いつか見た景色の先へ
「セイレム様!」
光とともに現れたセイレム様は、とても大きな白い袋を抱えていた。
彼はそれをいったん床に置き、こちらへ両腕を伸ばして広げてみせた。
それを合図にして私は泣きながら、懐かしくも安心する大好きな人の胸の中に飛び込んでいく。
セイレム様は私を両腕でしっかり抱き止めると、よしよしと慰めるように頭を優しく撫でてくれた。
「フィー、だいぶ辛い目にあったようですね。可愛そうに」
「……私っ、もうどうしていいか……どうしていいか分からなくて!
私のせいで何もかもが最悪な方向へ行ってしまって……!」
嗚咽しながら顔を上げ、水色の瞳をすがるように見上げ、苦しい胸に内を吐露する。
セイレム様は頷きながら、神殿から帰ってから今まで起こった出来事を一通り静かに聞いてくれた。
「――教えて下さい。私はいったいどうしたらいいんですか?
どうしたら全てを元に戻せるんですか?
私が死んでどうにかなるならそうするのに、それだときっとお兄様が私の後を追ってしまう!」
いつか神殿に来た時に、寝たきりになった私の前で、たしかにお兄様は一緒に逝くと言っていた。
セイレム様は長い繊細な指を自信の絡め、しばし考え込むような仕草をしたのち、おもむろに口を開いた。
「実は私も色々考えてみたんですよ。と言うのもクリストファーが珍しく私に相談に来ましてね。
なんでもこのままいくと、あなたの兄君は世界を滅ぼしかねないとか……。
たぶん彼にとってもエルファンスは大切な存在なのでしょう。
ぎりぎりまで皇帝である父に言わず、どうにかしたい様子でした。
たしかにその懸念もその通りで、魔導省のトップになったエルファンスはあまりにも危険な存在だ。
兄上――陛下が、なぜ彼のような人物をトップに据えて実権を握らせているのか、私には到底理解出来無い
その立場と元々持っているエルファンスの類まれなる才能と能力が合わさる事によって、初めて恐ろしい脅威となり得るのですから」
「……そんなに……?」
「ええ、そうです。残念ながらそれに対抗する力は、私の治めるミルズ神殿にすらないと言っても過言ではありません。
ミルズ神殿は聖遺物などの神にまつわる貴重な宝物は所有してはいますが、聖属性や光属性に特化した術を扱う施設です。基本的に戦闘向きではないのです。
ミルズ神殿が大量に保持している聖石にしても所詮は力の増幅装置でしかない。
それ自体が強い力をもった強力な魔石は全て魔導省の管轄にあります。
あそこの実権をエルファンスのような者が握るという事は世界を滅ぼす力を得るも同然。
クリスの懸念が当たれよば、このまま行くと大変な事になってしまう。
帝国を壊滅させないまでも、私の兄弟や大切な人が住まう皇宮やその一帯ぐらいは吹っ飛ばしかねません。
それは私にとっても絶対に起こっては欲しくない現実です
フィーネ、あなたもそういうのは見たくないでしょう?」
私は力いっぱい頷く。
「絶対に、見たくありません!!」
「そうでしょう。そうでしょう」
セイレム様も満足そうに頷く。
「それでこれの登場です」
にっこりと笑ってそう言うと、屈んで先ほど床に置いた袋を掴み、その口を開く。
と、なんとその中から長い黒髪の人間の身体のような――というか、どう見てもその物を取り出した。
「きゃあっ、それ遺体ですか?」
悲鳴を上げて飛び上がって見る。
「違いますよ、これは私が三日三晩寝ないで練って作った土人形です。
細部まで完璧にあなた似せて作ってあります。
あなたをこの世で誰よりも一番に愛している私だからこそ作りえた、自信作にして最高傑作です」
セイレム様はその出来栄えを自慢するように持ち上げ、回しながら人形の身体のあちこちのを見せてくれる
水のように艶やかな黒髪に、薔薇の色素を落としたような可憐な唇、長い睫毛を伏せた美しく愛らしい顔。
豊満な胸にしなやかな肢体。
本当に私とうり双つとしかいえない姿がそこにある。
セイレム様は人形を披露したあと、それをベッドの上に運んで横たえた。
そして今度は皮袋から小道具を取り出してみせた。
「これは豚の血が詰まった袋と、小剣です。これらはこう使います」
実演で示すため、私に似せた土人形の心臓のあたりに上から小剣を突き立てた。
さらに続けて豚の血を振りかける。
「ほら、こうすると、あなたが自害しているように見えるでしょう。
安心して下さい。解剖しても本物の人体にしか見えないように作り込んでありますから。
死者には回復術は通じませんから、死んだあなたを復活させる事は諦めるしかないでしょう」
