出発前の一時
棚ぼた的にファン・ディスクの飛行イベントを回収し、天空でエルファンス兄様と生涯を誓い合い、旅の行き先も決まったその夜。
カークやキルアスと相部屋だった関係で、ここに来てから身体を拭くだけだった私は、寝る前に湯浴みしてさっぱりすることにした。
身体もそうだけど、特に数日洗っていない頭が痒い。
といっても、ラウルの店には浴室がなく、荒野に建っているので近くに公衆浴場もないので、部屋に設置してあるタライを使用しての入浴になる。
そのタライも腰ぐらいの高さしかなく、お湯に浸かるというより流し洗いするためのものだった。
宿に帰ってすぐに頼んでおいたお湯は、こちらの「夕食後」という要望通り、食事を終えて部屋に戻った時にはすでに用意されていた。
「恥ずかしいから、見ないでね」
お願いしてから私はエルファンス兄様に背を向け、タライが置かれている部屋の隅で服を脱ぐ。
まずは上半身だけ裸になり、長ったらしい黒髪をタライの上に垂らして、お湯に浸して丁寧にもみ洗いしていると――すぐ背後から人の気配を感じる。
「……な、何っ……!?」
焦って胸を隠して振り返ると、下着姿のお兄様が立っていた。
「……髪を洗うのに手間取っているみたいだから、手伝おうかと思って……」
驚くべき申し出に私は動揺する。
思えば神殿にいた頃もしきりにセイレム様に世話されていたし、昨日から食事中や着替えでお兄様にも世話をされっぱなしだった。
もしかしたら私からは、何か世話したくなるようなオーラでも出ているのかも!
だけど、さすがに湯浴みまで手伝って貰うのは抵抗があった。
「だ、大丈夫だから、あっちへ行ってて、お兄様っ」
「……待ちきれないんだ」
しかしエルファンス兄様は去らず、焦れたような表情で私を見下ろし続ける。
その熱っぽい飢えような眼差しから、お兄様も早く身体を洗いたいという意味の「待ちきれない」ではないと、さすがの私にも察することができた。
思わずドキマギして見上げていると、さっとエルファンス兄様の腕が伸びてきて、強引に私の髪を掴んで泡だて出す。
押しに弱い私はそれ以上拒否できず、髪どころか流されるままに身体までお兄様に洗われ――髪が濡れた状態で浚うようにベッドへと連れて行かれた。
「フィー、すまない。激しくし過ぎてしまって……」
どうやら抱かれている途中で失神してしまったらしい、再び、目を開けると寝台に並んで横たわるエルファンス兄様が申し訳なそうに謝ってきた。
「……大丈夫……」
弱弱しく答えてはみたものの、全身ぐったりして力が入らず、全然大丈夫じゃなかった。
「長い間、お前に飢えいたので、つい抑制がきかなくなるんだ」
間違いなく、そこまでお兄様を飢えさせていたのは私の責任――
「……私こそ、今まで長く我慢させてきてごめんなさい……」
心から謝罪すると、エルファンス兄様はふっと笑い、
「その分は、これからたっぷりと埋め合わせして貰うから、気にしなくていい」
片腕で私の頭を抱き寄せ、こめかみに熱い唇を押し付けてきた。
――しばらくお兄様の肩に顔を埋めてから、おもむろに質問する。
「……埋め合わせといえば、お兄様……魔導省の長官にまでなったのに……私のせいでごめんなさい……。
公爵位の継承権も譲ったままだし……私が、お兄様の出世も地位も台無しにして……」
「そんな事はいいんだ」
「だって長官の地位になるために、今まで、いっぱい努力して来たんでしょう?」
罪悪感に涙がこみ上げてくる。
「そうでもない……。お前がいない寂しさを紛らわせる為に魔導の研究に没頭していたら、いつの間にか出世していただけだ……」
お兄様はそう言うけど、どうしても訊かずにはいられなかった。
「後悔していない?」
優しい手付きで私の髪を撫でながら、エルファンス兄様は静かに語り出す。
「後悔か、そうだな……。弟のグリフィスが亡くなった時、俺は酷く後悔した。
あいつが笑いかけても話しかけても、無視ばかりしていた自分に対して……。
もしもこれから俺が後悔する機会があるとしたら、出世とか栄達ではなく、そういうことだ――大切な存在を、そう扱わなかったことを一番に悔いるだろう――
もう二度と同じ過ちを犯して後悔をしたくないからこそ、今俺はこうしてお前と一緒にいるんだ、フィー。
まあ、その前に、お前無しでは生きていけないがな……」
苦笑するお兄様の横顔を見つめ、感動の涙をこぼし私も訴える。
「私も……お兄様無しでは生きていけない」
温かい大きな手が頬をくるんできた。
「フィーは実際、一度、自ら心臓が止めて死んだらしいしな……」
その言葉に私は少し驚く。
「そこまでセイレム様は話したの?」
「――まあな……。フィー、頼むから、もうあんな馬鹿なことはするな――もしも死ぬ時は二人一緒だ……」
「うん」
頷き、エルファンス兄様の胸に顔を埋めた私の頭の上で、苦しげな声が起こる。
「駄目だ、また我慢出来なくなった」
と、次の瞬間、両肩を掴まれ、仰向けにされて身体の下に組み敷かれた。
「……お兄様……」
すぐ真上から深い青の瞳で見つめられると、あっという間に全身が火照ってくる。
「フィー、気が狂いそうなぐらい、お前を愛してる……!」
「私も愛してる……エルファンス兄様……!」
――結局その晩も、旅立ちの前日だというのに、あまり休むことが出来なかった……。
翌日、朝食の席で顔を合わせたカークはやっぱり不機嫌だった。
「いい加減にしてくれよ! 壁が薄いと言っただろう? おかげで二日連続寝不足だ!」
「新婚だからしょうがないんだ」
朝食を食べながら、エルファンス兄様が悪びれずに言う。
私は恥ずかしさに涙目でうなだれるしかなかった。
早起きしたらしく、すでに朝食を終えてお茶を飲んでいたキルアスが、観察するように私達を眺めて尋ねる。
「そういえば気になっていたんだけど、フィーはエルを兄様って呼ぶけど、二人はもしかしたら兄妹?
