見えるエルファンス兄様の顔が、みるみる鋭く、険しい表情になっていくのが見え、それに応じて、台詞は途中から言い訳になってしまった。
やっぱり怒らせてしまった!
「ごめんなさい!」
私は恐ろしくなって逃げるように布団の中に潜りこんだ。
「はぁーーっ……」
しかし聞こえてきたのは怒声ではなく、深い深い溜め息の音だった。
恐る恐る布団から目だけ出してみると、お兄様は彫像のような裸身を起こし、ドカッとベッドの上に座り込み、銀髪をかきむしり頭を抱えているところだった。
「……お、お兄様?」
「――お前は一体何を考えているんだ? 正直、神経を疑ってしまう!
本当に全然分かっていないんだな――分かっていたら絶対に、そんな言葉は口に出せない筈だからだ!」
怒っているというよりもむしろ呆れているような口調だった。
自分でも愚かな事を言った自覚があった私は、しょんぼりした気持ちで言う。
「……私にも……分かってる……今帝国へ戻って、生きていることがバレて掴まったりしたら、今度こそ投獄されて、重い処罰を受けるってことぐらい……」
ところが私の反省の言葉に対するお兄様の反応は苛立ったようなさらなる否定だった。
「掴まる? 投獄? お前は大きな思い違いをしている!」
「えっ……?」
びっくりして見上げたお兄様の綺麗な顔には、冷たい怒りの表情が浮かんでいた。
「お前はどう考えているか分からないが、俺を捕まえたり殺したり出来るような存在は帝国にはたった一人しかいない。
実際、どんな大軍を差し向けられても、お前の大好きな大神官でさえ、俺をどうにかする事なんてできないだろう。
俺が神経を疑うと言ったのは別の話だ!」
「ええっ?」
エルファンス兄様の言っていることが全然理解できなかった。
別の話? 他に何があるというのだろう。
訳が分からずにとまどって見ていると、エルファンス兄様の口から怒りを滲ませた台詞が吐き出された。
「お前はアーウィンの気持ちを全然分かっていない!」
「……!?」
思いも寄らない批判だった。
「あいつがどんなにお前を愛しているか、少しも分かっていないじゃないか!」
あきらかに責めている口調だ。
「……あっ……」
そこでリナリーの手紙に書かれていた記述を思い出す。
アーウィンが私の死に激しいショックを受け、取り乱して泣き叫び、許しまで乞うていたという部分を……。
エルファンス兄様も部屋に駆けつけ、葬式にも出たと言っていたみたいだからその場面を実際目撃したはずだ。
「お前は自分が死ぬことがどれほど周りに影響を与えるか分かっていないんだ。
――ドラゴンとお前の会話から、あのラファエルとかいう王子が異常性格なのは、前身がルーウェリンであるからだと知って納得した。
神話によると最愛の存在を失ったルーウェリンの心は壊れてしまい、闇に染まって、世界とミルズ神に恨みの感情を抱くようになったとある。
それと同じことがアーウィンに起こったとお前は思わないのか?」
「同じこと?」
「俺だって同じだ。お前を失ったら間違いなく、正気を保ってはいられないだろう。
アーウィンだってそうだ。あそこまで深くお前を愛していたあいつがお前を失ったあと、まともでいられるわけがない」
「ええっ……?」
アーウィンがルーウェリンのように壊れてしまったかもしれないという事?