たしかにこれなら私が死んでいるように見えるし、入れ替わってここから抜け出せるだろう。
「だけどそれだと……お兄様が……っ!」
エルファンス兄様が私が死んだと思い込んで後を追いかねない。
「それについては私がなんとかしましょう」
「本当ですか?」
「ええ、誓います。
さすがにアーウィン殿下と婚約が成立している今の状態では、公には私も神殿へはあなたを匿えません。
皇帝である兄上もそこまでの勝手は許してくれないでしょう。
だからこの遺体もどきを置いてここから逃げるのです」
「でも私が死んだら、公爵家はどうなるんでしょうか?」
「どうにもならないと思いますよ。
なんだったら婚約が嫌なわけじゃないと遺書でも書いておいてはいかがですか?」
「遺書?」
「色々体面がありますからね。
遺書に書く文面は何か思いつきますか?」
「あ」
私は机の方へ歩いて行くと便箋と羽ペンを取り出し、短い遺書をしたためたあと読み上げてみせた。
「私は醜くなるのがいやなので、美しい姿のうちに死にます。
一番美しく愛されている幸福なうちに死にたいのです」
「変わった遺書ですね」
セイレム様の言う通り変わっているけど、ある意味一番自分というか、フィーネらしい文章のつもりだった。
「さて、それではいよいよ逃げた後の話になりますが……その前に移動しましょう」
セイレム様は私の身体を両腕の中に抱え込むと、大きく杖を振り上げ、呪文を詠唱した。
するとすさまじい光に巻き込まれて目が眩み――次に視界が戻るとそこは別の建物の中だった。
セイレム様に抱きしめられたまま、大きく透明な円盤状の板の上に乗っていた。
やはり透明な円柱が周囲にぐるっと並んでいる不思議な空間だった。
「ここは?」
「最奥殿の地下にある聖石で出来たサークルです」
そう言うと、セイレム様はがくっとその場に膝をついた。
「だ、大丈夫ですか?」
「転移術はかなり力を消耗するのです。
自分が往復するのとあなたと一緒に移動するのにかなりの力を消費しましたから……私はしばらく、ろくに力を使えません」
そんなに激しく力を消耗するものなんだ。
「心配しないで下さい、そのうち回復しますから――それで、先ほどの続きなのですが……あなたはこのまま再び神殿で私と暮らす気はありますか?」
「……それは……っ」
返事ができず口ごもる。
そんな私を見下ろしながらセイレム様は深い溜息をついた。
「提案なのですが、もしもそれが嫌なら、旅に行くのはいかがでしょうか?
八方塞がりの時に旅に出るのは、なかなか有効な手段だと思いますよ」
「旅?」
予想もしなかった提案にびっくりしてしまう。
「事態の収拾をするために力技を使う方法もありますが、それではあなたのお兄様とやっている事が一緒になってしまう。
最奥殿から出ないで隠れて暮らす事も出来ますが、その顔を見ると、あなたはもう戻りたくはないでしょう?
何にしろ、命がけでここから出たんですからね」
私はうんうんと頷いた。
多分、ここに戻れば今度こそ、私はセイレム様の魅力に抗えなくてエルファンス兄様を裏切ってしまう。
「私も再び一緒に住むようになれば、今度こそあなたを二度と外には出したくなくなる……。
そうしてまた力づくでもあなたを自分の物にしてしまいたくなり、それではいつかの繰り返しになってしまう」
「セイレム様の言う通りです……」
私が肯定すると、セイレム様は微笑みながら頷いた。
「さて、いつかの授業で、神殿にはいくつかの聖遺物がある事は教えましたね。
その中にこういう物があります」
言いながらセイレム様は懐から黄金に輝く羽を取り出し見せる。
「羽?」
「地上に降り立った神には大きな翼がありました。これはその羽の一枚です。
転移術は空間を繋げる術なので、物凄い量の力を消費する高度な技でしてね。
繋げる空間と空間の距離の間が空くほど、より大量の力が必要になるのです。
ご覧のように、私の能力を持ってしてもあなたをそんなに遠くに飛ばせる事は出来ません。
だからこれを使って下さい。この神の羽は、あなたは一瞬にして遠くの地へ飛ばしてくれるでしょう。
ただし、この聖遺物は世界にたった一つしかない貴重なもの。帰ってくる時には使えません。
たぶん一回の使用で中に宿った力を失い、ただの羽になると思います」
「そんな貴重な物を私に下さって大丈夫なのですか?」
「私にとってあなたより貴重なものなどありません。
私がこの神殿の最高責任者でいる間は、持ち出しても発覚する事はないでしょう。
あなたはいつか物見の塔で遠くの世界を見てみたいと言った。
今がその時ではないでしょうか?