あ、勘違いしないでね、だからと言って批判する訳じゃ無いんだ。良く見たら目の色が全く一緒だから……。
帝国を出て来た理由もその辺にあるのかと思って……」
さ、さすがに近親相姦疑惑は否定しとかねば!
「違うわ! 血は繋がっているけど、両親は別よ」
「そうか……という事は親戚なんだね。変なことを訊いて、ごめんね」
謝るキルアスをいつもとは逆にカークが呆れたような顔で見る。
「一緒に育った兄妹で、普通そんな気になる訳ないだろう?」
横でその言葉を聞きながら、義理の兄妹として一緒に暮らしていたことは黙っていようと心に誓った。
キルアスはさらに私達の話題を引っ張った。
「二人は結婚式はどうするの? これからだよね?」
「国に帰ることがあったらその時にしようとは思っている」
エルファンス兄様は答えながら、食事の手が進まない私を気づかうように、パンを千切って口の前へ差しだしてくる。
人前で食べさせられるのは恥ずかしいので、一度受け取ってから口に入れる。
「その時は呼んで欲しいな」
「おう、俺も参列してやるぜ! ガウス帝国に一度行ってみたいし」
結婚式を挙げられる日が来るかどうかはともかくとして、二人の気持ちは嬉しかったので素直に「ありがとう」とお礼を言った。
朝食を済ませると、ラウルの店に別れを告げ、いよいよ王都へ向けて出発だった。
馬の背の前側に乗せて貰い、後ろ側に座るエルファンス兄様に手綱を任せる。
「フィーって馬に乗れないのか?」
たてがみのような赤い髪を靡かせ、並んで馬を走らせるカークが訊いてきた。
「……実はそうなの」
前方を走っていたキルアスが亜麻色の髪を揺らして振り返る。
「もし良かったら教えてあげようか? 俺は歩き出すより先に馬に乗っていたんだ」
キルアスの親切な申し出に、エルファンス兄様が不愉快そうな声をあげる。
「俺が乗れるんだから、フィーが習う必要はない」
「でも、エル……」
「ありがとう、キルアス。このままで大丈夫なの」
だってこうして二人乗りする方が、お兄様の呼吸や温もりを感じていられるし、時々キスもして貰えるから、どう考えても自分で馬に乗れるよりずっといい。
思考の基準が全て愛するエルファンス兄様になっている私は、今日も恋の微熱状態だった。
ラディア王国の王都グランスールに到着するには、三つの町を通り過ぎなくてはいけない。
私達はそれぞれの町で一泊づつして、三日の行程で到着する予定だった。
荒野を抜けて街道に入ると、自慢気にカークが語る。
「この道は行軍用に敷かれたんだ」
何でもラディア王国は辺境から王都まで整備された道で繋がっているらしい。
「ねぇ、最初に着く町はどんなところなの?」
興味しんしんに尋ねる私に、キルアスが丁寧に説明してくれた。
「シャビールは市場や露天で賑わった交易の町で、異国の珍しいものが色々売っている楽しいところだよ。
ただ、少しだけ治安が悪いから、荷物や馬から目を離さない様に気をつけた方がいいかな」
「異国の人間が多いと、どうも治安が乱れがちになるんだ」
カークが王子らしい憂いた調子で言った。
「市場! 露天!」
治安が悪いという部分は耳に入らず、二つの単語に私は反応した。
前世の記憶を思い出してからというもの、自慢じゃないけど買い物すら行ったことが無いのだ。
ずっと屋敷に引きこもっていた次は神殿での軟禁生活で、それが終わると皇宮に閉じこめられていた。
ここに来て、やっと訪れた自由と外の世界の空気に、つい心躍らずにはいられなかった。
セイレム様のおかげでたくさんお金も持っているし、色々買い物しちゃおう。
「嬉しそうだな。フィー」
エルファンス兄様が耳元で話しかけたきた。
「うん。買い物するのが楽しみ」
「何を買うんだ?」
「食べ物とか、あと、動きやすそうな服も欲しいかも」
それとお兄様と二人きりの時に着替える、可愛い夜着が欲しいかも。
「いいや、動きやすい服より、このローブの方がいい。
身体のラインが隠れるし、お前の豊満な胸が分かりにくいからな」
エルファンス兄様の服選びの基準がどうも理解出来無い。
そんなたわいもない会話をしているうちに民家がまばらに見えてきて、いよいよシャビールの町が近づいてきた。