「フィー、勿論、お前の行動の責任も罰も、同時に俺のものでもある。
――葬式の時、アーウィンはお前が床に頭をこすりつけて、何度も何度も俺を愛しているから一緒にさせて欲しいと頼み込んだ話をしていた。
地にひれ伏しアーウィンに最後までお願いすべきだったのは、むしろこの俺だったのに……。
しかし、言い訳ではないが、ミーシャ殿下との婚約を断わったあと、アーウィンが会いに来た際、俺なりに必死に頼みこんだんだ。
お前を諦めて手を引いて欲しいと、もしそうしてくれるなら何でもするし、生涯忠誠を誓って尽くして働くと――しかしアーウィンは絶対に無理だと断った。
他の何でも俺に譲るが、お前だけは譲れないと……。
そう言った時のアーウィンの瞳の揺ぎなさに、俺はどんなに頼んでも無駄だと悟った。
葬儀でもお前の遺体を前に、やはりアーウィンは俺に同じ事を言った――どうしても手放せなかったのだと、お前が死んだ今でも、俺にお前を返せば良かったなどとは思えないのだと……。
分かるか? お前が生きていると知ったら、決してアーウィンはお前を諦めないだろう。
だから帝国方面には絶対にお前を行かせるわけには行かない。
俺が言うのもなんだが、あいつのお前への執着は半端じゃない」
「……!?」
知らなかった。お兄様も私のためにアーウィンに頼んでくれていたなんて……。
何より、アーウィンはそこまで私のことを……。
好かれるようなことをした覚えは全くないし、いつも私の気持ちを無視して、尊大で強引で……。
だけど彼は今回、誰よりも私の死を嘆き悲しんでくれたらしい。
いつだかも私をわざわざ神殿へ迎えに来てくれた。
エルファンス兄様でさえ、呼ばれるまでは来なかったのに……。
私は自分で思っているよりずっとアーウィンに愛されていたのだ。
彼の気持ちを思って胸が切なくなり、自然に涙がこみあげてきて、顔を両手で覆った。
エルファンス兄様が上から私の髪をゆっくり撫でながら、再び語り始めた。
「――この際だから、全部話してしまうが、アーウィンのことを抜きにしても、今は帝国へ戻るにはまずい時期なんだ。
俺が国を出る時、皇帝に挨拶をしに行った話はしたと思うが、その場に不吉な人物がいたんだ。――ダンテという男だ」
全く知らない名前だった。
「……誰?」
「皇帝の腹心であるということ以外は、俺にも良く分からない。
ほとんど表舞台に姿を現すことがない人物で、俺も久しぶりに会ったんだ。
片手の指で数えられるほどしか会ったことはないが、底知れぬ禍々しさとプレッシャーを持った人物だ。
蛇に睨まれた蛙というのだろうか。俺は彼の前だと常に無力感をおぼえる。
たしかダンテの事は俺よりラファエル、あいつの方が知っていそうな口ぶりだったな」
「あっ……!?」
ラファエルの名前が出て、初めてそれがエルファンス兄様の父親の名前だと分かる。
「だが、勘違いして俺が生物学上の自分の父親のことを知りたがっているなんて決して思わないでくれ。むしろ詳しいことは何一つ知りたくない。
お前にも一生ダンテには会って欲しくないと思っている。
たぶんお前が彼と会う時は、お前に良くないことが起こる時だと分かるからだ。
わざわざ挨拶をしてから国を出てきたのも、自分が国の重要人物であり、勝手に国外に出れば追っ手がつくという現実以上に、あいつの存在を恐れていたからだ。
それで俺の挨拶が終わると、皇帝の横にいる奴は言った。
近く戦争が起こるから、それまでにはくれぐれも戻ってくるようにと――」
「戦争が?」
恐ろしい単語に鼓動が大きく跳ね上がる。
「皇帝は以前からこの大陸を統一するつもりでその機会をうかがっていた……。
この時期に俺が帝国へ戻れば、立場上、必ず戦争に駆り出される。
つまり戻ったその足で俺はお前の友達連中を殺しに行かなければならなくなるんだ。
俺はそれはしたくないと思っている。人を殺したくないからじゃない。お前が悲しむからだ。
不思議なことに俺はダンテが近くにいると気配で分かるから、逆のことも言えるはずだ。
どんなにこっそり帰ろうともあいつにはすぐに気づかれ、見つかってしまうだろう」
ダンテの存在も不気味で怖いが、戦争に参加する話はもっと恐ろしかった。
エルファンス兄様がみんなを殺すなんて絶対に嫌だった。
思わず全身に震えが起こる。
「お前も知っての通り、ガウス帝国は他国とは比べ物にならない量の魔石と魔導兵器を所有している。
聖地であるミルズ神殿まであるし、はっきり言って大陸では一強状態で、力が偏り過ぎて不公平なほどだ。
たぶん四カ国が束になってかなわずに帝国が圧勝するだろう。それは俺がいてもいなくても同じことだ。
今までお前にしなかったような話をするのは、お前に今から覚悟して置いて欲しいからだ」
たしかに今まで話してくれなかったこと、弱音すらも全部今、エルファンス兄様は私の前で吐いてみせた。
私は緊張して尋ねる。
「覚悟って、どんな覚悟?」
何だか答えを聞くのが恐ろしかった。
「帝国へ戻る以外は、お前の気持ちを汲んでできるだけ俺も付き合ってやる。
しかし、限界が来たら、全てを捨てて遠くへ行くしかない。
それだけは理解して覚悟しておいて欲しい」
エルファンス兄様はたんたんと事実を告げる。
「……全てを……捨てる?」
コーデリア姫やみんなを見捨てて、去っていく覚悟をしておけというの?