フィー、今こそ世界を見て回るといい。
そうして色々見てきたら、あなたは私がいかに得がたい存在であるかが分かるでしょう。
だから待っています。あなたがいつかこの腕の中に帰ってくることを……」
知らない土地に飛ばされるのは凄く不安だけど、ほとぼりが冷めるまで遠くへ行くのはいいのかもしれない。 少なくとも最悪の事態は回避できる。
だけどすぐに思い切れない面もあった。
「でも、家族やお兄様をとても傷つけてしまう……これは酷い行いではないのですか?」
「それならそれで、ぼとぼりが冷めた頃に戻って、謝ったらいいじゃないですか」
「……戻って? 謝る?」
そんな事が出来るの?
「タイミングについては、アーウィン殿下と他の女性との成婚後ではいかがでしょうか?
皇帝になる予定の者は早く世継ぎをもうけなくてはいけないので、二十歳前に婚姻を結ぶのが慣例です。彼は今18歳になるところなので、間違いなく2年以内に皇太子妃が立つでしょう。
その後に戻って来たら良いのでは? 逃亡罪については、不門になるように、なんとか私が取りなしてみせますから」
戻ってこられる?
アーウィンが結婚したらこの国に再び?
そうしたらお兄様にまた会える?
「心は決まりましたか? もちろんこのまま神殿に残ってもいいですし、あくまでも選ぶのはあなたです」
もう、ここまで言われては迷う必要はない。
「セイレム様……私、行きます!」
結局これも前世からの逃避癖ゆえの、逃げるだけの行為かもしれない。
それでも今ここから出て行かなければ、もっと最低な自分になってしまう。
「では、しばらくお別れですね」
「はい。それとこれをお返しします!」
私は手に握ったままだったペンダントを彼の方へと差し出した。
「これは持っていて欲しかったんですけどね」
「ごめんなさい。セイレム様……」
このペンダントを持っていると、またセイレム様に甘えてしまい、また困った時に呼んでしまいそうだったから……。
それでは神殿で囲われている状態と何も変わらない。
「分かりました。でしたらそのかわりに、これを授けます」
そう言うとセイレム様は、なんと大きな聖石の珠がついた自分の杖を私に手渡して来た。
「こんな大切な物は貰えません!」
あわてて返そうとする私の手を押しとどめ、
「貰ってくれないと心配過ぎて行かせる事が出来ません。
さあこの杖に刻まれている持ち主の魂の名をあなたに書き換えましょう」
と、セイレム様はぶつぶつと何かを呟き、空中に術式を書くようにしてから、その指先をすっと杖に当てた。
私は素直に杖を受け取り、大切に手に握り込む。
「それと、この革袋に必要な物を色々詰めておきましたから、これも持って行きなさい」
ここまでして貰っては、もう感激で胸がいっぱいで、お礼の言葉もない。
「何から何までありがとうございます。どうやってこの恩を返したら……」
「そうそう、一番大切な物を忘れてました」
セイレム様は最後に袋からまた何かを取り出し、私の顔へそれを装着した。
「これは?」
「眼鏡です。人前で決して外さないように、分かりましたね?」
「分かりました!」
なんだか分からないけど、何かお考えがあっての事だろう。
大切な物みたいだし外さないようにしよう。
「ありがとうございます! では、もう行きますね。
これ以上ここにいると、決心が鈍りそうですから……」
すでにセイレム様の優しさがもう心に染みすぎてて、去りたくない気持ちがどんどん高まっていた。
「わかりました。では、このサークルの中央に立って下さい」
「はい!」
私を促すと、セイレム様は聖石の円盤の上から降りた。
「セイレム様……」
最後に私はその美しい青銀の髪や、美しいお顔、水色の澄んだ瞳を名残惜しく見つめる。
「行ってらっしゃい、フィー」
「行って来ます!」
思い切ってサークルの中央に立つと、セイレム様が詠唱を唱え出し、それにあわせて私も唱和した。
やがて手中の羽からまばゆい光が出現し、私の全身を包み込む。
――そうして私は光にくるまれ飛んでいった。
はるかはるか遠く、いつか見た景色の先へと――