「ガウス帝国出身の俺達が他の国に組して戦うわけにはいかないだろう?
戦争が起こってしまえば、最早、他国で俺達に出来ることは何一つない」
「……あっ」
お兄様の言う通り、ガウス帝国には家族やセイレム様、おさななじみのアーウィンとクリストファーがいる。
いくらコーデリア姫達が大切な友達や仲間でも、他国に組して帝国と戦うなどということは考えられない。
「俺が空間転移装置をあれ以来使わないのも、中に入れてある魔石の力をできるだけ残して温存して置きたいからだ。
いざとなったらあれを使って、二人で出来るだけ遠くへ飛んで逃げるしかないと思っている。
帝国の目的が大陸統一である以上、ドリアだろうと他の国だろうと、やがてこの大陸内に逃げ場はなくなる。
最初、亡命先にドリアを選んだのも、親戚筋の王妃がいるからだけではなく、別大陸行きの船が出ているからだ」
その言葉が本当だとすれば、結構前から、お兄様は色んな事情を考慮して覚悟をしていたのだ……。
なのに私ときたら、何も知らずに、呑気に異性や同性の友達だの、転生仲間だの、パジャマパーティーだの、馬鹿みたいに浮かれていた。
ゲームシナリオを知っていたがら戦争のことなど考えもせず、アーウィンが他の女性と結婚してほとぼりが冷めたら、簡単に帝国へ帰れる気ですらいたのだ。
ここまでずっと甘い考えのまま、何一つ捨てる覚悟などしてこなかった。
そこで上から手が伸びてきて、エルファンス兄様の温かく大きな手が、私の両頬をくるむように挟んできた。
「俺はお前だけがいれば他の何もいらない。
お前はどうだ? 俺と二人だけでは嫌か?」
探るような眼差しとどこか不安そうな口調でエルファンス兄様に問われる。
不安になるにも当然で、思い返してみれば私は今まで、もう離れないと誓っては幾度も約束を破ってきた。
何度もお兄様の気持ちを裏切り、踏みにじってきたのだ。
自分の不甲斐なさと、エルファンス兄様の深過ぎる愛に、涙が零れ落ちた。
「ううん、そんなことあるわけない」
愛情の滲んだ深い青の瞳を見返し、頬に添えられたお兄様の手をぎゅっと握ると、友や大切な人を全て見捨てても、絶対にこの温かい手だけは離したくないと思った。
「本当だな?」
「うん、今度は私がお兄様の選んだ道についていく」
リナリーには悪いけど、コーデリア姫にはきっぱり断わろう。
この話を聞く限り、ガウス帝国に彼女が長居すること自体が無意味なのかもしれない。
そこまで私を想っているアーウィンをリナリーが簡単に攻略できるとは思えないし、セイレム様だってそうだ。彼は一途に長く相手を想うタイプだから、私を想っている今の状態だと攻略するのは難しい。
どう考えても私の存在が彼女の計画を全て台無しにしてしまっている……。
しかも、今のお兄様の話だと戦争が起こることはすでに決定事項なのだ。
この局面に至ってはリナリーやコーデリア姫には自国で戦争に備えるように言うべきなのかもしれない。
この先の戦争展開を想像するだけで、大きな抗えない渦に巻き込まれていくような恐怖を感じる。
リナリーが言うようにこの世界は私が考えているよりもずっと恐ろしい世界だったのだ
「怖い……お兄様……私」
「大丈夫だ……お前だけは俺が守る……」
熱いささやきとともに、震える私の身体の上に再びお兄様の熱い肌が重なってきた。
私はしがみつくようにその背中に腕を回し、渦巻く恐怖や不安に流されて行きそうな心を、身体ごと全てエルファンス兄様に預けて委ねることにした――